いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

2023/0312クリープハイプ幕張メッセ

初めてクリープハイプのライブに行ってきた。

元々彼女が熱烈なファンで(と言うと彼女は「ちげーし!」と否定するけど)、どんなバンドなのだろうと聴いてみて見事にハマった。僕はあまり付き合った人のおすすめとかにハマれたことがなくて、とても寂しかったんだけど、今回はちゃんと好きになれた。

 

それでも自分の中の熱量ははかることができずにいた。自分の「本当の気持ち」というやつがいつも分からなくなるから、好きな人が好きなものだから好きだと思い込んでるんじゃないかとか、疑っても意味のないことを考えてしまうのだ。

だからなのか、ライブ会場に着くのもめちゃくちゃギリギリになってしまい(海浜幕張って舞浜の隣くらいだと思ってた)、ライブの幕が開くその瞬間まで期待とか不安とかではない、漠然とした気持ちでいた。

 

けれど一曲目のイントロが始まった途端、僕のなかに稲妻が走った。古典的な比喩かもしれないけど本当にそうだった。「おれこのバンド大好きじゃん!」という実感が突然降りてきた。それがとても嬉しくて、その曲の途中から泣いていた。めちゃくちゃ新参者だけど、そのカッコよさは新参にも古参にも(という呼び方はなんかアレだけど)等しく「どう見たってカッコよすぎるもの」として映ったはずだ。

 

ライブ中、不思議といつもライブや映画を観るときみたいなメタ的な考え(余計なこと)が浮かばなかった。なんでなのか本当によく分からないけど、いま目の前で起きてることに集中できている感じがした。クリープハイプは、というか尾崎世界観という人はいつも自分たちのことを俯瞰していたり、可視化しにくい「敵」と闘っている印象があったのに。

今日、目の前にいるクリープハイプというバンドは今ここに集っている人たちのためだけに演奏しているんだという説得力があった。きっといつもそうなのだろう。

もちろんライブをするミュージシャンはみんな当然そうだとは思うけど、でもなんだか異質な、とてつもなく真剣なバンドが二時間そこにいたという記憶として、この日のライブは自分のなかに残る気がしている。目の前の光景を慈しむように眺めながら尾崎さんはよく笑っていた。

ライブが終わって駅に向かいながら彼女や友人と喋りながらも、足湯に浸かっているようなぼーっとした気持ちでいた。

本来なら3年前にしているはずだった今回のライブ。でもこのライブがもし3年前に行われていたら、まだ彼女にもクリープハイプにも出会っていない僕はこの気持ちを味わうことがなかっただろう。そう思った僕の胸に去来してたのはなんだか安堵の気持ちだったように思う。当然3年前にはクリープハイプもファンもたくさんの失望や悔しい気持ちがあったにちがいない。でも、ごく個人的なレベルでは、コロナ禍のおかげで今日の日があったのだ。素直に嬉しい。