いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

2021-04-27から1日間の記事一覧

かやこの喪

ホテルラウンジのソファに沈んで見合いの相手を待ちながら、やっぱり昨日中塚とやっておくべきだったと後悔した。お互い夕方からがばがばと飲んで二軒目が終わったとき、歓楽街の端っこに突っ立って妙に真面目な間ができたあのとき、あと一センチ二人の軸が…

なんにも言いたくない

仕事辞めてやった。 仕事辞めてよかったことの一番は、朝起きれるようになったこと。この後にじりじり胃を焼くだけの苦行が待っていなければ、すうっと起きれるもんなのである。そうして私はギターを買いに神保町へ。神保町の朝十時は抜群に晴れていた。 目…

マジで出てるじゃん、というナトリの声が聞こえた。私の頬の上にすっと温もりが線を引いた、マツコが人差し指でそれを拭って笑う。この子すごいでしょ、ミツメっていうの、と私は紹介され、頭をくしゃくしゃと撫でられた。ナトリは左耳のピアスとかから中性…

徳島の生活

SUUMOを開き、徳島をえらぶ。縁もゆかりもない土地だから、とりあえず電車の路線で検索してみる。ほとんどJRしか走っていない。地方に行くとそういうものなのだろうか。考えてみれば横浜の外に出る機会は年々減っていて、旅行にも行かない。この土地以…

引っ越し

ラブリー引っ越しセンターです、本日はよろしくお願いいたしますと電話があり、それから一時間後に現れたのは、私と同じくらいの年格好の青年だった。短パンにTシャツのラフな格好で、一足早く初夏の陽気を感じているようだった。青年は部屋のなかを見渡し、…

血が止まらない

腕の、カッターで切ったところから血が止まらなくなってしまったのは、およそ一月前のことだ。あまり理由なく切ったのだが、それが神様の逆鱗に触れたのか、血が止まらなくなった。血が止まらないな、と思ったのは切って二時間くらい経ったときだろうか。あ…

サボテン

塩と水だけで一週間生き延びたという話が、イリヤという男の唯一の自慢であるらしく、なんかもう十回くらいは聞いている気がする。それだけ聞いているのに、私はこの話でいつも笑ってしまう。どうして? 付き合っているから? よく分からない。最初に聞かさ…

ベランダの夜明け

若い男を召喚する手軽な方法があるときいて試してみると、これが効果抜群だった。方法は簡単で、夜の0時にベランダに陶製の灰皿とシケモクを置いておくだけだった。銘柄はなんでもよく、本当に吸ったものでなくても燃やされていればよい。私は煙草を吸わな…

空白の教室

廊下を歩いているときから2-B教室内の妙な静けさが、私にとってよくない兆候だということは分かっていた。だから立て付けの悪い扉を開けて、ひとり席に座っている子がいることの方に驚いた。私は入口のところで立ち止まり、「オゼキくん」と彼の名前を呼んだ…

名もなき母

日の暮れかけた公園でひとり遊んでいると、母が迎えにきた。母は100メートル手前でもすぐに母だとわかった。銀色の羽根が光をぐしゃぐしゃに乱反射するからだ。僕は母が公園に着くまでに水道で手を洗い、公園の入口で母を待った。やって来た母は「タイちゃん…

小花

駐輪場で千夏と出会う。お互い、放課後に未練なんてない。まだ誰もいないこのトタン屋根の下で私たちは雑に置かれた自転車を引っ張りだし、またがる。早くも汗がにじみ出てくる。シャーシャーと蝉。梅雨明けたての空はまだ曇っている。「いつもんとこ?」「…

私たちは呼吸している

私にはまだ名前がなく、あるのは仮の呼び名と借り物のようなこの体だけだ、と深瀬のぞみは思っている。仮の名前、希望と書いてのぞみと読むそれは商品名のようなもので、彼女にとって本当の名前とは製造番号のアルファベットと数字が入り混じったあの無機質…

君はスター

五年一組の朝の会はとつぜん裁判になった。ほかになんかありますかー、といつも鼻をほじっているサエグサが、めずらしく鼻をほじらないで日直をやっていた。ここで「なんかある」と言い出すやつはなかなかいない。それは前の、東京の小学校でもそうだったし…

夏の獣

姉が未知をおいて家を出てから三日が経つ。ふらっと訪れた実家である我が家で、姉はそうめんを少しだけ食べた。ほとんどの時間をリビングに座って過ごした。私は数学の期末試験の成績がすこぶる悪く、夏休みの補習を課せられていて、暴力的な暑さの中を学校…

教室の井戸

教室の隅には井戸がある。石造りの、丸く古びた井戸だ。上には杉でできた、ささくれの目立つ蓋が乗せられている。井戸の奥を覗き込んでも暗闇で何も見えない。光で照らしてみるとその光さえ吸い込まれそうに暗いが、小石を投げ入れると、数秒の後にぽちゅん…

団子

独りぼっちのシーソーのようだと思う。私の不安感は得体のしれない軽さをもって私とは正反対に浮かんでいる。地に着いている私は、その足の裏の感触にただ満足すればいいはずなのだけれど、なぜか空に向かって伸びているシーソーの先を思い浮かべてしまって…

不在

銀色の柵が太ももに直接触れるとびいっと電気が走るように冷たかった。はぁっ、と声が出てしまい、口を閉じて辺りを見回す。四階だ、そこの路地を人が通りでもしたらすぐに見つかってしまうだろう。向かいのアパートのベランダもこちらに向いている。そこか…