いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

空のひび

「品性、」とシノブがいった。「あんたに足りないものそれは品性」語尾が気だるい、それはいつものこと。怨み言をいいながら死んでゆく女中のようなねばつき、と彼女をたとえたツカサが「それは知性」と訂正する。「どっちでもいいけど図書室に来たことないなんて話にならない」「すんません」私は首をすくめる、という慣用句を思い出しながらそれをする。ああ私は今日もやってる。皮一枚かぶって、してる。人生を。
 図書室には私たち三人しかいなかった。辺りはおじさんの上着みたいなにおいがしている。あと日射し、つよい。「春だー」窓の外に梅の木がある。昨日卒業式があった。カバチさんから送られてきたLINEに卒業証書と梅の花があったのを思い出している。「そんなことはどうでもいい」シノブが舌打ちしそうな勢いでいった。「持ってきたの?」「持ってきた」「持ってきたよ」それぞれが鞄のなかをがさごそする。私は小さいジップロックに入った『犬の尻毛』を机に置く。「お隣さんがすごく親切な夫婦で、愛犬がいてすごくうんちが臭いの。あれはなにを喰わせているのかね」ふたりに無視された。ツカサが円筒状のケースを取り出す。「それ見たことあるー」私はそのケースを指差した。カメラのフィルムが入ってるやつ。ツカサは頷いて「ヤモリの心臓」といった。私とシノブは目を合わせた。笑った。腹を抱えるシノブ。私は手をたたく衝動を止められない。ツカサは真顔だ。ケースの壁面にべとっと潰れたそれが心臓であるのか正直分からない。笑いが収まるのを待って「うちの北側の壁によくいるから」という。「ナイスー」涙を拭きながら親指を立てる。「で、マナツの」と疲弊した表情のシノブが机に付箋を置いた。黄色の細長い付箋にはマナツの筆致で『ひえーっ』と書かれている。ぐっと空気が縮こまる。
 マナツが去年の八月に死んだこと、いまでもその八月二十日は無かったことになっている、記録が。暑い夏だったねとかいいたくない。塗りつぶしてしまいたくない。それで、こんなことを始めたんだ。
「マニエ、ドゥサ、ゲビラ」シノブが伏せた顔の前で印を切る。鉛筆で書いた六芒星の真ん中に付箋が、その両脇に『犬の尻毛』、『ヤモリの心臓』。「マニエ、ドゥサ、ゲビラ」ツカサがいう。印は切らない。「マニエ、ドゥサ、ゲビラ」私のいい方が一番様になっていない。
 私はその日カバチさんといた。空調の効いたカバチさんの部屋。高校生で独り暮らしという環境に恋して、付き合ってセックスをした。カバチさんの部屋はお香のにおいがしていた。セックスしている最中はサイレントなので、終わってスマホを見て、LINEが入っていてマナツのことを知った。あ、セックスの前にサーティワンのアイスを食べた。雑貨屋さんでTシャツを買った。買ってもらったのか?カバチさんはお金持ちの子なので。カバチさんはなにがあったのかなんて聞かない。私は勝手に喋った。死んだって。だれ? えーと、っていってそのまま黙った。
「これはアフリカで古くから行われてる儀式で、死者の蘇生の儀式な。『マニエ』は風、『ドゥサ』は土、『ゲビラ』は雨」
六芒星を書いて」「供物をささげるのね」「印を切る」「印を切るって格好いい」「いんをきる」「はは」。三人で考えた儀式の真ん中で、マナツがひえーっていってる。このひえーってなんのひえーっなのか?だれも憶えてない。

 なにも起こらなかった。起こっていたのかもしれない、どこかで。でも私たちの目の前にはなにも無かった。無いまま。

 校門をのろのろと抜ける。自販機でペプシを買う。「そういえばこないだ怖い話聞いた」「あれだろ、自販機のなかにゴキブリ」「えっマジでそれなんだけど」「やば」石が落ちていたので蹴飛ばした。カーブミラーのそばに転がった。私たちがゆがんで写る。車。「あぶな」「カバチさん、車持ってるんよ」「たはー、金持ちやばいな」「BM」「よく知らんけど高そう」「ドライブ行こう、免許とるから」「いつの話だよ」「それまで付き合ってたらでしょ」「大丈夫。相性良いから」品性だよ品性、お前に足りないのは。シノブがいった。
 あの日私は普通に泣いた。泣いても泣いても涙が出た。ふたりはさ、あの日泣いたの?ってことが聞けない。一番聞きたいのはそういうことなのかもしれないのに、どうしてさ、そういうことほどお互い触れられない。テーブルにひとつ残ったケンタのチキンみたいに冷えてかたまったそれを、胸に宿しているだけ。
「別に絶望とかじゃ全然無く、」とツカサがいう。「うちの親、別れるかも」「うぇっ」「経済的にどうなのそれ」「知らないよ」突然シノブが「空割れろ!」という。「なにそれ」「分かんないけど、なんかこう、いまをすべてぐちゃぐちゃにしてほしい」「エッチな話?」「馬鹿め」「分かる。いっつもそれを待ってる」「あー」
 ねぇ、すべては繋がってる?なんかそんな気がしてしまった。空が夕焼けに染まろうとしていた。終わりそうで終わらない一日というか。いまが八月二十日みたいだった。