いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

君はスター

 五年一組の朝の会はとつぜん裁判になった。ほかになんかありますかー、といつも鼻をほじっているサエグサが、めずらしく鼻をほじらないで日直をやっていた。ここで「なんかある」と言い出すやつはなかなかいない。それは前の、東京の小学校でもそうだったし、岡山の、田舎のここでも変わらない景色だった。たまにお調子者が静まりかえった教室を見渡しながら「しーん!」とか言って、皆がクスクスと笑うこともあるけれど、僕はそんなので笑ったことはない。そんなので笑うやつはちょっと幼稚だと思う。
 静かになっている皆を見てサエグサが「ではこれで……」と言いかけたとき、青柳先生がすっと手を上げた。それまで先生は教室に入ってきて「はい、日直」と言った以外はずっと黙っていて、考えてみればそこからいつもとは違った。
 青柳先生はまだ若い。髪型はわしゃわしゃと波打った天然パーマで、顔はしゅっとしている。しゅっとしている、というのがどういう意味なのか僕はよく知らないけれど、このクラスに転校することに決まって最初のあいさつの後、お母さんが「先生、イケメンだね。しゅっとしてる」とお父さんに言うのを聞いていた。だから青柳先生みたいな顔をしゅっとしているのだということを理解した。たしかに、青柳先生は最新の新幹線みたいな顔をしてるな、と僕は思っている。
 先生が手を上げたことで教室はざわっとした。それはぐっとみんなの顔が真剣になる音で、机にいたずら書きをしていたやつも、隣の子と喋ってたやつも急に引っ張られたみたいに先生の方を向いた。この教室の全部の目がいま青柳先生を見ている。先生は手を下ろし、立ち上がると口を開いた。
「今日は先生、怒ってます」
 ぴしゃあ、とカミナリが落ちたような感じがして、教室は静かな上に、みんな石の服を着せられたみたいにずーんとなった。先生が怒っている。これ以上怖いことはない。先生は黙ってゆっくりと「ひとりひとりの顔を見てます」という感じに僕たちを見た。長い時間が経っているような気がした。
「こんなかに、悪いことをした人がおる」
 先生は言った。教室は今度は本当にざわざわとなった。みんなの声が重なって誰がなにを言っているかは分からなかった。僕はこぶしを握りしめて、ただ黙っていた。
「昨日、帰り道、お不動さんの前を通った者は手を上げなさい」
 ざわざわは爆発的に大きくなった。みんな顔を見合わせている。先生が、静かにしなさい、と言ってようやく収まって、そろそろとみんなの手が上がる。お不動さんとは、学校の門を出て坂道を下ったつきあたりにあるお寺のことだ。不動明王という怖い顔をした神様の像があるので、そう呼ばれているという。僕はまだ見たことがない。でもパソコンで調べて、そのお寺のじゃないけれど不動明王の顔は知っている。たしかに怖い顔をしている。しかも不動明王の後ろでは炎があがっていたりして余計に怖い。青柳先生はいまぐっと口を結んで眉毛を落として怖い顔をしているけれど、お不動さんはもっと怖い。ぞくぞくする怖さがある。怖すぎるとなんというか、背中がつめたーくなるものなのだということを、僕は初めて知った。
 半分以上の手があがっている。僕もおそるおそる手をあげた。それもそのはず、学校の周りの社宅とかに住んでいるやつ以外は、みんな坂の下のお不動さんのところで右と左に別れるのだ。
 先生は小さくうなずいてから、「石けりをしてた者以外は下ろしてよし」と言った。
 あっ、と誰のものかも分からない、もしかしたらみんなの心の声が漏れたみたいな声がして、手が下ろされていく。僕もほっとして手を下ろす。手をあげたままなのは五人ほどの男子たちだった。ぴんと真っすぐ手をあげているやつはおらず、みんな本当は手を下ろしたいという感じ丸出してひじが曲がっている。
 先生は残った五人の顔をまた見回してから、言った。
「昨日、うちの学校の生徒が石けりをしていて、その石が通りかかった人に当たるという事件があった」
 事件、という言葉に僕はひっと小さく息を吸った。パトカーとおまわりさんが思い浮かぶ。きっと全員それを思い浮かべているはずだ。
「学校に電話があって初めて分かったことです。石が足に当たった人が電話してくれたんだ」
 五人の横顔と後ろ姿を僕は見た。そろそろ震えたり、泣き出すやつがいてもおかしくないと思った。少なくとも僕なら小さく震えてるんじゃないかと思った。でも誰も泣いていなかったし、震えているかも分からなかった。
「さいわい、ケガはなかったそうです。でも、その人が石を蹴ってた生徒たちに声をかけたら、その子たちは逃げ出したそうです。謝りもせんで」
 先生はぐっと眉間にしわを寄せた。いつの間にか腕組みをしていて、ちょっとだけ前かがみになっていた。
「まず、石けりは禁止だってことはみんな知ってるよな」
 先生の言葉に、数人がはい、と答えた。手をあげているやつらはもう首をがっくり下げて机を見ていた。そのとき、一番前の窓側の、コウロキさんが言った。
「先生! 石を当てたのはハヤシくんです!」
 教室がどんと声であふれかえる。ハヤシや。あほのハヤシや。手をあげているのはクラスに二人いるハヤシのうち、「あほのハヤシ」と呼ばれているやつだった。いつも坊主頭で、眉毛が太い。ハヤシは立ち上がった。
「ちがうわ! 当てたんはスドウじゃろ!」
 同じく手をあげていたスドウも机をばんと叩きながら立ち上がった。
「当ててねえし! 先生当てたんはほんまにハヤシです!」
 嘘つくなや! お前や! と二人の言い争いが始まったと思った瞬間、
「しずかにせえ!」
 と先生が怒鳴った。びくっと僕の体が反応した。教室が急にぐわっと縮んだ気がした。
「当てたんはどっちでもええ! そんなことを言ってるんじゃない!」
 ハヤシとスドウはセメントみたいに固まってしまった。ぴーんと空気が止まってしまって息をするのも苦しい。青柳先生はすっと黙り込み、たっぷりの間を空けて、今度はいつもの落ち着いた声に戻って言った。
「先生が一番怒っとるのはそこじゃないんよ。先生がなにを怒っとるかわかる人おるか?」
 それはとつぜんのクイズ形式だった。いつもの授業でならみんなはいはいはーいと手をあげるのに、誰も手をあげず、気付かれないようにお互いの顔色を見ているようだった。僕は最初から手をあげるつもりはなかった。ただ、じっと前の席のイヌモリさんの首の後ろを見ていた。僕の目から光線が出るとしたら、イヌモリさんの首には大穴が開いていることだろう。
「おらんか?」
 先生がもう一度言ったとき、イヌモリさんが手をあげた。すうっと音のするようなきれいな動作で、まっすぐにあげた。美しい。
「イヌモリ」と先生が言った。
 イヌモリさんは言われていないのに立ち上がった。僕の目線には灰色のセーターと赤いスカートが見えた。
「逃げたことです」
 はっきりと聞こえる言葉で、イヌモリさんは言った。みんなの視線がイヌモリさんから先生にうつる。先生はゆっくりと小さな笑顔を浮かべながらうなずいた。
「そう。逃げたことじゃ。石けりしてたんは悪い。当てたことはもちろん悪い。でも一番悪いのは逃げたことなんじゃ」
 人はまちがって悪いことをしてしまうことはある。でもそのときちゃんとあやまれるかどうかで、その人がちゃんとした人間か卑怯な人間かが決まる。青柳先生はそんなようなことを言って、クラスのみんなは多分その声をじっと聴いていた。僕だけはイヌモリさんを見ていた。先生が喋り始めたとき、音も立てずに座るイヌモリさんを見ていた。座ってから先生の話が終わるまで、イヌモリさんの頭はじっと動かなかった。後ろで結ばれている黒い髪がどんどん黒くなっていくように思えた。真夜中の森の奥の奥、いや、宇宙の端っこの端っこ。夜の空は宇宙につながっているらしい。岡山の空は東京の空よりも暗い。全然違う。星の光の強さが違う。くっきりと周りをなぞったみたいにきれいに見える。それもたくさん。真っ黒なじゅうたんに小麦粉をまいたみたいに。ああ、イヌモリさん。僕は自分がイヌモリさんのことを考えているときだけ、どんどんバカになっているような気がする。

 最初にイヌモリさんの顔を見たとき、僕は頭の中が真っ白になった。ちょうど「転校生のあいさつ」として自己紹介をしている途中だった。記憶がそこだけ無くなったみたいに、喋れなくなった。でもそれは一瞬のことで、僕はイヌモリさんから目を離して、話をつづけた。もうイヌモリさんの方は見れなかった。僕が話し終わると先生が席はあそこ、と指をさした。僕ははい、と言って首を前に傾けたまま言われた席に座った。そこからイヌモリさんの席は右後ろの方向だった。僕は右後ろの背中のあたりがかゆくなった気がした。イヌモリさんはあまりにもきれいだった。美しい、という言葉がたぶん生まれて初めて、僕の頭に浮かんだ。
 最初に話しかけてくれたのはその日の休み時間、イヌモリさんからだった。男子女子が集まって僕は質問責めにあっていた。そんな中、イヌモリさんは訊いた。
「東京ってキャベツ高いんじゃろ?」
 僕は不意をつかれた。それまで訊かれていた、好きな科目とか、好きな食べ物とか、渋谷のこととかとは違っていた。
「え、キャベツ高いん?」
「そうじゃって。親戚のお姉ちゃんが東京に住んでるんよ。で、そう言うとった。野菜ぜんぶ高いんじゃけど、特にキャベツじゃって」
 イヌモリさんは僕の答えを待つわけでもなく、隣の女子と話し始めた。キャベツが高いかどうかなんて、僕は考えたことがなかった。そういえばお母さんがそんなようなことをぶつぶつ言ってたこともあったかもしれないけれど、そういうのは大人が考えることだと思っていた。イヌモリさんは大人だった。
 僕はテレビの歌番組をよく観る。岡山に来て最初にびっくりしたのはチャンネルが東京と違うことだった。番組の内容も違う。お笑い番組が少し多い気がする。東京のテレビにも出ている人がこっちにも出ていたり、出ていなかったりする。お笑い番組はあまり見すぎないように言われているので、僕はお父さんの見るNHKのニュースや、歌番組を見ることにした。乃木坂46が特に好きだ。なんかわいわいとしているけれど、余計なお喋りはしない感じが(見えないところではしているかもしれないけど)、周りの女子たちとは違ってよかった。
 イヌモリさんは乃木坂46に入れると思う。というか、たぶん「センター」になってしまうと思う、入ったらすぐに。それぐらい彼女は美しい。目は大きいし、肌は白い。鼻もまっすぐのびてこれ以上なくきれい。そして、ほっぺたは少し赤い。笑うと片方だけにえくぼができる。そのくぼみに触れてみたいと思うことがあるけれど、そんなことを考える自分が少し気持ち悪い。
 イヌモリさんのことをかわいい、と思っている男子は結構いる。モトキとヤマモトは確実に彼女のことが好きだ。その他にも絶対いる。彼女に意地悪をしたり、エッチなこと(ちんちんとかセックスとか)を言ったりするやつもいる。エッチなことを言うやつは、殺してやろうかと思うくらい腹が立つけれど、僕はケンカをしたことがない。その相手を虫歯菌みたいにバイキンだと思って、奥歯をぐっと噛むことで抑えている。エッチなことを言われても意地悪をされても、イヌモリさんは堂々としている。なんというか、彼女は自分がそうされるのをどこか「仕方ない」と思ってるようにみえる。それはつまり、自分の美しさを分かっているということだ。僕は自分のことがよく分からない。ときどき胸がざわつくときがあったり無性にイライラしたり、逆に気付いたら笑っているときもある。きっと他の同級生たちだってそうだ。けれどイヌモリさんは違うのだ。それは少し恐ろしいという気もする。僕が分かっていない僕のことも、彼女は見抜いているんじゃないかという気になる。僕の気持ち悪い部分もふくめて、ぜんぶ。

 結局朝の裁判は、あほのハヤシが泣き出して、そうしたら五人のうち四人が泣き出して、みんな「ごめんなさい」とあやまって終わった。怒られてないのに泣いているやつもいた。そんな雰囲気だったから、一時間目の算数はとても勉強に集中できる気はしなかった。みんなちょっと下を向いていて、青柳先生もあまり盛り上げるつもりはないようで、シャーペンとノートのページをめくる音だけが響いて、静かなまま終わった。 
 二時間目は音楽室で音楽の授業だった。先生は小西先生だから、ここから少し雰囲気が戻ってきた。男子がうるさくなり、女子が笑いながらそれを注意したりするいつもの授業になってきた。僕はさっきまでどこか落ち着かない気持ちでみんなをうかがっていたけれど、そうやっていつもの感じになってくるとそれはそれでなんだかムカついていた。反省してないのか、と心の中でみんなを叱りつけた。もう一度思い出せ、石けり事件を。というかお前たち、普段からうるさい。わあわあきゃあきゃあと、すぐ調子に乗る。すぐ泣く。ふざけ合ってたくせに急にムキになってケンカしたり、授業中、鼻くそを食べたりする。イヌモリさんを見ろ。彼女は鼻くそなんて食べない。常に清潔。笑って喋ることはあってもうるさくはしない。むしろうるさいやつを注意する。スカートをめくられたって怒りはしても泣かないし、相合傘を黒板に書かれても笑って消してくれる。大人だ。みんな大人になれ。
 でもこの声は誰にも届かない。山奥の滝みたいに美しいイヌモリさんは真剣にリコーダーを吹いている。指先まで美しい。
 三、四時間目は完全にいつもどおりのクラスだった。あほのハヤシですら、分からないくせに手をあげ、さされては「わっかりましぇーん!」とか言ってふざけていた。クラスメイトも、青柳先生も笑っていた。僕はずっと黙ってそれを見ていた。
 給食の時間になった。四人ずつの席にみんな座っている。僕とイヌモリさんは別の班なのだけれど、ちょうど真横の位置に彼女がくるので、緊張しながらも嬉しく思う。今日の給食は中華丼だった。美味しそうな匂いが教室中に立ちこめる。先生のいただきますで、みんなが食べ始める。がやがやとみんなの声がする。かしゃかしゃと食器がこすれる音がする。
 同じ班のメンバーも同じように自由な雰囲気で給食を食べているけれど、僕にはあまり話しかけてこない。僕はみんなの言葉が苦手だ。「岡山弁」というやつだとお父さんが言っていた。クラスのみんなは普通に岡山弁を使う。「まーが」とか「○○じゃ」とか「○○けん」とかいう言葉があちこちで飛び交う。テレビからも聞こえてくる。近所のおじさんもおばさんもおじいさんもおばあさんも岡山弁だ。僕はなんだか周りのみんなが裏で手を組んでいて、でたらめな言葉でわざと喋っているんじゃないか、とさえ思っていた。岡山弁は一向に覚えられない。だからみんなと話すこともあまりない。別にいじめられてるとか思わないけれど、僕はたぶん「ほとんど喋らないやつ」としてみんなに認識されたのだ。それで構わない。
 そのとき、ガラっと教室のドアが開いた。事務の先生が顔をのぞかせた。
「先生」と青柳先生のことを呼ぶ。青柳先生はスプーンを置き、事務の先生のところへ行った。二人でひそひそと何事か話している。そうして、青柳先生は僕たちの方を見て、
「みんな静かに食べろよ」と告げて教室を出ていった。一瞬、教室は静かになった。朝の雰囲気が戻ってきたかのようだった。けれど次の瞬間にはまたお喋りが始まった。僕はドアの方を見て、また事件か? などと考えながら中華丼を口に運んだ。ちらっとイヌモリさんを見る。彼女は静かに牛乳を吸っていた。
「ドゥンドゥードゥードゥン、ドゥンドゥードゥードゥン」
 耳慣れた音楽を口ずさみながら、急にスドウが立ち上がった。映画のミッションインポッシブルだ、と僕は思った。
「ミッションチンポッシブル!!」
 スドウが股間のあたりをおさえながら叫んだ。教室が静まった。なぜか、奇跡的に、誰ひとり笑わなかった。すべった、と僕は思った。調子に乗るからだ。スドウは周りをきょろきょろと見回しながら、黙って座った。
 ぶほっ! と音が響いたのはそのときだった。音の原因がなんなのか僕には分からなかった。視界の端で、イヌモリさんがうつむいたのだけが見えた。
「イヌモリさん」
 イヌモリさんと向かい合わせに座っている女子のナガノが言った。
「イヌモリさん、鼻でとるよ」
 僕はふとイヌモリさんを見る。
 イヌモリさんは手で鼻のあたりを覆っている。みんなの視線が彼女に集まるのを感じた。彼女の手からぽたぽたと液体が垂れた。白い。
「イヌモリさん……鼻から牛乳でとるが!」
 ナガノが叫んだ。
 ダイナマイトが爆発したように、教室に笑い声がはじけた。ぴしゃぴしゃと手を叩く音が混じる。ガタガタと机が、椅子が鳴る。
「ほんまじゃ! イヌモリさん牛乳出とる!」
 数人の男子が立ち上がってはやし立てる。
「しかもチンポッシブルで笑っとるが!」
 ぎゃはははははは、とみんなが笑った。
 僕は彼女の紅潮していく横顔を見ていた。なんだこれは、と思った。イヌモリさんが牛乳を鼻から吹いている。こんな光景がこの世にあることが信じられなかった。騒いでいる同級生たちの声が、壁のように僕の耳にぶつかってくる。なにかの冗談だと思いたかった。僕は彼女の完璧な姿を思い出していた。蛇口から水を飲んでいるときも、体育で走っているときも、授業で発表しているときも、掲示板におしらせを貼っているときも、ただ一度だけ、近所のスーパーでお互いの家族連れで、偶然出会ったときも、彼女は完璧に美しかった。その彼女の像がはじめてゆがんだ。くもった。彼女は一点を見つめたまま動かない。手が震えている。僕の手も震えていた。
 みんなこのときを待っていたのか、という考えが僕の脳に浮かんだ。完璧な彼女がくずれるこの瞬間を、みんなどこかで待っていたんじゃないか。想像して期待して夢を見ていたんじゃないか。
 すべては敵だったんだ。
 気がついたときには立ち上がっていた。
 教室の空気が少しずつ硬くなっていく。笑い声が小さくなっていく。みんな僕を見ている。全然喋らんナグモが、なにを言う気じゃ。
「病気かも!」
 僕ののどはかさかさに乾いていた。は? とどこからか声があがった。僕の頭は段々白くなっていく。
「白い血が出る病気があるんだよ!」
 自分がなにを言っているのかよく分からなかった。みんな僕の次の言葉を待っている。
「東京で聞いたことあるんだ! 見たこともある!」
「……お前なに言うとん」
 スドウが言った。僕は彼を睨みながら、
「知らないのかよ! みんな離れろ!」と叫んだ。
「白い血には触っちゃダメだぞ!」
 僕は席を離れ、教室の後ろに干してあった雑巾を持ってきた。ざわつきがちがう形で戻ってきた。僕はイヌモリさんのところにいき、床についた牛乳をぬぐった。悲鳴があがった。イヌモリさんの隣に座っていたその子の机には牛乳が飛んでいた。
 僕は無言でそれも拭いた。
「お前もさわんなよ!」誰かが言った。
「僕は大丈夫なんだ」と言い返す。そしてイヌモリさんの手首をつかんだ。彼女の肩に力が入るのが分かった。顔は見れなかった。
「とにかく保健室だ!」
 僕は彼女の腕を引いて走り出した。ドア方向に立っていた男子が大げさに避けた。
 廊下はひんやりとしていた。僕はとにかく走った。彼女はなにも言わない。廊下のつきあたりまできて、階段をのぼった。保健室に行く気などなかった。ただ、誰もいないところへ行こうと思った。誰も空気を吸っていないところ。なんの音も聞こえないところ。二回か三回ぐるぐると回りながら上がって、階段は終わった。大きな鉄製の扉がある。屋上へとつながる扉だった。足を止めてドアノブに手をやり、力をこめる。ドアノブは回らなかった。
 僕ははあはあと荒い息を吐いた。全身の血がぐるぐると回っている気がした。
「……なんなん?」
 イヌモリさんの声がした。僕は振り向く。初めての生き物を見るような目で、イヌモリさんは僕を見ていた。
「なんなん?」
 もう一度言った。その声には混乱と怒りがこもっていると思った。
「なんでそんなしょうもないうそつくん? 白い血出る病気なんて嘘じゃろ」
 僕はただ彼女の目を見ていた。そんな風に怒りをあらわにする彼女を見たことがなかった。
「教室もどれんが!」
 彼女のあごに、まだ白い水滴がついていた。僕はそれを拭いたかった。でも彼女に触れることはもうできないだろうと思った。
「ミッションインポッシブル、観たことあるよ」
 僕は言った。体から力が抜けて、立っているのもやっとのようだった。胸が痛い。
トム・クルーズがヘリコプター操縦したり、ビルからビルに飛んだりすんだよ。お父さんが言ってた。トム・クルーズのアクションはやばいんだって。いつ死んでもおかしくないんだって」
 イヌモリさんの目の色はあまり変わらなかった。僕はかまわずに喋った。
トム・クルーズって離婚したり色々ひどい目にあって、それでそうやってめちゃくちゃなことやるんだって。だから、」
 僕は大きく息を吸った。
「チンポッシブルで笑ってしまうのは、逆に分かる」
 二人とも黙った。誰かの声がした。青柳先生かもしれない。
「……いや意味わからん」
 イヌモリさんが言った。そしてその場に座り込んだ。僕は立ったままそれを見つめた。声が下から近づいてくる。先生の声だとはっきり分かった。
「分からんけど、分からんけどな、今は」
 イヌモリさんが僕の膝のあたりを見つめている。口元が笑っていた。
「いつか分かるんかな」
 イヌモリさんが僕を見上げる。どこからか入った光が彼女の顔を立体的に光らせている。小鼻の脇にできた影に、永久に住みたいと思った。
 
 それが僕と妻との出会いだったのです。
 というナレーションが頭の中にぶわっと浮かんだ。
 やっぱり僕はバカだな、と思った。