いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

熱海の自転車

 三か月前になくなった私の自転車が熱海で見つかった、とお母さんに電話があったのが昨日の夜のこと。こういうとき取りにいかなきゃなんだって、と警察から説明されたお母さんが私に言った。どうしよっかという空気になって、お母さんと私、どちらからともなく「明日行っちゃう?」と提案していた。学校があるのに、仕事があるのに、休んで自転車を取りに行っちゃう? なんだかちょっとわくわくして、普通の木曜日、お母さんとふたり熱海に向かった。
 車の中では私のiPhoneをカーステレオにつなげて音楽を聴いた。ときどきお母さんが「これ誰?」「これなんて曲?」と訊く。「言ってもわかんないよ」とか言うと「あーそうですかそうですか」なんて言って大げさにため息を吐くから、私もお母さん自身も笑ってしまう。行く道の半分くらいは海沿いを走った。少し窓を開けるとボボボボと風が暴れているのが聞こえた。海はずっと奥の方が微妙にまるくなっているのが本当に好きだ。
 ちょうど眠くなってきた頃に熱海に着いた。海が見える駐車場に車が停まり、ドアを開けるとやはり少し風がつよい。ウインドブレーカーのチャックを閉めながら「お腹空いた」と言ってみる。お母さんがスマホを見ている。せっかくだから海の物食べよう、海鮮丼とかき揚げ丼どっちがいい? と訊かれた。「えー二択なの?」と言いながらもかき揚げを選ぶとお母さんは先に立って歩き始めた。坂を登り、カーブした道路に面したお店に入った。
 和風な店内の小さな席に着き、特製かき揚げ丼を頼んでから、「仕事休んで平気だったの?」と訊いてみるとお母さんは「まぁね」とテレビの方を見ながら答えた。湯呑みに口をつける。ほうじ茶の濃い匂いがする。お茶はかなり熱く、湯気を吸ってるのかお茶を啜っているのかよくわからない感じがした。特製かき揚げ丼のかき揚げは余裕で丼をはみ出す大きさでお母さんと「うぇー?」とか「やばー」と声をあげて笑った。お母さんが写真を撮りたがったので、私ので撮って送ることにする。お母さんのスマホで撮ると画質が悪いのだ。
 ふたりともほぼほぼ完食して店を出た。お腹がいっぱいだった。お店の少し先にお土産屋さんが並ぶ商店街があったけど満腹でお父さんへのお土産を選ぶ気にもなれなかった。「もうこれでよくない?」と店の外に並んでいる十個入りのお饅頭を指さすと、お母さんも「あーいい、いい。おいしそ」と適当なことを言う。
 本当は大きめの会議があるの、と海へ向かって坂を下りながらお母さんが言った。お母さんの嫌いな上司が来る日でさ、だから思い切ってサボってみた。私は「へー」と言い、少し恥ずかしそうなお母さんの横顔を見る。お母さんを毎日見てるけど、少し顎のラインが丸くなったと思う。どうしてもダメなときは逃げな、と私を見て言う。私は、そのどうしてもがむずいんだよなと思いながらも、
そうだよねと呟く。 

 駐車場の先、コンクリートの階段の下から砂浜になっている。もっと海の近くまで行きたかった。風を受けながら半分だけの貝殻とか木の枝、干からびた海藻を踏みつけて歩いていると、孤独な旅人になって荒野を進んでるみたいだった。波からまだ少し距離のあるところで横を見ると、十メートルくらい離れて白髪頭で顔の小さいおじいさんがしゃがんでいた。透明な袋からなにかを取り出している。おじいさんは立ち上がり、こちらを見てにこりと笑って袋から取り出したものを海の方へかざした。するとバダバダバダと頭の上から音がして、私は思わず身をすくませた。それが羽音だと気づいたときにはおじいさんの手元に白というか灰色の鳥たちが集まっていた。鳥たちがおじいさんの手のひらを忙しなくつついている。
「嘘でしょ」私は思わずつぶやいた。こういうの鳩でなら見たことあるけど。
「やってみるかぁ?」おじいさんがまた私を見て言った。見かけより大きい声を出す人だ。
「なんですか、なんの鳥ですか?」私も大きめの声で訊く。「わからない!」おじいさんは答え、更に餌を取り出そうとして、今度はその袋ごと鳥に狙われた。また一羽増えた鳥でおじいさんの上半身はよく見えなくなった。
「怖くないんですか?」と訊いたけどおじいさんは答えなかった。答えているかもしれないけど鳥と波と風で聞こえない。
「なにしてんの」といつの間にかお母さんが後ろにいて、私の腕を引っぱった。おじいさんからどんどん遠ざかっていく。「なにあれ」
コンクリートまで戻ってからお母さんが言った。私はへらへらと笑ってしまった。お母さんもちょっと笑っている。それから「ああいうときだよ、逃げるのは」と言った。
 自転車はどうも誰かに盗まれ、乗り捨てられたらしい。警察に案内された大量の自転車置場に私のもあり、鍵がないのとタイヤの空気がかなり減っていたけど故障はなさそうだった。横浜からここまでチャリでってこと? 私は呆れたけど、同時に「その発想はなかった」と思った。考えてみれば陸は続いてるんだからどこまも行けるはずだった。なんか少しだけ安心する。
車まで持っていく途中でお母さんが「乗らして」と言った。三万年ぶりに乗ったみたいにふらふらしてて笑う。空が青く膨れた風船みたいで、海はまた別の青さでしぼんでいる。目を戻すと、百メートルくらい先でお母さんは止まって私を待っていた。
あそこまで行ったら、めちゃくちゃ好きな人とめちゃくちゃ嫌いな人がいることを話そうかなと思った。話さなくてもいいけどとも思う。
いまはどこからかカレーの匂いがしている。路地でもないのに不思議だ。