いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

 マジで出てるじゃん、というナトリの声が聞こえた。私の頬の上にすっと温もりが線を引いた、マツコが人差し指でそれを拭って笑う。この子すごいでしょ、ミツメっていうの、と私は紹介され、頭をくしゃくしゃと撫でられた。ナトリは左耳のピアスとかから中性的な匂いのする男の子、まだ大学生だと思われた。なにを考えて泣いてるの、と彼が訊いて私は苦労人の芸人が解散するとこ、と答えたところうけた。人の波がすごくなっていた、運営側がハコのサイズをミスったんじゃないかというくらい、まだ始まってもないライブ会場は熱狂を隠しきれていない。『犬猫フェンダー』の一年ぶりとなる単独、レコ発ではない、ただボーカルが学業に専念するためという理由の充電期間を経て今宵復活する。まさかこんなに待っている人がいたなんて、当人たちですら思ってないんじゃない? 後ろの人がまた前に詰めてきた。ナトリがそっちをちらっと見た、目が合ったのは鼠色のコートを着た中年の男性だった。ナトリの目をじっと見返したので、ナトリは中学時代の嫌いだった担任の目を思い出して逸らした。殴ったのはあいつがゴトウをバカにしたからだと最後まで言えなかった、担任は画質の粗いカメラみたいな目でナトリを見ていたのだ。

 タイムラインがやばい!  ハッシュタグ『犬猫フェンダー』で検索してみ、とマツコがいった。マツコはいつもエモいものを探している十個上の親友だ、派遣社員としてスマホを売っているだけあって、いつでもスマホを触っている。それは私にとってほとんど安定剤みたいなものだ。初めてマツコと会ったとき、彼女は激しく頭を振っていて、金髪のショートボブが吹っ飛びそうだ、それをスポットライトが写真にしたみたいに切り取った瞬間があった。そのことを鮮明に覚えていて、次のライブで話しかけたのだ。話しかけられたとき、てっきりミツメに喧嘩売られたのかと思った、はは、当時犬猫のファンてイカれたのが多くて、ファンをひとり殺せば少しメンバーに近づけるかのようにね、と彼女はいう。煙草吸いたー、でももう始まるっしょ、ミツメさんは仕事なにしてんの? なんだと思う? えー、保育士。うわ、こわっ、なんでわかんの? 勘だよ勘。そうなんだよ、やってます、保育。俺も教免持ってる、使わないけど。保育士超ブラックだよね漆黒だよね。ほんとほんと、彼女たちの会話に私は内心うなずいていた、ミツメと呼ばれる女の子はうしろ髪に比べて前髪がやや長い特徴的な髪型をしていたが似合っている気がした。長めの煙草を吸っていそうな、と私は思う。それにしても混んだな、こんなに混むなら来なくてよかった、高校から一人暮らしを始めたあのバカのライブ。私を殺しそうな目で見たあいつの、指先が弦の上をどんな風に滑るのか、たしかめる気が起きたのはなぜだったか。非行少年、ここに夢を果たす? くそみたいな話だな。


「つねったんですか?」
 低い声をさらに低くして、皺という皺をさらに深くして園長が私に訊く。脅しているみたいな声。
「ないです」
 私は応える。そこで園長はため息をつく。眼鏡をたぶん、わざと鼻の方にずらし、上目遣いに睨む。
「でもですね、じゃあみさとちゃんは、どうして嘘をつく必要があるんですか?」
「私はやってません」
「答えになってない」
「私のことがきらいなんでしょうね」
園長が口を半端にひらく。長年の煙草でうすく茶ばんだ前歯が見える。
「あなたの職業はなんですか?」
 園長の声がスピーカーを通したみたいに割れた。私は無言で彼女の目を見返した。


 で、結局どっちなの、とナトリが訊いたとき暗転した。短い悲鳴みたいな声があがる、ジェットコースターが落下し始める直前の、ひゅっという喉の音。暗闇のなか人影が姿をあらわす。ぐっと息を殺す音。四人がそれぞれの調整を手短に終えて、斧のような轟音ギター、最前列はもう走り出しそうな衝動で、後列ほど他人事とは思えない。ほとんど自分がステージにいるみたいに緊張している、手が震えている。ここに来るためにいままでの私がいたといっても過言ではない。あ、これはSNS行き、その時どしゃあっとキーボードのリフが降ってきた、いきなり『system』から! 涙! これが本物だ、本物の涙だ! いきなり『system』で私はわけがわからなくなる、私のなかの蓄積が『system』で溶かされていく。ずぶずぶと沈んでいく。ひとりずつ順番に暮らしを抜け出して街灯をたよりに東へ東へ。安全な陸地は失われてしまったもう悲しみにふける人さえいない。私はいま思い出していた、風呂場で唄っていたわが子を。その姿を目をつぶって振り切った。黒のなかで息子の声がする。ほとんど泣いてるみたいな声だ。カナヤが唄う、空気と擦れるような声で、ドラムの爆発音、足下をベースが這い、我々は船の上の一団のように同じ振動に体を震わせる。みさとの嬉々とした声が浮かぶ、UVカットで白いままの肌、みさとちゃんも外でようよ、でないの、でようよ、私の手が彼女の腕に触れる。痛い、痛いよ、彼女の声、もうつよい意思をもつ大人の声みたいでたじろぐ、外からあがる歓声にふと私は目をやる。陽光が庭から射し込んで床を白く染めていた。ドラムが最後の一拍を叩いた。みさとの肌が温かい。