いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

夏の獣

 姉が未知をおいて家を出てから三日が経つ。ふらっと訪れた実家である我が家で、姉はそうめんを少しだけ食べた。ほとんどの時間をリビングに座って過ごした。私は数学の期末試験の成績がすこぶる悪く、夏休みの補習を課せられていて、暴力的な暑さの中を学校から自宅まで自転車を走らせて帰った。玄関に見慣れないからし色の靴があって、姉が来ているのだと察した。リビングに入った私に姉は待ち構えていたように視線を走らせて、おかえりと言った。うん。私は言葉につまってしまい、そう返したあと汚れてもいない紺色の制服スカートに視線をやり、パンパンと手で払った。じゃあじゃあと蝉の音が窓にぶつかっていた。姉はリビングのテレビ前の座卓についていて、姉の前にはそうめんがあった。ガラスの器に入れられためんつゆが茶色の中に日差しの白を含んでいた。姉の箸はいつもと同じ箸だった。姉が出て行く前に使っていたものをそのままとってある。朱色の塗り箸は修学旅行かなにかで、姉が自分で買ってきたものだったはずだ。
 おかえり、と隣の和室から母の声がした。私はリビングから和室をのぞいた。そこには母と未知がいた。未知は布団の上に寝かされていて、母は未知に掛けられたタオルケットの上、お腹のあたりに手をあてて微笑んでいた。そうめんを茹でるから、と母は言って立ち上がった。母が台所へ行ってからも私は和室の入り口で未知を見ていた。未知はいくつになるんだろう、たぶん一歳を少し過ぎたくらいだ。
「似てる?」と姉が訊いてきた。私は未知の方に視線をやったまま「どうかな」と答えた。実際のところなんともいえなかった。目のあたりが姉に似ているかもしれないがそれはまつげが長いというだけだし、第一、相手の男の顔もしらないのだ。それよりも未知の大きさが気になった。半年前に見たときとずいぶん違って、ふくふくとしている。
「すごい大きくなった」と私が声に出すと姉ではなく母がそりゃね、と応えた。未知は頭の毛がまだ薄い。茶色い毛がふわっと綿菓子みたいにのっている。黒々したまつ毛の目を閉じ、小さな口を開けて未知は眠っていた。ぴくっと痙攣するみたいに右肩が動いた。そのしぐさがとても人間くさくて、同じ生き物なのだという当たり前のことを私に意識させた。姉は、その日の夜中に消えた。

 姉の住んでいたアパートに着くまで父はほとんど無言だった。声を発したのは途中で走った川沿いで、橋の向こうに夕日があって川面に乗っかっているように見えたとき、思わず出たという感じの「おお」という一言だけだった。それは唸り声のようにも聞こえ、少なくとも私に向けられたものではないと思った。父はアパートまでの道を、カーナビも使わずにたどった。よく覚えているなぁと思った。父と母は二回ほど姉のアパートに行っているけれど、私がしらないだけで本当はもっと頻繁に行っていたのかもしれない。
 ドラッグストアの隣のタイムパーキングに車を停めて、父は「こっち」と信号の方を指差した。夕方になってもアスファルトは昼間の熱をそのまま帯びていた。足首のあたりまで、見えない手でつかまれているように熱気に浸かっている。サンダルと地面が接着するパシンパシンという音を響かせながらコインランドリーの角を曲がり、一方通行の路地を数十メートル行ったところで父は足を止め、左側のアパートを見上げた。203という部屋番号だけは私も覚えていて、同じく見上げて立ち止まった。そういえば今日は風がないなと思った。
 どうして父と二人ここに来ようと思ったのか、そのときにはもう忘れていた。父もそうなのではないかと思う。ここに姉がいる気はしない。それでも父はなにかせずにはいられなかったし、私はきっと家にいたくなかった。家の中は空気が止まっている。完全に静止しているわけではなくて、表面上止まっていて、その奥深いところでどろどろと流れているような不穏さがある。いまこの瞬間になにかが弾けてしまいそうな予兆だけが延々続いていくような緊張感。そして、それなのに未知だけはその流れの中にいない。彼女だけが日常と地続きに存在している。
手すりのついた階段を父がのぼっていく、カンカンと金属を踏みつける音がする。階段下にはそこだけ最近付け加えられたように真新しいメールボックスがあった。手すりをにぎるとさびの粉っぽい感触があり、手を引っ込めた。階段の途中に蝉が腹を見せて死んでいた。のぼって外通路を一番奥まで進むと姉の部屋だった。父は私がついてきたのを視認してからかぎを回した。
姉の匂いがするかと思っていたのでドアが開いたとき、自然と眉根を寄せていた。けれど香ったのは埃と日陰のカーペットのような匂いの混じったものだった。私は姉の匂いが昔から苦手だった。くさいわけではなくて、むしろ少し甘く鼻腔を緩ませるような良い匂いなのだけれど、それはなにか重大な忘れごとをしていて、けれどその違和感すらも消えかけているような幽かなゆらぎで、いつも私を少し緊張させるのだった。
目が暗さに慣れないうちに靴を脱ぎ、廊下を進んだ。むっとする空気に汗が一層噴出する。先を歩いている父が廊下の電気をつけ、しばらくしてリビングもつけた。リビングに入る。そこで立ち止まった父の脇を抜けて、となりの一軒家が見える窓際に立った。殺風景な部屋だった。見るかぎり華やかな装飾はなに一つない。生活するにあたって必要そうな物だけが未知の使う小さなアイテムも含めて、正確に置かれているという感覚だった。父は無言でリビングテーブルの椅子に座った。テーブルの真ん中に郵便物かなにかの不在票がおかれていて、父が他にしようもないという風にそれに触れた。リビングの奥に白い引き戸で仕切られた部屋がある。寝室として利用されているのであろうその部屋には、ベビー布団が敷いたままになっていた。壁のフックには小さな洋服がハンガーに掛けられている。私はなんとなく奥の押し入れが気になり、ためらいなくそこを開けた。洋服の入ったプラスチックのボックスや、ビニールに包まれた暖房器具、大人サイズの布団などが畳まれて入っていた。姉らしい原色系の服が透明なボックス越しに見えたが、実家にいたときあれだけたくさん持っていたはずの服が極めて少なくなっている気がした。
「どこに行ったんだ」
リビングから父のつぶやきが聞こえてきた。語尾がかすれていた。私は応えることもできずに、湿った木の匂いのする押し入れの前にただ立っていた。

家に帰るとリビングに歩き回る未知とソファに腰掛ける母がいた。未知は桃色のやわらかい積み木のようなおもちゃを持って、だぁだぁと声を発していた。私の視線に気づくと声が止まった。怯えたような、好奇心のかたまりのような瞳。私はあわてて視線を母に送ったが、母の目は未知に注がれていた。姉のアパートを出る前に父が携帯で状況を伝えていたので、母はお帰りなさいの他にはなにも訊いてはこなかった。シチューのバターっぽい匂いがリビングに充満していて、急にお腹が空いてきた。
夕食まで未知は眠ることなく遊び、母のとなりで一緒に食卓についた。足まで固定される機能的なデザインの赤ん坊用チェアは、未知が産まれる直前に母が買ってきた物だ。母はそこに座った未知のことをさっきまでと同じ笑顔で見ている。
「まつりにご飯食べさせるときは苦労した」
 母が急に私の名前を出して言った。
「ぐにゃぐにゃタコみたいに動くから、全然座ってられなくて、何度も椅子から落ちるし」
 父がシチューをすする音がした。
「未知は大人しくて手がかからないね」と母が未知に話しかけるように言い、小さなスプーンで掬ったシチューを彼女の口に運んだ。彼女はぽっと口を開けそれを受けたけれど、口角から白い液体がとろっと垂れた。母はやはり穏やかに笑ってそれを指で拭った。
「お姉ちゃんは大人しかった?」
 私は訊いた。父の手が止まったのが分かった。母は未知から私へと視線をやり、「莉生(りお)は……」と少し考えてから言った。
「いつも寝てたような気がする。一度眠ると長いのよ、とにかく。それで助かるは助かるんだけど、でも色々心配だった」
 母の目が天井の隅の方を見つめる。
「考えごとしてることも多かったじゃない? それも、なにか変わったことを」
 姉は雄弁なタイプではなかった。周りでなにか起きていても、一人だけじっと空の雲を見つめているような人だった。それでいてその思考内容はどうでもよいことが多くて、換気扇の回る音がどしゃぶりの雨の音と似ていてこれが本当の雨だったらと思うとぞっとするとか、爬虫類の鮮やかな発色は一体なにに対するサインなのかとか、ときどき考えていることを教えてくれた。そのどれもが(覚えている限りで)私にとって共感しづらいものというか、そうかもしれないけどそんなこと考えてなにになるのという苛立ちに近い感情を抱かせるようなもので、私が苛立っていると分かると姉は「まぁどうでもいいけど」と笑った。その姿にまた新たな苛立ちを覚えてしまう私は、姉のなにかが決定的に自分とは異なっているという事実を認めざるを得ないのだった。
「だからって、娘をおいて出て行くなんて」
 父が言葉を発して、白飯をいまいましそうに頬張った。
「母親失格だよ」
 母は父の方をぼんやりと見つめて、「そう簡単に決めつけれるものでもないから」と言った。
「決めつけるもなにも」
 父の声に一層の怒気がこもった。こんなに感情をあらわにする父はいつ以来だろう、と思った。
「現に、莉生は消えて未知は一人ぼっちじゃないか」
 私は未知を見ていた。未知は言葉にならない声を発して、首を見たいものの方に曲げ、なにかを捕まえようとするように手を動かしていた。
「……できることをするしかないでしょう。いまは未知を……」
 母もまた未知に視線を戻していた。言葉は継がず、未知の頭を形にそってなで、シチューを彼女の口に運んだ。じゅる、という音が沈黙の中に浮かんだ。
 父はその後、無言で食事を終えて二階に上がっていった。母が洗い物をしている間、未知と遊んだ。遊ぶといっても、未知は勝手に動き回り、私はそれをなんとなく見守っているだけだった。それ以上関わろうとする意志はなかった。リビングテーブルの下をハイハイして戻ってきた未知から、ぷうんと刺激臭がした。おむつを確認すると未知は大便をもらしていた。母にそれを伝えると、母は顔をくしゃっとさせて「あらあら」と言い手を拭いておむつを取りに行った。

 夜中に暑さで目を覚ました。エアコンが停まっていた。体の下にリモコンがあり、いつの間にか消してしまったようだった。首のあたりがじとっと濡れているいやな感覚があった。Tシャツを持って階下のリビングへ降りていく。リビングには小さな非常灯が黄色い光を放っていた。静けさの中に冷蔵庫かなにかが動く音がただよっていた。廊下を伝い、脱衣場で体を拭いてTシャツを着替える。リビングに戻り、冷蔵庫からウーロン茶を取り出しコップに注いだ。
「寝れない?」
 と暗闇から声がして体がびくっと反応する。シルエットが近づいてきて、母の顔が非常灯の明かりに照らされた。母はそのままリビングの椅子に腰掛けた。母は薄手のパジャマ姿だった。見事に黒い髪が闇に混ざり、顔の白さが引き立っていた。ふっと息を吐く母の姿が、なぜだか異様に若く見えて驚いた。
「ううん、暑くて」と応えた私は、突然その場にいることがいたたまれない気持ちになり、慌ててウーロン茶を飲みほした。
「よく寝てる」母が言った。「未知」
「あぁ」和室の仕切りは開いているが、未知の顔は見えなかった。
「心配?」
 母が訊いてきた。すぐに姉のことだと察した。私は自問した。心配なのだろうか、この気持ちは。ざらざらとした感覚がそうではないと言っているように思えた。私が姉に感じる気持ちはいつからかすべて違和感の内側にある。でこぼこの、組み合うことのないパズルのピースのように私たちは存在していると思っていた。母はそれに気づいていないのだろうか。それで、こんなことを訊いてくるのだろうか。
「大丈夫じゃない?」
 私は母の顔を見れず、自分のつま先を見ながらそう言った。
「なんかさぁ、大げさに心配してもって感じ。そのうち戻ってくるよ」
 私はいま、母の欲しい言葉を喋っているという気がした。自分の放つ言葉はどこまでが本当に自分のものなのだろう。ときどきそれが分からなくなる。母のため息のような鼻息が聞こえた。
「そうね。それまで、まつりにも迷惑かけるけど」
「ううん」
 私はそう言って流しにコップを置き、足早に二階の自分の部屋を目指した。
 エアコンのスイッチをつけベッドに仰向けになると、自分の心臓の鼓動が聞こえた。どっどっどと、はやし立てるような急き立てるような速さで体を血がめぐった。私は姉の顔を思い浮かべようとしていた。あんなに見慣れた顔が、いざ浮かべようとすると正確にはいかないようだった。そうして天井を睨んでいるうちに、私は眠りに落ちていた。

 未知が熱を出したのは、それから二日後のことだった。朝から桃の皮のように赤い顔をしていて、母が熱を測ると39度近くあった。私は病院に連れていくのだろうかと考えたけれど、母は冷静に未知を観察し、一日様子を見ると言った。
「赤ちゃんってよく熱出すのよ。全部病院行ってたら大変」
 そういうものなのか、と思いながら未知を見る。目をぱっちり開き、いつものようにだぁだぁと喋って手足を動かしている。どうやらそれなりに大丈夫そうで、私も少しの安堵を覚える。その後、昼までを二階の部屋で過ごしまたリビングに下りてくるといつもどおり遊ぶ未知の側で怪訝そうな表情を浮かべる母の姿があった。どうしたの、と訊くと「未知がごはんを食べなくて」と返事があった。
「元気そうなのに……ごはんだけ食べないの」
 テーブルの上にはお茶碗に入ったごはんがそのまま残されていた。母は少し焦っているように見えた。やっぱり病院行くべきかな、とつぶやいて立ち上がり、昨日の残り物からなる私の昼食を用意した。私が食べている間も、やはり未知は食事ができなかった。
 午後を近所の市立図書館で過ごし、夕方帰宅した。玄関で靴を脱ぎながらリビングの方を見たけれど、日はだいぶ傾いているのに明かりがついていなかった。ただいま、と言いながらリビングに入る。そこには誰もいない。和室の方を見た私の視界がぐらっとゆらいだ。そこには未知と母がいた。母は上半身をあらわにして、その乳房に未知が吸いついていた。
「まつり」
 声も出ずにその場に立ち尽くしていると母が気づいて私を見た。隠しごとを見られたような硬い表情が、徐々に笑顔に変化していった。
「なにしてるの」
 私は声をしぼり出した。
「お乳を、あげてるの」
 母の優しい声音が、むしろ不気味に響いた。和室の窓から黄色い日差しが差し込み、母を後ろから照らしている。体の柔らかな輪郭を強調し、畳に薄い影を落としている。私はおそるおそる近づいた。
「お乳なんかでないよ」
 私が言うと母はゆっくり首を横に振って、
「私もね、そんなわけないと思ってたんだけど。昼間っからやけに胸が張ってたの。なにかの病気かなって思ってたら未知が触るの。そうして試しにね、やってみたら出るの」
「そんなわけないでしょ!」
 制御できない大きな声が出ていた。未知が一瞬びくっと反応したように動きを止めた。しかし母が頭をなでると再び吸い始めた。真面目な顔で一心不乱に乳を吸っている。母は顔をうつむかせ未知を見ている。和室の入り口で私は再び足を止めた。母の横顔が、異様なほど若く見えた。十歳もニ十歳も若返ったようだった。白い肌はかすかにオレンジがかっていて血色の良さを示している。首から肩にかけてのしなやかなラインが、日の光を浴びた稜線のようにみえた。
「まつり。そういうことなのかもね」
 母は横顔のまま私に話した。
「神様が私にこの子を……」
 私は言葉にできなかった。この感情に名前がつくとは思えなかった。ただの嫌悪でも憎悪でも驚きでもない、誰に向けられたものなのかも分からない、黒々とした沼のふちで近づいてくる雷鳴に耳を澄ませているような、身じろぎすらできない混乱の中にいた。
 無言で自室に上がり、ベッドの上に倒れ込んだ。壁を見つめながら、なにか考えようにももやがかかったように鮮明にはならず、かといって眠ることもできないまま、ただじっとしていた。日が陰っていき夜になった。部屋のドアがノックされ、母が顔をのぞかせた。夕食はいらないと言うと母は驚いた声で、体調悪いの? と訊いた。私はうなずき、その後の問いかけには答えずに布団をかぶった。母は去り際、未知の熱が下がってきたと言った。遠ざかる足音とともに目の前がふと重くなり、眠気がおとずれた。

 ふたたび目が覚めた。全身はうっすらと汗ばんでいる。携帯で時間を確認すると一時を過ぎていた。重たくなった体をなんとか引き起こし、床に足をつく。窓の外から虫の音が網戸越しに部屋に侵入してくる。住宅街の真ん中に一人だけ取り残されたように人の気配はなかった。部屋のドアを開けて廊下に出る。父が寝ている寝室の扉はめずらしくきちんと閉められていた。壁に触りながら廊下を伝い歩き、階段を下りた。リビングには誰もいない。この間は目立って聞こえた冷蔵庫の稼働音も、今日はそれほど強調されていなかった。すべてのものが均質に並んでいる部屋の中に、私だけが異物としてある。
 左足が椅子の足に引っかかった。椅子はガタっと音を立てた。思わず未知と母が寝ている和室の方を見る。ふすまは閉められていた。一瞬安堵してから、いつもは小さく開けられているふすまがきっちりと閉められていることに違和感を覚えた。私の足は自然と和室の方へ向かっていた。和室に母がいる、起こしてしまうかもしれないと思うとためらう気持ちはあったけれど、それ以上になにか確かめずにはいられない気持ちの不安がまさった。和室のふすまを極力ゆっくりと少しだけ開けた。入り口の近くにいつものように未知が寝ているのが見えた。未知の寝息は耳を澄ませても聞こえない。ただ小さな体がじっと動かずに横たわっている。となりに寝ているはずの母の姿がなかった。そのとき階上から、ギッとものがゆがむような、軋むような音が聞こえた気がした。音は一度だけで、いくら耳を澄ませてもそれ以上は聞こえてこなかった。気のせいだったかもしれないと思いながら、私の中でむくむくと黒いかたまりが膨らんでいくのが分かった。
 父と母は寝室にいる。そう思うと、なぜだか鳥肌が立った。その程度のこと、想像したことがなかったわけでもないのに、なにひとつ悪いわけでもないのに、怒りがぐらぐらとわいてきた。上半身裸の母の姿がよみがえる。けれど私は、なにに対して怒っているのかいまひとつ分からないでいた。怒りは放射状にあらゆる方向に向けられているようだった。私は、自分が怒りそのもの、憎しみそのものになったような気がして、ひどく悲しかった。自分という生物はとっくに両手足をもがれて、感情に飲み込まれていたのに、そのことに気づかずにいたことが悲しかった。いや、気づいていただろう。気づいていて見ないふりをしてきたんだ。私は血の通わない体で生き物を演じていた。触れたってその温かさを、神経の通ってない私の指先は感じることができないのに温かいふりをして。
 私は畳の上に膝を落とした。ざらっとした感触が膝にあり、視界には未知の寝顔があった。安らかすぎる寝顔があった。途端に、私の頭の中は未知のことでいっぱいになってしまった。未知はまだその手足にしっかりと血を通わせ、あらゆるものに触れ、あらゆる感情を過ぎらせて、笑い泣くだろう。そのことがただただ堪らないことに思えた。私は少し痺れているような感覚のある両手を未知の首に添えた。どこまでも沈んでいきそうな柔らかみのある感触が指を包む。不埒な悪意の前に人間は無力だと思った。まさかそんなことが起こるとは思わないことが、現実には起こり、起こった後でようやく人々は悲嘆にくれるしかない。私がこうして首に手をかけ未知を殺そうとすることを誰が察することができるだろう。人は人を信じるしかない。それは前向きな意味などではなく、ただ疑っても疑っても底がないからだ。疑いきることができないからだ。親指に力を込めようとして私は目をつむった。
「まつり」
 と声がした。
 目を開ける。そこには姉の顔があった。私は姉の首に手をかけていた。姉は私を見据えていた。その顔には心のゆらぎは一切見えなかった。「まつり」と姉がふたたび呼びかけた。私の手は震えていた。
「ずっと嫌いだった」私は声に出した。
「私も」
 突然視界が滲んでいく。心臓がはち切れそうに膨らんでいる気がした。何度も息を吸い込み、それ以上の量を吐き出した。顔が自然とうつむき、体には力が入らなかった。
 えっえっと声が聞こえて、私は顔を上げた。そこにあるのは未知の顔だった。未知の声だった。
 未知が泣いた。あぁあぁと声を上げて泣き出した。私の両腕は未知の枕元に落ちていた。私は未知のお腹に耳をあてた。泣き声がくぐもって聞こえて、一瞬けものの咆哮のようだった。私は未知の両肩に手をやり、ただそこにいた。