いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

小花

駐輪場で千夏と出会う。お互い、放課後に未練なんてない。まだ誰もいないこのトタン屋根の下で私たちは雑に置かれた自転車を引っ張りだし、またがる。早くも汗がにじみ出てくる。シャーシャーと蝉。梅雨明けたての空はまだ曇っている。
「いつもんとこ?」
「うん」
それだけの会話を交わし、校門を出る。バス通りを縦に並んで走る。暑いのでペダルは極力こがないようにしている。それでも汗でブラウスが背中に張りつくのが分かる。坂を下って国道に出る。自転車が加速して、無駄に長い私の黒髪が風に押される。左に曲がって五分走り、わき道に入ってすぐのところにセブンイレブンがある。駐車場は3台分しかない。私たちは雑誌コーナーの見える窓に持たれかけるように自転車を置いた。
「今月は千夏」
「わかってるよ」
ドアが開くと冷気に包まれた。涼しい、と思わず声になる。千夏とは離れ、炭酸ジュースとスナック菓子を買う。千夏がカゴにジュースと雑誌を入れてレジに行く。レジのお兄さんが気だるい声をあげた。
自転車の前で待っているとすぐに千夏が出てきた。そして、
「表紙やばい」という。
「まだ見ない。着いてから」
私は応えてふたたび自転車にまたがる。ここから私の家まではすぐだ。
二分後、オレンジ色の屋根が見える。千夏は家の前に、私は門をくぐって玄関のわきに自転車を停めて、ドアを開ける。
家のなかは大して冷えていない。なにか甘いような野菜のようなにおいがする。ただいま、と靴を脱ぐとあとから千夏が入ってきて、お邪魔しまーすという。とくとくと脈を耳の辺りで感じながら、リビングを覗く。母がいる。
「おかえりー」
母が顔だけこちらに向ける。テレビがついている。古い二時間サスペンスみたいだ。BSだ。
「すみませんお邪魔します」
私の後ろから千夏が声を出す。少し高い声をつくっている。
「はいはい、いらっしゃーい。あれ、千夏ちゃん髪切ったでしょ」
母が嬉しそうにいう。
「あ、はい。夏なんで」
「かわいい!ねぇ、れにもこういうのにしたら?ショートボブみたいな。ねぇ千夏ちゃんもそう思うでしょ?」
「いいよこのままで」
そういってリビングを離れる。階段を登りながら千夏が、
「れにのお母さんマジ陽キャ
「それな」
「なんでれにが陰キャなのか分からん」
「夏なんで」
髪をかきあげながら、さっきの千夏の真似をしていってみる。
「は?なにそれ」
「夏なんで」
千夏が堪えきれず笑う。まじうざい、といって千夏が先に私の部屋に入る。
二階は暑い空気が充満している。肌にまとわりつくむっとした空気に、急いでエアコンをつける。二人して胸もとをパタパタしながら、ベタベタしたからだを極力どこにもくっつけないように座りこむ。エアコンがぼーっと稼動するなか、どちらともなくペットボトルのジュースに口をつける。っあー、とおじさんみたいになる。
「いきますか」
千夏が上目遣いにいう。私はスナック菓子の袋をあけながら、オーケー、という。
じゃーんと千夏が袋から取り出したヤンジャンの表紙に遠藤小花がいた。黄色いビキニを身につけて覗きこむようにこちらを見つめている。
「え、やばい」
「ね、やばいっしょ」千夏が自慢げにいう。
「まゆ毛ちょっと変えたかな」
「色かな? ちょっとちがう気する」
表紙をひと通り眺めたところで「めくりますか?」と千夏に声をかける。千夏がうなずく。めくる。
「制服かぁ」
千夏がため息まじりにいう。誰もいない教室、あかりは消えていて、カーテンが日差しを受けて濃い陰影をつくっている。窓際席に座っている小花がこちらを振り向いている。頬が白く、そこが光源みたいに光っていた。
「きれい」私は言いながら、ページをめくった自分の指がかすかに湿っているのを感じた。

遠藤小花を最初に見つけたのは近所のスーパーだった。私と千夏はいつものようにラーメンが290円の、小さなフードコートにいた。しなしなになったフライドポテトを食べながら、ぼうっとあたりを見回して、エレベーターのわきにそのポスターを見つけたのだ。それは火の用心を呼びかけるポスターだった。白いセーターを着た、ふんわりヘアの美人が手を組んですこしはにかんだ感じで笑っていた。どことない初々しさとふてぶてしいほどの存在感があった。私は指をさして、あの子かわいいといい、千夏もほんとだと応えた。
それからすこし経って、ある日の学校帰り、千夏が鞄から小花がプリントされたクリアファイルを取り出した。どこかの予備校の名前のうえで、小花がガッツポーズみたいな格好をしていた。ブラウスのうえに紺の縁取りのオフホワイトのニットを着ていた。やっぱりかわいかった。
「駅にあった」
そういってそれを私にくれた。二枚取ったのだという。
私たちはファミレスに入り、遠藤小花をスマホで検索した。小花が自分たちと同じ横浜生まれの17歳であることを知って、なんだかおおっとなった。芸能事務所主催のコンテストでグランプリ、中学時代は陸上部にいたこと、ピアノが弾けること、好きなタイプは「呑気な人」、好きな色は青。そういうことをひとつひとつ仕入れていって、よく分からないけれど、彼女のことばかり気になった。

「この制服どこのかな」
「どこのとかないんじゃないの、こういうの」
「いいや今度調べてみる」
千夏がいった。千夏の家には制服コレクションという本があるということをこのあいだ知ったばかりだ。なんで持ってるの、と聞いたら好きだから、と返ってきたのでそれ以上聞く気にならなかった。
「クラスのあの子はいまなにを思っているのだろう、だって」
千夏がグラビアに寄せたコピーを読む。きゅっと肩をすくませたくなる感じの良いコピーだと思った。
「この男の子は放課後の教室に忘れものを取りに行ったんだよ、だから部活やってるね、文化系だね」千夏が早口でいう。
「天文部とか?」
「写真部だね、そんでクラスで一番美人の小花が座ってる。もはや好きとかそういう対象じゃないけど、声はかけられない。音を立てないように自分の席に向かう途中、彼女が振り向いた」
「彼女って」
「彼女だよ、代名詞だよ、誰もが小花になりうるんだよ、いや小花にはなれないけど小花になるんだよ。ほら、後ろ向いて」
「は?」
「いいから後ろ向いて」
私は背中を向けさせられる。
「はい振り向いて」
上半身をねじって千夏を見る。ジャッ、とシャッター音がする。道路で腹を見せてる蝉が動いたときみたいな声。写ルンですを持ってる千夏が満足げにうなずく。
「オッケ」
「なにが」
千夏はよく小花の写真と同じポーズを私にとらせて、インスタントカメラで撮る。まだどんな写真が撮れているのか見せてもらったことはない。
ページをめくる。水着だ。さっきとはちがう水着。青いワンピース型で胸のところはリボンのような形になっている。前かがみになることで彼女のDカップはしっかり強調されている。キメの細かい赤ん坊のおしりみたいな谷間。この肌の、これ以上ない美しさは加工されたものなんだろうか?いや、たぶんちがう。小花はまゆ根を寄せて、悩ましげな表情で視線を逸らしている。
「学校のプール」私は千夏がいう前にいった。千夏はうなずいて、
「これカメラはプールの中から撮ってる」という。たしかに視点は下からのアングルでプールのへりが写っている。
しばらく無言でそのページを眺めた。いつの間にか、エアコンの風がしっかり涼しくなっていた。千夏は写真を撮ろうとはしない。私に胸がないからか?
「次いこう」千夏がいった。めくる。
表紙とおなじ黄色いビキニだった。見開きに、寝転んでいる小花と、眩しそうに空を眺める麦わら帽子をかぶった小花の二枚。真ん中には写真集の発売予告。インスタでとっくに知っていた。
「少ない」
私がいうと、千夏は無言でうなずき、ページを戻ったりしながらひとりでグラビアを眺めている。
「グラビアって印刷の種類のことなんだよ」
私はスナック菓子を食べながら、千夏のつむじに話しかける。
凹版印刷?の一種で、まぁ要するに色がきれいに出るやつなんだけど、いまの雑誌のグラビアってほとんどその印刷法じゃないんだって」
「知ってる」千夏が小花から目を離さずにいった。私はジュースを飲んだ。

千夏の死んだ父親がカメラマンだったというのは本当なのだろうか。私はうわさレベルでそれを聞いたけれど、直接彼女に確認したことはない。けれど彼女がいつもカメラを持ち歩いているのは、そういうことなんじゃないかと思っている。父が死ぬというのはどんな感覚なんだろう、と思うことがある。千夏の、小花の話をするとき以外のつまらなさそうな表情は、そのせいなんじゃないかと考えてしまうのは、私が近しい人を失ったことがないからなのだろうか。
千夏とはじめて話したのは、あの駐輪場だった。その日校内では教師が生徒を殴るという事件があった。下校前にはすべての生徒がそのうわさを耳にしていた。なんだか妙な興奮が学校中を包んでいた。自転車を取ろうとして、彼女と目が合った。それまで何度も顔を合わせていてスルーだったのに、私はなぜだか会釈していた。千夏もただ地面を見るようなお辞儀のような格好をした。私はいった。
「山中が唾吐いたんだって、先に」
千夏が顔を上げた。
「古川先生の顔に。だから手が出たんだって。先生、悪くないよね」
千夏は鼻をすんとすすって、
「手出したらだめだよ」といった。
私はなんとなく、彼女は同意してくれると思っていたから裏切られた気持ちがして、その場を遠ざかろうとした。背中に声がかかった。
「ちょっと、付き合ってほしい」
そうして私たちは国道をずっと自転車で走って、川崎の工業地帯が見えるところまで行った。コンクリートの海岸みたいなところから、工場群を見た。工場はむき出しの骨みたいに荒々しくて、炎がめらめらと心臓みたいだった。千夏はポケットからインスタントカメラを取り出してその光景を撮った。何枚も何枚も撮ってから、喋った。
「写真の現像を教えてくれたことあって」
それが古川先生のことだとすぐに分かった。先生は写真部の顧問だった。
「部屋に工場の写真ばっか飾ってあるっていってた。工場の写真しか撮ってないんだって。変態」
そういって笑った。笑うと八重歯がのぞいた。
「手なんか出したら終わりだろ」
そういって、喋らなくなった。そして、その日から私たちは一緒に行動するようになった。

私はスナック菓子で汚れた手をウェットティッシュでぬぐってから、勉強机の文房具に手を伸ばす。はさみを取る。千夏が私の机からファイルを取り出す。青い表紙のファイルにはなにも書かれていない。ひらくと、小花の笑顔がこっちを見る。中学生の小花はひょろひょろと細い。小さい花柄の紺のワンピースを着ていて、両手をパーにして振っている姿があどけない。グランプリを取ったときの写真。これはネットから拾った。そこからページをめくると、彼女のグラビアが、インタビュー記事がつづく。小花が載っている雑誌のバックナンバーを二人で調べて、ネットで買ったのがいくつかある。小花の体はだんだんと肉づきがよくなっていく。筋肉のうえに適度な脂肪が乗っかっていく。
私はヤンジャンにはさみを入れる。丁寧になるべくまっすぐに刃を走らせる。
スクラップブックの作り方など分からないから、私たちはそのファイルにとにかく小花を集めていく。積み上げて積み上げて、その先になにがあるわけではない。ただ積み上げたその足もとがすべてなのだ。
「よし」
私はうまく切れた紙片を光に透かした。制服姿の小花に、水着姿の小花がオーバーラップする。
あの子はいまなにを思っているんだろう。
千夏が鼻歌を唄う。なんだっけこの歌、と思いながら最後に聴いたのはたぶん二人で行ったカラオケボックスだったと思い出す。曲名は思い出せない。けれどそのときも廊下から流れてくるこの曲を、彼女は口ずさんでいた。
胸が急に苦しくなった。暗いカラオケルームの、輪郭だけ白んだ千夏の横顔。
「写真集、あと半月か」
千夏が膝にあごをのせながらつぶやいた。
「もうテストも終わって夏休みだ」
「夏休み」私は復唱する。千夏が私を見る。私は持っていたはさみを床に置き、彼女の方へ滑らせた。
千夏は片眉を上げてそれを見た。それからはさみを私に返した。
「髪切ろうかな」
千夏はなにも言わない。
「切ってよ千夏」
「れにの髪を?」
「うん」
千夏は私をじっと見た。そして息を吐き、にっこりと笑った。私は時間が止まったのかと思った。目の前の光景が、後も先もない一枚の写真みたいだった。
「いま、小花みたいだった」
私はいった。本心だった。千夏が真顔になり、口を開けた。
「いま、小花みたいだった!」
私は目のまわりに熱を感じた。夢中で口を動かしていた。なんで泣きそうなの。
私は千夏の手のなかのカメラを奪った。そしてシャッターを切る。音がしなかった。巻いてなかった。急いで巻いてもう一度切る。ジャっと音がする。油に投げ込まれたお肉みたいな音。千夏はぼう然と私を見ている。その目に涙が浮かんでいるかどうか、小さなフレーム越しにはよく分からない。