いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

虹をわすれること

大切なことなのにキスをしてる途中で思い出したから、すぐにつぶやいて脳に刻むことができなかった。接したままの唇が僕の動きに合わせて動いていた。お互いを食べようとしてるみたいだった。キスが終わって唇が離れたとき、僕は「さやかのことが好き」とようやく言った。さやかは目を丸くして「えっ急に?」と言った。「そんなのずっとそうじゃん」とさやかは続けた。僕はその言葉にとても驚いて、でもそうだったんだなと思った。「私もずっとそうだし」とさやかが目を逸らして言った。僕は彼女のシャツの襟元に鼻を近づけた。かすかに香水のような匂いがしたけど、洗剤かもしれなかった。僕らはそんな風に久しぶりに告白し合ったから全身がちょっとムズムズしたというように服を脱いだ。自分の服は自分で脱いだ。消しゴムのカバーを取ったみたいにお互いの肌が露出した部分よりも白い。季節はいつでもいいが夏だった。手をつなぎながらもう一度キスをする。

なんでだろう。忘れるってことがないから逆に見えにくくなっていて、近づきすぎた壁画は全然なんだかわからない。細部のことが全部につながっているというのは少し気味が悪いけれど、好きだというのはそういうことなんだと思う。虹をふたりで見たことがあって、虹はすごくくっきりとしていて三階建てのスーパーマーケットの屋上の辺りから生えていた。虹のほとんどを見るのは初めてだった気がした。わからないけど、多分そうだと興奮した。樹一は窓枠に両肘をついて身を乗り出していた。だから大きな窓だったと思う。そうか、大学の北館の階段の踊り場か。虹はつまり、空気中の水分が太陽光に照らされているということで、輝いてる虹がえらいのか、太陽光がえらいのか微妙なところだという話をした。話してるあいだ樹一が持ってるマックの袋からポテトの匂いがすごかった。ポテトは食べる前から食べてるような気分になる。誰もいない階段で、手の側面が触れていた。なんかさ、そういうときのことを覚えてるのは脳なのか? 細胞そのものなのか?

帰り道、ボウリング場のあかりが屋上のゴリラを照らしていた。下からのライトアップは怖いという話をした。さやかはサンダルで僕の足を二回踏んだ。歩くの遅いよ、と言うけど、そもそもなんで前後になって歩いているんだっけ。それで思い出す。僕はさやかのことがずっとずっと好きで、でも思い出せるのは現在より過去のことだから、一秒後のことすらよくわからない。それでまた僕は思い出すだろう。それでさやかがずっとそうじゃんって言ってくれるはずだ。はずなのか? こういう信頼をさやかはどう思っているのだろうか。ずっとってなんの保証もない。それは誰もがそうなのだ。みんなどうやってこの先を歩いているのか? 屋上のゴリラの後頭部は照らされていない。大きな黒い背中だ。バスロータリーには結構人がいた。暑いなぁとさやかが言う。僕はちょっと泣いていた。バレないように気をつけて手をにぎる。ずっとにぎってたはずなのに、いま確かににぎったのだ。