いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

ベランダの夜明け

 若い男を召喚する手軽な方法があるときいて試してみると、これが効果抜群だった。方法は簡単で、夜の0時にベランダに陶製の灰皿とシケモクを置いておくだけだった。銘柄はなんでもよく、本当に吸ったものでなくても燃やされていればよい。私は煙草を吸わないのでありがたかった。はじめて仕掛けた夜、0時を過ぎておそるおそるベランダをのぞくと、いた。茶髪に金のハイライトを入れた20代前半の男が、四つん這いで火のついてないシケモクを咥えていた。早速招きいれてセックスをした。
 私はこの方法の正しさを確信し、以後数日に一回程度の頻度でシケモクを仕掛けていた。そして今日、シケモクにかかったのはなぜかおっさんだった。


 目尻のしわ、ほうれい線が懐中電灯のあかりのなかでくっきりと見える。おっさんはまぶしそうに目を細めて、シケモクをくわえたまま顔をあげる。おでこから頭頂部にかけて極端に毛髪が少ない。両サイドの毛は長く、黒々としている。私の方を見て、なにか口をごもごもと動かしていた。私は仕方なく窓を少しあけて、口を出した。
「なんですか」
「なんか缶詰めあるとうれしい」おっさんは言って口角をにゅっとさげた。あるとうれしい、じゃねーよと思いながら私はつぶ貝の缶詰めをあけて灰皿の横に置いた。「つぶ貝。センスあるね」とおっさんは言った。「お姉さんお酒のみだね、さては」うれしそうだ。「お酒は飲まないです」私は言った。


 その次もおっさんだった。同じおっさん。同じ男が来るのははじめてのことだった。私はつぶ貝をだして、窓の桟の辺りに腰をおろした。煙草をとりだしてみる。真新しい煙草はなにかのアイテムみたいに綺麗だった。じっと眺めているとおっさんが言った。「煙草吸うの?」「いや、吸わないんですけど吸ってみようかと」「やめな、からだに悪い」そう言っておっさんはシケモクを吸う。
「なんか、職場にヘビースモーカーのお局さんいるんですけど、その人に『くさい』って言われて。『制服がにおう』って。その人が言うと、まわりはなんとなくだけどそれに参加しなきゃいけない感じがあって、で、私結局その日からずっとファブリーズしてブルーベリーのガム噛んでるんですよ」
「つぶ貝はこれ、俺来ると思って買ってくれたの?」
「ちがいます」つぶ貝が好きで買いだめている。
「いやー、自分のにおいって自分じゃ気づかないよねぇ」おっさんは首にかけていた、いかにも「手ぬぐい」という感じのタオルでこめかみの辺りを拭いた。
「私くさいですかね。くさいです?」
「いやいや。ここカレーのにおいがすごくて分かんないわ」たしかに、今日は隣か下の階でカレーを食べたな、というにおいがしていた。おっさんがつぶ貝をあける。私は自分の服をかいでみた。ブルーベリーのせいで全然分からなかった。


 次もおっさんだったので、おっさんの名前を聞いてみた。おっさんはなぜか照れくさそうにフジナガと名乗った。
「今日はお局さん機嫌悪くてほんと参りました。仕事全部押しつけるいきおいでずーっとイライラしてますっていうアピールがすごくて。私の電話の受け方が気に入らないって言い出したり」
「殺しなよ」おっさんは言った。
「そうもいかないじゃないですか」
「じゃあ逃げるか」
「……私ね、中学のときいじめっ子でした。煙草も吸ってました」
「へぇ」
「お局さんも私も同じなんですよね。世の中に甘えてるタイプの人間。で、私ちがう人間になろうって思って、そしたらなんだろうって考えてセックスかなぁと。お局さんに勝れることっていったら」
フジナガは黙々とつぶ貝を食べている。向かいのマンションの上に月がいつもより白っぽく光っていた。
「でも、やっぱり、ちがうんですかねぇ」
「ディズニーとかは?」
「はい?」
「ディズニーとか行かないの? おれ行ったことないんだよなぁ」
フジナガが舌打ちのようにチュッチュと音をたてて歯のあいだに詰まったものを吸っている音がした。
「ディズニーとか行く方がいいと思うんだよ。君みたいのはミッキーと握手して写真とってさ」
私は黙って、膝のうえに顎をのせたまま、ライターを擦った。黄色く炎があがり、親指の爪の辺りで熱を感じた。煙草に火をつけた。吸うとかたい煙がのどをチクチク刺しながらくだっていく。
「ああ」フジナガがうめいた。「ソープいきたい」


 私はシケモクトラップをやめた。煙草をときどき吸う。社員旅行のときのお局さんの画像をアップにしてその両目をつぶして火を消すようにしている。
お局さんがものもらいで眼帯をしてきたときは、呪いの効果だと思った。夏が過ぎた。だいぶ涼しくなった土曜日、ふと思いたってトラップを仕掛けた。おっさんとセックスしてもよかったと思ったのだ。私はベランダに足だけ出してフジナガを待った。0時を過ぎても現れなかった。つぶ貝を食べながら、ミッキーの手のかたちをしたスクイーズをもてあそんで待った。月が徐々に薄くなって消えていつの間にか朝に入っていた。近くの線路から始発が走り出す音が聞こえてきた。ぶるっとふるえてあくびをして、吸っていた煙草を、普通に消した。