いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

七里ヶ浜

  髪を切った。しばらく伸ばしてパーマでもあてようかと思っていたがやっぱりパーマは似合わないかもと思ったからで、それを美容師さんに言うと「じゃあまた次の冬ですかねー」と返ってきて、たしかにこの陽気はもう冬の終わり、春の始まりという気がするなと思った。しかしまだ意外と二月の半ばなのだった。この後どこか行くんですか?と聞かれた。はい、まぁと答えると、まだ答えを待っている風だったので「デートに…」と言った。「いいですねー」と美容師さんが言う。デートという言葉がなんだか気恥ずかしい。
  某所で彼女と待ち合わせた。鴨南蛮が人気の蕎麦屋に並びながらさっき買った新作のグミを食べた。蕎麦屋に並びながらグミを食べてる人っているだろうか、と考えた。グミは硬い。最近のグミはだいたい硬い。店内に案内されて、鴨南蛮と千寿葱の天ぷらを注文した。千寿葱の天ぷらは甘味があって旨くて、今度家でもやろうという話になった(揚げ物をしたこともないのに)。鴨南蛮の一口目で、その出汁の旨味にふたりで「はー…」と声をあげてしまった。すると隣の席の男性もそのタイミングで「はぁー……」と声を出したのでてっきり蕎麦を食べているのだと思ったら、男性のテーブルにはまだ何も運ばれて来ていなかった。ナチュラルため息だったのだとわかるとなんだかおかしくなってしまった。隣の人に悟られないようひそかに笑うしかなかった。
  
  海でも見ようか、という話になって江ノ電七里ヶ浜に行った。ひとつ手前の鎌倉高校前駅七里ヶ浜駅も人が多くてみんなスマホで写真を撮っているようで、なんでだろうと思っていたら、彼女が「スラムダンクじゃない?」と言った。そう言われるとそうかも、と思ったけど「あの映画に海のシーン無いけどね」と言った。彼女はなにも返さなかった。考えたら彼女はスラムダンクの映画を観ていないのだ。そしていま気づいたけどスラムダンクの映画に海のシーンはめちゃくちゃあった。
  海岸には結構な数の人がいて、みんなそれぞれに、おそらく海を眺めている。水着を着ていないかぎり海は眺めるくらいしかやることがない。彼女とふたりで写真を撮る。そこに写っている自分は彼女がプレゼントしてくれたナイロンジャケットを着ていて、でもそのせいで「工務店勤務の男性が同僚の女性(恋仲)と昼休みにこっそり海に来ている」ようにしか見えない、という話をしてふたりで笑った。そのあと工務店のローカルCM風の写真を撮った。彼女はずっととんびを警戒していた。以前とんびにガチャガチャを開けているところを襲われたらしい。「ほらめっちゃ見てるよ…」彼女に言われて空を見るとほとんど空中で静止してるみたいにとんびが浮かんでいて、たしかにこっちを見ているような気がした。
  調べたカフェを目指して住宅街の坂を登る。彼女はすぐに息切れをして「そんな息切れしながらカフェに行ったら、水分ならなんでもいいから飲みたい人みたいだよ」と言ったのだけど、そう言う僕の声もかなりハァハァだった。たどり着いたカフェは看板も特にないお店で、中に入ると打ちっぱなしのコンクリートに座る出っ張りだけがあるような内装でまるで原宿だった。キャップにスウェットというファッションの高校生くらいの子たちがゆったりお喋りをしているのが原宿感を増してくる。頼んだコーヒーはかなり酸味があってフレッシュな味だった。注文したとき店員さんが今日はどこどこの豆です、と説明してくれたのだがおしゃれさにびっくりして全然ちゃんと聞いていなかったから分からないままだった。でも確か最初に「エ」と言ったと思う。だからエクアドル産だろうと結論づけた。
  お店を出て住宅街の坂道を海の方に下りながら、ここにもとんびがいるね、と話した。とんびは住宅街でなにを狙っていたんだろう。ランニングをしている黒人男性とすれちがった。彼は「Columbia university」と書かれたTシャツを着て走っていた。彼が着ていると本当にコロンビア大学のOBに見えてくる。しかし慶応大学の出身者が「慶応大学」と書いたTシャツを着てランニングするだろうか。分からない。するかもしれない。
    再び江ノ電に乗り、彼女の最寄り駅まで揺られた。「今日は納豆とたまごかけご飯にするわ」と話すと彼女も「いいな。私も納豆食べたくなった」と言う。
「いいと思う」
「いいでしょ」
「納豆は美味しいよ」
「知ってる」
「納豆を食べてね」
「ええ。納豆を食べます」
そこで駅に着いた。油断するとすぐにお芝居みたいになってしまう。ホームに出てもあまり寒くなかった。