いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

私たちの国

ひとりで食べたラーメンの丼を洗い終え、タオルで拭いた手をリビングテーブルの上の本へと伸ばした。白一色の装丁に黒く力強いフォントで『歴史は噓をつかない』と書かれたその本は、星哉が市立図書館で借りてきたもので、彼が読書感想文を書くための題材だ。どういう経緯でこの本を選んだのかわからない、適当に棚から抜き出しただけなのではないかと思う。『歴史は嘘をつかない』は日本の戦中・戦後史について書いた本だった。著者は五代命作。聞いたことのない名前だった。私立大学の教授であるという。私はスピンを挟んだページを開き、読み始めた。手元にチラシの裏紙を置き、メモ代わりに使う。キーワードとなりそうな言葉を書き取りながら読み進めていく。
 星哉から読書感想文の代筆を頼まれたのは一昨日の夕方だった。夏休みの終わりまで一週間を切っていた。どうしてもこの宿題だけができないのだという。たしかに星哉は以前から文章を書くのが苦手な方だということは把握していた。最初は断った。星哉の為にならないのは明白だった。それを揺るがしたのは帰宅した夫の意外なほど無頓着な言葉だった。
「べつにいいんじゃない? 読書感想文って文化が子供の読書ばなれを生んでる、なんて話もあるし。誰しも苦手なもののひとつやふたつさ……」
 翌朝、代筆を引き受けることにした。星哉はやった、と声をあげて喜び、朝食をとると自室にあがっていった。夏休みの大半を彼はその部屋で過ごしている。時々だれかと話す声が深夜まで聞こえてくる。
 読書をするのは久しぶりだった。最後に読んだ本が何であったかすら思い出せないほどだ。

「結構ぶあついんだねぇ」
 帰ってきた夫が向かいの席で夜食を食べながら言った。解凍したご飯に肉じゃがをぶっかけて食べている。お風呂からあがったばかりの夫の額には早くも新しい汗が滲んでいた。おもむろに視線を低くし、本の表紙の文字を読もうとする。
「歴史は嘘をつかない……ふん、どういう本なの?」
「うん、まぁ歴史の事実はじつはこうでしたっていう解説書、かな」
「五代……へぇ、R大の」
 夫は顔を茶碗に戻し、またかっかとご飯をかきこみ始めた。グレーのスウェットの襟がよれていて下から白い肌着がのぞいている。そろそろ買い替えが必要かもしれない。
「昔のことならトヨさんに聞いたら?」
 私は本の文字を見つめたまま黙っていた。文字が目の表面をすべるようにダブって見えた。最近長時間パソコンを使ったり活字を読むとかすみ目がある。あるいは乱視か。
「おばあちゃんからは散々聞いたから、べつに今更だよ」
「まあたしかに……そこまで綿密に取材することでもないか。作文の出来が良すぎてコンクールにでも出場になったらやばいもんね」
 そう言って夫は笑った。息子の文章ぎらいを私の遺伝だと言い張っていたわりには呑気な冗談だ。食事を終えると夫はそそくさと寝室へ入っていく。なんとなく面倒で、夫の茶碗を水につけるだけにして、口をすすぐため洗面台に向かった。

 トヨさんが住む老人ホーム『四季の花』は周囲を森林に囲まれて静かに佇んでおり、こざっぱりとした深いブルーの外観は中流層向けのマンションにも見える。広い玄関の透明な自動ドアの向こうにカウンターに遮られた女性の半身が見えた。玄関に入り日傘を閉じて会釈をすると、窓口の女性は明るく「こんにちは」と笑いかけた。受付用紙の記入を終えトヨさんの部屋へ向かう。『松賀トヨ様』と花で飾られた表札のかかった扉をノックすると「はい」と返事がある。扉を横に引くと、ベッドに腰かけたトヨさんが見えた。
「あら、真露(まつゆ)?」
 トヨさんが小さな目でにっこり笑い、サイドチェストの眼鏡を手に取った。それをかけながら、
「てっきり良子だと思ったわ。元気なの?」
 母の名前を口にする。眼鏡を通したトヨさんの目はぎょろっと大きく見えた。
「元気だよ。おばあちゃんは?」
「元気よ。食べ過ぎて太ってしもうて」
 そう言って自分の横腹をさわって笑うトヨさんは、しかしちっとも太っては見えない。三年前に脳梗塞で倒れたときに比べればむしろだいぶ痩せて見える。徳島の一人住まいからこちらのホームに移ったのが二年ほど前だ。本人は認知機能の衰えこそあれそれなりに元気そうなのだが、体型は痩せたまま変わることがない。慣れない場所での生活で気苦労もあるだろうと思う。ペットボトルのお茶を開けて飲むトヨさんの横顔、頬のあたりのくっきりした縦皺が、衛星写真で見る砂だらけの惑星の峡谷みたいに思えた。
「毎年この時期はな……あの年を思い出すわ」
 トヨさんが唸るように喋った。ここから始まる話がどのような内容なのか、私には充分わかっている。
「大して暑うない夏やったのに、いま思い出すとなんでか暑かったような気がしてしまう……」
 終戦の年のことを、トヨさんはよく語った。家族で夏休みに遊びに行くことが多かったから、その時期になるとなのか、年中話すのかはよく分からなかった。それは大抵畳敷きの居間で、外からは蝉の声がし、テレビはNHKで線香の香りがしていた。特に七月四日の大空襲の話をトヨさんはくり返し話した。その時間、子供であったトヨさんは当然寝ていて、なにか音がすると思った次の瞬間母親に叩き起こされたこと。なんで目を覚まさなかったのかと驚くほどすでに空襲警報のサイレンがひび割れた音で辺りを包んでいたこと。暗がりを大して暗いと思わなかったのが空襲の炎のせいなのか、記憶のなかで修正されたのか今でもわからないこと。走りながら踏んだ、おそらく誰かの腕の感触。その腕が生きていない人のものだとなぜか瞬時に分かったこと。焼夷弾が焼いた学校の前で会った同級生とはその後会えていないこと。記憶の中のトヨさんの話はいつも微妙に時系列が変わったり、話すトーンにも変化があったが、近年はむしろ語りが均一化されてきているように感じる。伝えることよりも語ることそのものが目的化されているからか? と、自分でぞっとするような言葉が浮かんだ。
 帰りの電車で本を読み終えた。最後の脚注まで目で追い、再び巻頭にもどった。二度目の読書をしながら頭のなかで原稿用紙を広げ、どう書き出すか思案していた。危うく降り過ごすところで最寄り駅に降り立った。辺りはすっかり暗く、だが蒸し蒸しとした空気は昼のままだった。

不機嫌そうな顔で星哉が階段を下りてきた。ゲームの途中だったのか、会話の途中だったのか、すでに夫のいるリビングテーブルに荒っぽく着席した。夫はちらっと星哉を見て、すぐにテレビに視線をもどす。私は大皿のから揚げに添えるレモンを切り、テーブルに運んだ。テレビを見ると七時台のニュースをやっていた。市内の景品交換所が窃盗団らしきグループに襲撃され、従業員が刺されて重体だという。アスファルトにガラスの破片が飛び散る現場にアナウンサーの声が重なる。犯人は捕まっていない。
「近いな」
夫が呟いた。私は炊飯器の蓋を開けた。特有の甘いにおいに胃が刺激され、唾が出てくる。
「多いね、最近。外国人の」
白米をよそいながら私は言った。三つの茶碗を持って食卓に並べ、自分も席につく。夫がいただきますと言い、それぞれが箸をもつ音がした。
「外国人?」
夫が白米を口に運びながらこちらを見た。
「窃盗団でしょ。アジアから来てるんだって」
夫が顔をしかめた。あわてて胸を叩く。ごほごほと咳をして私になにか訴えている。詰まらせたのだと思い、水を持ってくると夫はそれを急いで飲んだ。あぶねぇ、と言う夫の目は潤んでいた。星哉は無言で白米をかきこんでいる。そういう仕草は夫にそっくりに見える。
「で、どうなの作文は?」
 夫が訊いた。私はレタスとトマトのサラダを頬張り、何度か頷いてみせる。飲み込んでから笑って、
「やっぱり久しぶりすぎて難しい。書き出しとかぜんぜんわからないし」
「書き出しって懐かしいフレーズ」
「内容はもう大体決まってるのに」
 星哉はなにも言わず、一秒でも早く自室にもどりたいというように目の前の食事をガツガツと食べる。
「内容って?」
「日本の歴史のなかにはね、あきらかな間違いがまかり通ってることがたくさんあるの。で、それっていうのは教育システムのせいでもあって、だからこれからの教育システムについても視野に入れて……」
「はは、ちょっと大仰すぎない? あくまで星哉が書くものなんだから」
「もちろんレベルは落として書くけど」
 レベルを落とすという言い方が気に食わなかったのか、星哉が私を睨むように見てまた視線を茶碗にもどした。
 星哉が担任の教師に呼び出されたのは、始業式から一週間後のことだった。「読書感想文のことで」と、帰ってきた星哉はぶっきらぼうに言ってそのまま部屋に上がろうとする。
「怒られたの? ほめられたの?」
 台所にいた私が訊くとキッと目の力を強め「怒られたに決まってんだろ!」と怒鳴った。私の全身を電流のように貫くものがあった。
「こんなこと書くなって延々説教だよ。おれが書いたんじゃないのに。成績下がっても文句言わないでよね」
 そう言うと階段を荒々しく昇っていく。私はその背中を見つめ、料理の手を止めてしばらく放心した。ぐつぐつとお湯が煮えていた。火を止め、そのままパソコンに向かう。五代命作、で検索しブログに飛ぶ。「在日デモ参加者の正体」と題された最新の投稿を開き、頭から読む。「週末、永田町でまたデモに出くわした。見知った顔が何人もいる。というのも当然、彼らは共産党員だ。この手のデモに毎週のように参加している」ブログには参加者の画像が載っている。拡大された写真は粒子が粗く、モザイクが顔の形を複雑に乱していた。「それにしても参加者の平均年齢が異常に高い。毒々しい色使いのプラカードを持ったジジババがウォーキングみたいな恰好で声を張り上げ、それを歩道の若者たちが眉をひそめて見ている……。まことに残念だがこの分断は彼らが望んで生んだものだ。日教組による極端な左翼教育、ネクラな自虐史観、特亜擁護等々。さもありなん、である」私たちが目指すべきはこの国を愛する若者を育てること。歴史を誇りに、伝統を守り、もう一度強い国を造ること。「はっきり言って彼らのしていることは実家に金の無心をするようなものだ。『人権』とやらを盾に、国の脛をかじろうとする。となればさっさと『家』から追い出すほかない。」記事にコメントをしようとするが、なにも浮かばず評価ボタンを押すだけにした。胸の辺りがなんだか熱っぽかった。キーボードの上に置いたままの指がわずかに震えている。

「あら、真露。久しぶり」
 トヨさんは私がこの間来たばかりなのを忘れているようだった。私はぎこちなく微笑み、
「元気?」と尋ねた。
 トヨさんは頷いて、なにか話したそうに口を開けた。言葉が出てこないのか窓の方に視線をやってその口を閉じた。
「ねぇおばあちゃん」トヨさんが私の方をゆっくりと見る。
「空襲の時のこと、夢に見たりはしない?」
 私の言葉にトヨさんが表情を少し硬くしたが、一瞬のことだった。老人と思えない機敏さだ。それから大仰に顔をしかめ、
「見るねぇ。なにしろあの光景は焼きついて死ぬまで離れないよ」
 と言った。さっきまでよりしゃがれた声は昔、私や従妹たちを前に怖い話をするときと同じようだった。窓の向こうの小規模な竹林が風にあおられて音もなくしなるのを見た。話すあいだ、トヨさんの目は瞬きで休みながらどこか一点を見つめていた。普段よりなめらかに回る舌が入れ歯の奥にちらっと覗いた。私は腹の奥がすうっと冷えていくのを感じていた。
「そうして私たちはなんとか眉山に登ったよ……」
「頂上にはたくさんの人がいて」私の口から自然と言葉が出た。トヨさんが目を見張って私を見た。盗人を見る目だった。
「炎につつまれた街の方を見てた。大人たちはほとんど声も発せないみたいだった。私は木にもたれかかって寝間着姿の大人たちの背中を見てたんだ」
 これが自分の声か、と思うほどしゃがれていた。言葉が体感を伴わず、ただ音だけの存在として耳をくすぐる。ぼやーっと浮かぶのはその日そこにいた人々の平面的なシルエットだ。個人が区別されない悲劇の総体。
「私はね、心の中で拝んだ。『ごめんなさい、ごめんなさい』って謝ったよ。なにか自分が重大なことをしてしまったからこうなった気がして」
 私は言葉を止めた。どこからかピアノの音と手拍子が聴こえる。トヨさんはじっと私を見ていた。
「なにを笑ってるんだ」トヨさんが言った。
「笑ってないよ、おばあちゃん」私は首を振った。「笑うもんですか」私は椅子から立ち上がり、小さく伸びをした。新鮮な空気が肺に溜まり、吐く息で目の辺りがムズムズとした。「身を挺した人たちに感謝しないと」トヨさんは黙っていた。部屋を出るときになって「良子」とトヨさんが母の名前を呼んだ。私は振り向かず、後ろ手に扉を閉めた。
 玄関の窓口には今日も女性が座っていた。私が日傘を取ると「お気をつけて」とほほ笑んだ。自動ドアが開き、熱気が体にまとわりつく。トヨさんが再び倒れたのは、それからひと月と経たないある晩だった。