いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

かわいいコンビニ店員飯田さん『空腹』感想

※できるかぎりネタバレしないで書きます。

 

演劇を観てきました。

前作『悼むば尊し』がとても良かったので、今作も期待していました。

開演前、まずはセットの作り込みに感心しました。生活感のあり過ぎる部屋。壁の質感や雑然とした物の配置、ローテーブルの下のイヤホンとか、細部まで作り込まれていて、見ていてもう楽しい。本当は終演後舞台に上がってひとつひとつ間近で見たかった...。

 

そして開演。

登場人物が入れかわり立ちかわり部屋に入ってくる。この時点では一人一人の詳しい説明がなされるわけではないのだけど、服装や振る舞いである程度の想像ができる。同時にそれぞれの人間関係(上下関係)みたいなものも見えてきて、すでに胸がざわざわとしてくる。

特に序盤の氷買う買わないのところとか、いたたまれなかった。

主催池内風さんの演劇は、もちろんまだ2作しか観てないけれど、常に観客の心をざわざわとさせる。なんというか、一人一人の人物を多面的に光を当てることで、定点で感情移入をさせないからだと思う。

さっきまで心を寄せていた人の醜い面が見えたり、最初は嫌いだった人物の優しさが見えてきたり。観客はシークエンスごとに視点を変えざるを得なくなり、キャラクターそれぞれの人格が複雑に彫刻されていくから、容易に受け止められなくなってくる。

今作、小道具の配置が度々変わる(花瓶とか、ティッシュ箱?とか)のがなぜか印象的だったんだけど、それは感情のやり場のなさ、心の置きどころのなさとリンクしていたように思う。

 

登場人物それぞれ魅力的かつ生々しかったんだけど、特にアサギリさんが印象に残った。彼女のしたことの功罪はジャッジできないまま思い出している。彼女が持ち込んだ「百合の花」が、彼女自身の振る舞いを象徴していた。

途中マリーゴールド花言葉の話が出てきたから百合も調べてみると(想像から遠くはなかったけど)「純粋」や「威厳」と出てくる。

真っ白で堂々と咲く百合の花を、登場人物の一人が「臭い」と言って遠ざけようとする。

アサギリさんのようなあまりにもな真っ直ぐさ、慈悲の心が、疎まれる場合も往々にしてある。

先日の都知事選後、「リベラルの掲げることは生活に余裕のある人の視点」みたいな話を見た。それ自体に納得はしていないけれど、本作のアサギリさんを観ていてそれを思い出した。

 

前作『悼むば尊し』もそうだったけれど、池内風さんの作品では、ディスコミュニケーションが度々発生する。今作でも終盤に激しい議論の対立があるが、なんというか、それぞれの主張が噛み合ってない印象を受ける。AとBの主張がぶつかり合うのではなくて、それぞれ別の方向に消えていくような。要するに議論のようでいて、議論になっていないように見えるのだ。

そしてこれは、SNS上では頻繁に繰り広げられているように思う。議論にならない、大声で刺激的な言葉の応酬。相手の話を聞いていない。自分の話しかしていない感じ。

観客席から俯瞰で眺めることで、それに気づくことができる。

 

このあと、今作のテーマとして受け取ったことなどを書こうと思ったけど、それは公演が終わってからにしようかと思う。

とりあえずここまで読んでくれた人は観に行ってほしいです。まだ席が残っていればですが(当日券も出ていたと思う)!

奥野紗世子『女たち』感想(感情)

文フリで購入した奥野紗世子『女たち』を読んだ。まず奥野さんが文フリで本をつくって売ると聞いたとき、マガジンの漫画みたいに「!?」がいくつも浮かんだんだけど、そりゃまあ買うしかないだろと思った。

読み始めてびっくりする。『女たち』に出てくる人物たちにはかなり馴染みがあった。文學界2021年6月号掲載の『無理になる』に出てくる人物たちだったのだ。つまりこれは『無理になる』の続編のようだ。僕はいまのところ奥野さんの小説で一番お気に入りなのが『無理になる』なので、とても嬉しい。

嬉しいんだけど、僕はこの無理になるユニバースの中心人物、猪狩務がとても嫌いだ。

彼は80年代にアンダーグラウンドな音楽シーン(というかサブカルシーン)で、主にライブでの自殺未遂が伝説となった男性ミュージシャンである。その後、現在では「そういう人いたね」的な語られ方をしながらも、音楽業界に辛うじて居場所のある彼なのだが、中身がかなり最悪だ。ファンや共演者やその他の人たちと、客観的には受け身な姿勢で性的な関係を持ちながら生きてきて、音楽については自分にはとっくに才能なんてないと自覚しながらも、周りの買いかぶりを積極的に剥がしにいくでもなく甘えながら、淀んだ池のボウフラのような生き方をしている(あきらかに言い過ぎてる)男。マチズモに馴染めずにいながらも、存分に有害性を発揮し続ける男。なんていうか、彼の狡いところは立ち位置なのだと思う。相手の足を露骨に踏みつけたりはしないのだが、いじけながら常に優位な位置をキープしようとする。または、あえて弱弱しく降参のポーズをして見せることで、女性の同情心や母性をくすぐろうとする。見ていられねえよ!という感想になる。

けれど読み進めてしまう。もちろん、彼や彼を取り巻く音楽業界/サブカルシーンに対する解像度の高さ(本当にそんなんかは分からないけど妙に生々しい)や文章力の確かさもあるけれど、僕は結局のところ、猪狩務が放つ有害性に、自分の中にも確かにある嫌らしさを見てしまい、なんとも言えない気持ちになるのだ。

マッチョな振る舞いだけが性的搾取の土壌ではないし、他人を傷つけているわけでもない。優しそうに振る舞っていても、くよくよと悩み塞ぎ込んで自分が傷を負いながらも同時にちゃんと誰かを傷つけている。なんかそういうことが堪らなく胸に迫ってくる。心当たりがあり過ぎるのだ。

『無理になる』で出てきた猪狩務が、『女たち』の連作短編の中でさらに様々な角度から解像度を高められていく。

僕は今作を読みながら「奥野紗世子の文章って石に彫った字みたいだな」と思った。力強さというか、そこに置かれたと言うよりは何も無かったところに傷をつけて無理やり文字にしたような感じがあると、過去作も含めて考えてみて思ったのだった。刺青やピアスみたいとも言えるかもしれない。とにかく奥野さんの文章を読んだときに「痛み」を感じるのはそういうことなのだと思う(今作の中の『死んでもいい経験』では刺青やピアスのすごい人も出てくる)。

そして人物同士の言葉や感情の応酬は無機物と無機物がぶつかり合うような硬い感触があるし、街の景色には水分が抜かれカラカラに乾いている。サイバーパンク味が常にある。

そうして形づくられる世界の中心に、なぜか弱々しく猪狩務が立っているというアンバランスさが不思議な魅力を放っていると思う。

 

なんだか全然小説の中身の話をできていなくて申し訳ない気持ち。ぶっちゃければまだ猪狩務の内面へのムカつきを咀嚼しきれていないし、『女たち』全体も読み切れてないと思う。

でもとりあえずこれを買って読んだ人たちと読書会をしたい気がする。猪狩務への説教読書会とか。でも結局のところ自分に跳ね返って来るんだよな。猪狩務、本当に嫌なやつだよ。

『首』 (古賀コン4応募作品)

  一度でも一緒に行ったことのある場所では、やかましい。リュックも開けてないのに、中で律雄の首が喋りだす。
「懐かしいねここ。前は最上階にボーリング場あったけどもう無くなった?」
私は黙れよ、というつもりで無言で肘をリュックに当てる。律雄は無反応だった。
「ゲーセンはまだあるのか。なんか昔、一日中メダルゲームしたことあったよね。いくら使ったんだっけあれ」
実家の周りで一番大きなショッピングモール。律雄と何度か来たことがあるのを完全に忘れていた。ここまで来ても、なんとなく気恥ずかしくて実家には寄らなかった。一日中メダルゲームをしていた日は本当はふたりで実家に行くつもりだったのだ。いやいや、こんなこと思いだす意味ない。
「うーわっ、本屋もなくなったのか。時代だね」
生首が時代を語るなよ、と思う。
私は、アカチャンホンポを目指していた。甥っ子が兄夫婦に連れられて実家に来ているらしいのだ。なにをあげたらいいのか全く分からないけれど、なにか口に入っても大丈夫なおもちゃにしようとだけ思っている。
「子供欲しかった?」
律雄の声に思わず足が止まる。
「真緒のそういう気配はさすがに分かってたよ。友達の子供の話とかさ、『私だったら耐えらんない』とか言いながらなんか楽しそうなのと、いつも早口で話題変えるから」
「黙って」さすがに声がでる。ちょうどすれ違った若者が、一瞬私を見たのが分かった。
「別にあなたに関係ないから」
律雄は無言だった。肝心なときに黙る。謝ることができない。
  アカチャンホンポで、骨付き肉の偽物を買った。律雄がこれって犬のやつじゃないの?  と口を挟んだけど無視した。
  駐車場へと繋がる通路のベンチに座った。喧騒が少しだけ遠くなった。時々ベビーカーの家族連れや上下ジャージの怖そうなおじさんが通ったりする。さっき買った桃のジュースを飲む。舌の根元に張りつくような甘さがよかった。
  これでも律雄はだいぶ小さくなった。最初は五体満足な律雄がついてきていたのに、手足がなくなり胴体がなくなって、ついに生首になった。でも生首になってから、やかましさが少し増した。
「誰かと付き合わないの?」
律雄が言った。
「キモいからやめて」
「俺は普通に暮らしてるよ」
「知ってる」
「知ってるの?」
「佐敷さんに聞かされた。この前、研修で一緒で」
「そっか」
ジュースを飲み干した。
「幸せになってね」
私は言った。なんとなく、ゲップの代わりみたいにそんな言葉がでて、自分でも少し戸惑う。
「・・・・・・ジュースと甘いお酒ばっか飲むの体によくないよ」
「うるさいって」
杖をついたおじいさんが通りかかってベンチの端に座った。私は立ち上がる。また喧騒の方に歩きだす。
「実家に連れてったことなかったでしょ」
私が言うと、うん、と声が返ってくる。
「律雄と結婚とか、最初から嫌だったんだよね私、多分」
「マジか」
「今日初めて敷居を跨がせてあげるけど黙ってて」
律雄は返事をしない。さっきまでよりリュックが軽くなった気がする。フロアにj-popが流れている。全然思い出のない曲だった。

 

i

  中庭に出ると結構暑かった。日差しの方を睨みながら「暑!  絶対太陽のせいやん!」と大西が言う。本谷も私も笑った。非常階段で日陰になっている場所が空いていたからそこに移動。トイレの窓を背にして座ろうとすると本谷がちょいちょい待って、と言いながらバッグを漁る。「レジャーシート持ってきた」とバッグから出した手を私たちに見せる。そこにはなにもないのだが、本谷は胸の前でそれを広げる手つきをし、「ポチャッコ~」と声をくねらせる。「発音おかしくね?」と大西が言った。本谷がしゃがんで、それを座ろうとしていた辺りのコンクリに敷く仕草を待ってから「どっこいしょ」と大西が座る。私も座る。コンクリの上には小さな石のつぶが転がっていて、それがお尻に鈍く刺さる。
「カレーの匂い」私がお弁当箱のふたを開ける仕草をすると隣の本谷が言った。「お弁当、カレー?」「いや、コリアンダー入れて鶏肉炒めただけ」私が答えると「コリアンダー」と大西が呪文みたいに復唱する。「佐々木みたいに料理できるようになりたいわ」本谷が言って、空の手を口元に運びながら「まい泉カツサンド、どんどん小さくなってる気がする」。
 四方を校舎に囲まれたなかに、いくつもの集団ができている。制服とくたびれた上履きやカラフルなスニーカーがそれぞれにまったくちがう動きをする。ほとんどの廊下の窓は開いていて、はっきりとは聞き取れない話し声がいくつもしていた。ダンス部が、体育館の入口のガラスに自分たちを映しながら踊っている。体の軸を保ったまま手足が動いて、顔はずっと正面を向いているのを見ていると地面が動くみたいな感覚があって、それは砂浜で感じるあれと一緒だと思った。非常階段を使って降りてくる雑な足音と笑い声。
「暑いくせに日陰はちょっと寒いんかよ」大西がまたぼやく。
「どうせえっちゅうねん」「ジャージ貸してあげる」本谷が大西の肩に上着をかけるジェスチャー
「センキュー、一生忘れない」「うん、忘れないで」「なんか、LUSHみたいな匂い」「やめろ。え、嗅ぐなら返して」私は隣で笑っている。
 本谷が私の方を見て「修学旅行大丈夫そう?」と聞く。「あー、うん。バイト代で間に合いそう」と答えると無言でうなずいて、唇にリップを塗る仕草をする。「テレオペきつくない?」「まぁ、お金もらってるからね」私の答えに今度はうなずかない。大西が「母親が、真凛ちゃんめっちゃよく働くって絶賛してた。比較されて私はボコボコだけど」と言う。グレーの建物の上に青空がある。すねが痒くなってソックスの上から掻いた。

 きゃあ、と声が上がった。校庭に繋がった通路の方からだった。三人くらいの女子がしゃがみこんでいる。非常階段の踊り場にいた子たちが「なんか、犬?」と言っているのが聞こえた。しゃがみこんだ子たちが周囲の子に手招きしたり、自発的に寄ってきたりで人だかりが増える。廊下の窓から顔を出す生徒たちも見える。後頭部ばかり並ぶ光景を見ていたら、いつの間にか私も立ち上がっていた。歩きだすと本谷も大西もついてきた。中庭を斜めに横切った頃には人だかりは一クラス分くらいになっていた。「やばい」「絶対飼い犬でしょ」「どっから?」「ねえ! 目!」誰が喋っているのかわからない声を聞きながら人ごみに体をねじ込むように入っていく。佐々木、と本谷が後ろから呼んだけど応えなかった。左右からちがう匂いがした。ブレザーの紺色が割れて、しゃがんでいる子たちが見えた。ごめんね、と声を発するとしゃがんでいた最前列の子の一人が半分振り向いた。私の顔をちゃんとは見ずに隣の子に「スパニエルでしょ」と言った。「黒い」「いや、白の」「白か」「そういう種類があるんだ?」「かわいすぎ」「結構老犬」「生後すぐだよ」「触らない方がいい?」
 目の前、昇降口までカーペットのように敷かれた、アクアブルーのタイルの上にはなにもいない。一人の子が宙に手を伸ばし、頭を撫でる仕草をした。後ろから押されて私は転びそうになり、前の子の背中に膝が少し当たり、ごめんねと謝った。反応はなかった。そのまま脇を通り過ぎ、渡り廊下の下をくぐって校庭に出た。いつの間にか、体が金属のように重くて冷たい。大西と本谷がついてきていた。
「家に帰ったら全部燃えてたらいいのに」
背中を向けたまま、私は二人に聞こえてない方がいいなと思いながら呟いた。二人はなにも言わなかったから、聞こえてないのかもしれなかった。風で、近くの防球ネットが振動してガチャガチャ音を立てた。校庭の向こうで背の高い木も葉を揺らしていた。そのとき、頬のあたりに冷たいものが当たった。
「雨?」本谷の声に私は振り返る。本谷も大西も空を見上げていた。
「雨か」大西が言った。また、今度は耳に水滴が当たった。私たちは顔を見合わせた。同じように手を広げる二人を見ていたらなぜか涙が出てきた。空は青いだけだった。でもそれは誰が見ても青だったと思う。

2023/0312クリープハイプ幕張メッセ

初めてクリープハイプのライブに行ってきた。

元々彼女が熱烈なファンで(と言うと彼女は「ちげーし!」と否定するけど)、どんなバンドなのだろうと聴いてみて見事にハマった。僕はあまり付き合った人のおすすめとかにハマれたことがなくて、とても寂しかったんだけど、今回はちゃんと好きになれた。

 

それでも自分の中の熱量ははかることができずにいた。自分の「本当の気持ち」というやつがいつも分からなくなるから、好きな人が好きなものだから好きだと思い込んでるんじゃないかとか、疑っても意味のないことを考えてしまうのだ。

だからなのか、ライブ会場に着くのもめちゃくちゃギリギリになってしまい(海浜幕張って舞浜の隣くらいだと思ってた)、ライブの幕が開くその瞬間まで期待とか不安とかではない、漠然とした気持ちでいた。

 

けれど一曲目のイントロが始まった途端、僕のなかに稲妻が走った。古典的な比喩かもしれないけど本当にそうだった。「おれこのバンド大好きじゃん!」という実感が突然降りてきた。それがとても嬉しくて、その曲の途中から泣いていた。めちゃくちゃ新参者だけど、そのカッコよさは新参にも古参にも(という呼び方はなんかアレだけど)等しく「どう見たってカッコよすぎるもの」として映ったはずだ。

 

ライブ中、不思議といつもライブや映画を観るときみたいなメタ的な考え(余計なこと)が浮かばなかった。なんでなのか本当によく分からないけど、いま目の前で起きてることに集中できている感じがした。クリープハイプは、というか尾崎世界観という人はいつも自分たちのことを俯瞰していたり、可視化しにくい「敵」と闘っている印象があったのに。

今日、目の前にいるクリープハイプというバンドは今ここに集っている人たちのためだけに演奏しているんだという説得力があった。きっといつもそうなのだろう。

もちろんライブをするミュージシャンはみんな当然そうだとは思うけど、でもなんだか異質な、とてつもなく真剣なバンドが二時間そこにいたという記憶として、この日のライブは自分のなかに残る気がしている。目の前の光景を慈しむように眺めながら尾崎さんはよく笑っていた。

ライブが終わって駅に向かいながら彼女や友人と喋りながらも、足湯に浸かっているようなぼーっとした気持ちでいた。

本来なら3年前にしているはずだった今回のライブ。でもこのライブがもし3年前に行われていたら、まだ彼女にもクリープハイプにも出会っていない僕はこの気持ちを味わうことがなかっただろう。そう思った僕の胸に去来してたのはなんだか安堵の気持ちだったように思う。当然3年前にはクリープハイプもファンもたくさんの失望や悔しい気持ちがあったにちがいない。でも、ごく個人的なレベルでは、コロナ禍のおかげで今日の日があったのだ。素直に嬉しい。

七里ヶ浜

  髪を切った。しばらく伸ばしてパーマでもあてようかと思っていたがやっぱりパーマは似合わないかもと思ったからで、それを美容師さんに言うと「じゃあまた次の冬ですかねー」と返ってきて、たしかにこの陽気はもう冬の終わり、春の始まりという気がするなと思った。しかしまだ意外と二月の半ばなのだった。この後どこか行くんですか?と聞かれた。はい、まぁと答えると、まだ答えを待っている風だったので「デートに…」と言った。「いいですねー」と美容師さんが言う。デートという言葉がなんだか気恥ずかしい。
  某所で彼女と待ち合わせた。鴨南蛮が人気の蕎麦屋に並びながらさっき買った新作のグミを食べた。蕎麦屋に並びながらグミを食べてる人っているだろうか、と考えた。グミは硬い。最近のグミはだいたい硬い。店内に案内されて、鴨南蛮と千寿葱の天ぷらを注文した。千寿葱の天ぷらは甘味があって旨くて、今度家でもやろうという話になった(揚げ物をしたこともないのに)。鴨南蛮の一口目で、その出汁の旨味にふたりで「はー…」と声をあげてしまった。すると隣の席の男性もそのタイミングで「はぁー……」と声を出したのでてっきり蕎麦を食べているのだと思ったら、男性のテーブルにはまだ何も運ばれて来ていなかった。ナチュラルため息だったのだとわかるとなんだかおかしくなってしまった。隣の人に悟られないようひそかに笑うしかなかった。
  
  海でも見ようか、という話になって江ノ電七里ヶ浜に行った。ひとつ手前の鎌倉高校前駅七里ヶ浜駅も人が多くてみんなスマホで写真を撮っているようで、なんでだろうと思っていたら、彼女が「スラムダンクじゃない?」と言った。そう言われるとそうかも、と思ったけど「あの映画に海のシーン無いけどね」と言った。彼女はなにも返さなかった。考えたら彼女はスラムダンクの映画を観ていないのだ。そしていま気づいたけどスラムダンクの映画に海のシーンはめちゃくちゃあった。
  海岸には結構な数の人がいて、みんなそれぞれに、おそらく海を眺めている。水着を着ていないかぎり海は眺めるくらいしかやることがない。彼女とふたりで写真を撮る。そこに写っている自分は彼女がプレゼントしてくれたナイロンジャケットを着ていて、でもそのせいで「工務店勤務の男性が同僚の女性(恋仲)と昼休みにこっそり海に来ている」ようにしか見えない、という話をしてふたりで笑った。そのあと工務店のローカルCM風の写真を撮った。彼女はずっととんびを警戒していた。以前とんびにガチャガチャを開けているところを襲われたらしい。「ほらめっちゃ見てるよ…」彼女に言われて空を見るとほとんど空中で静止してるみたいにとんびが浮かんでいて、たしかにこっちを見ているような気がした。
  調べたカフェを目指して住宅街の坂を登る。彼女はすぐに息切れをして「そんな息切れしながらカフェに行ったら、水分ならなんでもいいから飲みたい人みたいだよ」と言ったのだけど、そう言う僕の声もかなりハァハァだった。たどり着いたカフェは看板も特にないお店で、中に入ると打ちっぱなしのコンクリートに座る出っ張りだけがあるような内装でまるで原宿だった。キャップにスウェットというファッションの高校生くらいの子たちがゆったりお喋りをしているのが原宿感を増してくる。頼んだコーヒーはかなり酸味があってフレッシュな味だった。注文したとき店員さんが今日はどこどこの豆です、と説明してくれたのだがおしゃれさにびっくりして全然ちゃんと聞いていなかったから分からないままだった。でも確か最初に「エ」と言ったと思う。だからエクアドル産だろうと結論づけた。
  お店を出て住宅街の坂道を海の方に下りながら、ここにもとんびがいるね、と話した。とんびは住宅街でなにを狙っていたんだろう。ランニングをしている黒人男性とすれちがった。彼は「Columbia university」と書かれたTシャツを着て走っていた。彼が着ていると本当にコロンビア大学のOBに見えてくる。しかし慶応大学の出身者が「慶応大学」と書いたTシャツを着てランニングするだろうか。分からない。するかもしれない。
    再び江ノ電に乗り、彼女の最寄り駅まで揺られた。「今日は納豆とたまごかけご飯にするわ」と話すと彼女も「いいな。私も納豆食べたくなった」と言う。
「いいと思う」
「いいでしょ」
「納豆は美味しいよ」
「知ってる」
「納豆を食べてね」
「ええ。納豆を食べます」
そこで駅に着いた。油断するとすぐにお芝居みたいになってしまう。ホームに出てもあまり寒くなかった。

つまらない日に

アナログフィッシュのライブに久しぶりに行ってきた。

本当に、10年ぶりくらいだろうか。

一番好きなバンドはアナログフィッシュです、と素直に言えないときがある。「斜に構えてると受け取られるか」とか「言っても知らなくて気まずくなるだろうか」などと、そのときそのときの言い訳を考えながら、ついついその相手との最大公約数的なバンドを口にしてしまう。

 

そんな気持ちが、今日の1曲目で打ち破られた。

僕はなんでもっとこのバンドのライブに行かないんだろう、なんでもっとこのバンドを好きだって言わないで来たんだろう。

 

久しぶりにライブに来れたきっかけは彼女との出会いだった。全方位的に趣味の合う彼女を前に、自分がなにを好きかを俯瞰的に見ることができて、「このバンドが好きだ」と再確認できたのだ。

 

なにもかもがいい。バンドとしてのアンサンブル。歌声のハーモニー。感情のあわいを振り子のように行き来する歌詞。下岡晃と佐々木健太郎というふたりのシンガーソングライターを擁し、そのどちらもが全く異なるスタンスで曲をつくり、ときには共鳴・共振しながら23年歩んできたバンドだ。すべての事象がパラレルに存在することを余白に滲ませながら、ときに熱っぽく、ときに平静に歌っていく。

くっきりと言語化できない歯がゆさ、いたたまれなさを彼らは一貫して歌っていて、小説を書きながら、ずっと影響を受けてきた。

そんなバンドがいまも現在形でつづいていることの奇跡(それは本当に奇跡としか言いようがない)を思った。

 

自分にとっての白眉は『Yakisoba』だった。

「家に帰ったら焼きそばを食べよう   3食入りの食べ慣れたやつを」という冒頭のフレーズが、深く突き刺さってしまった。なんというか、つまらない、なにもない一日を暮らしていくことへの肯定が、この1行にもう集約されていて感極まってしまった。好きな人と一緒にいて楽しいときもかけがえのない糧だけれども、つまらない一日を共にすることの美しさが少ない言葉で歌われている。その曲のあとはほとんどぼうっとしていて、約1時間のライブはあっという間に終わった。

 

帰り道、彼女とふたり余韻に浸りながら、つまらない一日こそこの人と一緒にいたいと思った。それは多分ずっと思っていたけれど、アナログフィッシュのおかげでいまようやく形として目の前に浮かんできてくれたことだ。

 

とにかく僕はこのバンドが大好きだ。それ以上でも以下でもない。人生で一番長く付き合っているバンドだ。

もっともっとライブに足を運ぶので、末永くつづけてほしいと思う。