いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

徳島の生活

 SUUMOを開き、徳島をえらぶ。縁もゆかりもない土地だから、とりあえず電車の路線で検索してみる。ほとんどJRしか走っていない。地方に行くとそういうものなのだろうか。考えてみれば横浜の外に出る機会は年々減っていて、旅行にも行かない。この土地以外のことを知らないのだ、と思うと気持ちがしずんだ。
 適当に検索し、もちろんまったく知らない駅名ばかりが並ぶなか、教会前という駅を見つけた。昔住んでいた家の向かいが教会で、日曜の礼拝などに何度か参加した経験が思い出されて、なんとなくクリックした。 写真付きの物件リストが縦にならぶ。やはりこちらにくらべて破格に安い。白っぽい塗りの二階建てアパートを見つける。よく晴れた日に撮られた写真だった。陽光が壁に反射して輝いているみたいだった。家賃は二万円台。徒歩56分? これは徒歩で示すべき距離なのだろうか。わからなかったが、とにかくそこに当たりをつけ、室内の写真を眺める。ユニットバスなのが気になるが、これからひとりになるのであればトイレと風呂が一緒なくらい、気にはならないのかもしれない。
「なにみてるの」
 背後からの声に、反射的にブラウザを閉じていた。「うん」と言葉を濁しながら答え、振り返る。腫れぼったい顔をした夫が冴えない立ち姿でいた。「パン焼くよ」といって私はローテーブルから立ち上がったが、夫は「大丈夫、駅で買う」といってソファに座り、窓の外を見ながら大きなあくびをした。私は曖昧な顔でノートパソコンの脇のマグカップを持ち、シンクに持っていった。蛇口をひねり水の音がシンクに反響する。


 件名:駅に進入してくるときの列車の速度について


 初めてメールします。駅に進入してくるときの列車が、速すぎるのではないかと思っています。まず第一に音がうるさい。鼓膜を突き破るような音です。巨体ですから突風は仕方ないとしても、ブレーキ音はなぜあんなに耳に障る甲高い音なのですか。だいたい電車はどこにいたってうるさい。昔住んでいたアパートが線路沿いにあって、それはそれ込みで借りたのですが、それにしたって線路を行き交う電車の音が大きくて、驚いてしまいました。どうしてこれだけ文明が進んでいるのに、電車の騒音はたいして変わってないのでしょう。
 とにかく問題はホームに入ってくる速度だと思うのです。遅くなれば、その分乗客の安全も確保されます。もちろん騒音も減りますし、飛び込み自殺の件数も減ります。ご検討よろしくお願いいたします。


 教会前駅から四角く敷かれた道路を南へ下っていく。途中何本かの川をわたってさらに下にスクロールしていくと、私の目指すアパートがある。赤いピンがそこに突き刺さっていて、私はそれをお気に入りに入れる。住所は漢字ばかりが並んでとても長かった。これは住所を書くのに手間だな、と思う。東側に緑色の地帯がずーっとつづく、と思ったらここは飛行場なのだ。徳島阿波おどり空港。やはり徳島といえば阿波おどりなのか。私の脳裏にあのリズミカルな三味線の音がよみがえる。しかし実際には聞いたことがないし、その音が三味線であるのかもわからない。阿波おどりの季節は夏、だろうか。湿り気のある風がからだを包むところ、じわじわと衣服と肌の間ににじむ汗、上気した顔。それはまるで実感のないことなのだが、 未来の自分がそこにいるかもしれないのだと思うと、まるっきり想像だけでもないように思える。 二辺を海に、残る二辺を川に 囲われたこの、おそらく埋め立てられた土地がどうやってつくられたのか、明日はそれを調べることにしてブラウザを閉じた。


 リビングの、夫の足音で目をさました。ぼうっとする頭でいまここにいない自分のことを考えてみる。世界に接続されていないいまの私ならばどこにでも存在できるのではないか。それはまるで 人魂のように揺蕩って車をすり抜け、眠る猫を素通りし、 だれかとすれ違う。だれかはコンビニ袋を左右に持ち代えながら、ときどき車が追い越していくだけの道路を歩いていく。 真夜中の川が見える。水が無いみたいに静かだ。自分の息づかいが耳の内側で響いている。浸透圧のように静寂に呼吸音が忍び込み全身が包まれる。自分が自分で満たされると孤独になってしまうから、彼はYOUTUBEを開く。
 夫の気配がしなくなった。リビングのソファにもたれ、そのまま眠ってしまういつもの癖が出ているのだろうか。それともいつの間にか寝室に入ってきたのだろうか。目をつむっている間はすべてが確定しない。夫が家のなか、どこにいてなにをしているのか、すべて確定させないままもう一度眠ろうとする。いつもそうするように、 底の見えないすり鉢状の斜面をゆっくり下に降りていく。そのうちに瞼の厚みが増していくような感覚がある。


「これはなに?」
レジにやってきた老婆は身なりが汚なかった。髪は白に黒が混じり ところどころほつれて、服は使い古したカーテンをからだに巻いている、といった具合だった。彼女が手に持っているのはミニトマトの鉢植えだった。「ミニトマトです」というと納得してないような顔をしてもう一度鉢植えを見てから、無言でそれをレジに置いた。
「お買い上げですか?」と聞くと、老婆は突然眉をつり上げ、「当たり前だろ!」と怒鳴った。私はすみません、と頭を下げてから、土の上に刺してある札のバーコードを読み取った。
「あのおばあちゃん、毎回聞いてくるんですよね」と、老婆が去ったあとで近づいてきた同僚の大角さんがレジ袋を整理しながら言った。「駅向こうの商店街の方に住んでるんです。道路にはみ出して色んな野菜の植木鉢があります。だいたい枯れてるんですけどね」
私はその景色を見たことがない。だがなんとなく想像できた。老婆が自動ドアの向こう、 駐車場を出ていくところだった。 ミニトマトを持った腕と反対側にからだ全体が傾いている。


 Googleストリートビューで拠点周辺の散策ルートを考えてみる。あまり熱心にスマートフォンを見ていると夫が気にするから、ときどき目をやるくらいで、映画の上映中はもちろん見ることはなかった。映画は夫が以前から観たがっていたもので、片道15分ほどのショッピングモールにある映画館に来ていた。映画はそれなりに面白かった。鑑賞後のふわふわした心持ちで下の階に下りると、噴水前に人だかりができていて、私は歩みを緩めた。しかし夫は噴水と反対側の、海の見える大きな窓の方を見たまま速度を落とさなかったので、私も止まらずにその人だかりの後頭部を見るしかなかった。愉快げな音楽が流れていたから、たぶん大道芸の類だろうと思った。
 夫が歩きながら「主演俳優の名前なんだっけ」と訊いてきた。私はミドルネームの入った長い名前を答える。「よく覚えてるね」と夫は言った。夫が知らないだけで彼は有名なスター俳優なのだ、ユダヤ人の収容所があった町で生まれたオーストリア出身のたぶん一番有名な俳優。でも、知らないということが全然有り得るのだ。壁に守られた場所で、津波が壁を越えるその瞬間まで気づかないということが、往々にして。もちろん、私だってたくさんのことを知らない。
 夫は自分のスニーカーをちらちらと見る。新しくネット通販で買った靴だ。汚れないか心配なのだろう。私は再びスマートフォンを開く。両側を生垣に囲まれた道の先に、ビビッドな色合いの建物が見えてすこし気になった。しかしそこに着く前に、再びスマートフォンを閉じるだろう。


件名:車内の床の黄ばみについて


 二度目の投稿になります。先日貴社の電車に乗っていてふと足下を見たところ、私の足の真下にわずかではありますが黄ばみがありました。
 それでそれは何なのか考えたのですが、人々の足というのはたぶんそれだけ汚れているんですね。町を歩く、便所に行く、ガムを踏む、なんてことの繰り返しが町で生きるということなんだと思ったのです。私たちはドラえもんみたいに地面からちょっと浮いて生活することはできないですから。
 私の座っているこの席に、いったいどれだけの数の人が座ったんだろうかと考えてしまうんです。その人たちそれぞれにまったく交わらない生活があると思うと、なぜか胸がざわざわしていきました。おかしいと思います。そんなの当たり前のことで、平然と飲み込まなければいけないことなのに、なぜか立ち止まってしまう。昔からそうです。
 ざわついた気持ちで辺りを見回すと、それぞれの乗客が妙に生々しく見えてきて、蟻の群れを細かく見ているような気になってしまって気分が悪くなり、思わず開いたドアから降車してしまいました。そこは降りるべき駅からまだ二駅ほど手前でした。でもここに留まってまた電車を待つよりは、歩き続けたいという気分になって改札を出ました。どこの町にいってもまず耳に入ってくるのはパチンコ屋の音という気がします。ジャラジャラと金属が流れていく音。甲高くて鼓膜をつねられているような感覚で、嫌いです。私は徳島への移住を考えているのですが、徳島にはパチンコ屋が少ないといいなと思います。
 それで駅から商店街のある下り坂をすこし行ったところに、ドラッグストアがありました。私が働いているのと同じ会社の店舗でした。トイレットペーパーなど、買わなくてはいけないものがいくつかあるのを思い出して、店内に入りました。店内は当然私が通っているお店とは違う風景でした。レイアウトも従業員もおそらく客層も違う店内をうろうろと歩いて、冷凍食品が安かったので思わずカゴに入れてしまったりしました。
 それでレジの方に行くと、なかなかの長い列ができていました。スタッフが足りてないのか、レジは二つしか開いていませんでした。思わず助けに入ろうかと思ってしまいました。私が並ぶレジにいたのは大学生くらいの若い女性でした。精彩のない顔色をしていて、手もとの動きも悪くてハラハラしてしまう。でもあとから思ったのですが、もしかしたら彼女は生理中だったのかもしれません。普段はもっときびきびとした人なのかもしれません。
 それで、そのレジに老婆が割り込んできたんです。レジの流れに逆らって、袋づめコーナーの方から彼女に話しかけてるんです。一目見て、私の店舗によく来る老婆だとわかりました。その手には紙コップが握られていました。何かをしつこく店員の彼女に聞いているのです。店員の女性は何度か短くそれに答えました。それでも老婆はまた何か質問しました。会計の途中の30代くらいの男性が苛立った様子で立っていました。私の胸がまたざわざわと苦しくなりました。そのとき、店員の彼女が言いました。
「ちょっと待ってって言ってるでしょ!」
場の空気が凍っていました。彼女は会計を続けました。ピッピッとスキャンの音が私のところまで聞こえました。というかそれはずっと鳴っていて、私が気にしなかっただけなのだと思います。
 私は列を離れました。そこにいることはできなかった。買い物かごを人気のないコーナーにそっと置いて店を出てしまいました。だから冷凍食品が、たぶんだめになってしまったのではないかということが気がかりです。
 と、ここまで書いて、これは全然こちらに書くことではなかったと反省しています。貴社にお伝えしたかったのは黄ばみについてのことだけです。おそらくこれを読まされる方がいるのでしょうが、大変気の毒だと思います。ですがこのまま投稿してしまいます。ごめんなさい。


 夫がいつもより早く帰宅してきた。私はパソコンの前から素早く離れてソファに座っていたふりをして彼を迎えた。
 夫は、ただいま、と言ってから緑色のビニール袋に入った何かをダイニングテーブルに置きました。そこには本が入っていた。徳島のガイドブックだった。
「徳島、気になってたみたいだったから」夫は靴下を脱ぎながら言った。
「来月、仕事の方もそんなに忙しくないから久しぶりに旅行もいいかなって」
 私は無言でガイドブックを見つめた。足下がぐらぐらと揺れているようだった。「うん」と答えて寝室に向かった。どんな顔をしていいかよくわからず、なぜか涙が出ていた。寝室に入ってベッドに腰掛けて、暗い部屋のなかでカーテンを見つめた。カーテンの向こうの窓の向こうの町のさらに先に徳島の町に住むだれかがいて私を見つめていた。

 それから十年が経った。一人になった私だったが、徳島に足を運んだことは一度も無い。