いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

私たちは呼吸している

 私にはまだ名前がなく、あるのは仮の呼び名と借り物のようなこの体だけだ、と深瀬のぞみは思っている。仮の名前、希望と書いてのぞみと読むそれは商品名のようなもので、彼女にとって本当の名前とは製造番号のアルファベットと数字が入り混じったあの無機質な羅列のことだった。それは肌に刻まれた古傷のように消しようがない、人間の感情や顕示欲と無縁のただただ事実としての命名。そういう絶対的なものを彼女はまだ持っておらず、どうすればそれを持つことができるのかも分からないまま小学六年生としての日々を送っている。
 鬼の保谷(ほうや)さんが数をかぞえる声はもう聞こえなくなっていた。保谷さんが目隠しをしてしゃがみこんでいるのは50メートルほど離れた砂場の真ん中で、周囲にはブランコなどの遊具がさびた肌をむき出しにして置かれている。公園は北側に向かって広くなっているが、途中からは土の斜面になっていてそれは公園というよりほとんど雑木林に近い。その斜面の中腹、砂場からは見えない位置に設置された木製のテーブルと長椅子の脇でのぞみは足を止めた。なぜこの場所に、まるで山の展望台のようにこれらが置かれているのかがいつも分からない。というのも木々はたしかにそこで公園の外に向けて途切れていて視界は開けるけれど、そこに見えるのは赤いレンガ色の団地群で、決して見晴らしがよいとは言えない。けれどあの団地はもしかしてこの公園より後にできたのであって、本当はその先の工場群に面した海まで見えていたのかもしれない、とのぞみが考えているとポンポンと布団を叩く音かなにかが団地の方からくぐもって反響を繰り返しながら聞こえてきて空に拡散した。まあどれだけ景色が悪くとも空だけは見えるなあ、とのぞみは見上げる。今日の空は水っぽい感じがして見ていて少し体が濡れたような気になる。
 かくれんぼをしようと言い出したのは児玉(こだま)さんだった。児玉さんは左足が少し悪いので、走り回る鬼ごっこのような遊びよりはこういった遊びを好む。のぞみも保谷さんも澤さんも本当は走り回りたくなることがあるけれど、児玉さんが提案したことには乗るようにしていた。児玉さんの家に招かれて人生ゲームをしたこともあったのをのぞみは思い出す。澤さんが子だくさん過ぎて車にピンを差し切れなかったときは笑った。児玉さんの家は入った瞬間独特の匂いがして(それがお香の匂いだということはのぞみには分からなかった)、全体に紫色のフィルターがかかったような印象で、児玉さんのお祖母さんが自分たちのいたリビングの横の小さな和室にいて、児玉さんはお祖母さんに対して口調が強くて少し驚いたことなどが次々と思い出された。
 のぞみは更に階段を伝って斜面を登った。もういいかい、の声が聞こえた。のぞみは返事をする気がなく、申し訳程度に身をかがめて茂みに身を隠しながら歩いた。澤さんがなにか返事をする声が聞こえ、葉の間から見えた保谷さんは立ち上がっていた。斜面を登り切るとそこは砂利が敷かれた駐車場である。丁寧に区画が分けられているわけではなく、まちまちの車間距離で数台の車が止まっている。のぞみはもしどれかの車のトランクが開いていてそこに隠れたらずっと見つからないだろうなと思い、一台ずつ鍵を確認した。ほとんど車上荒らしのように周囲に気を配り、金属製の取っ手をぐっ、ぐっ、と確認していく。当然のようにガチャっと開くような車はなかった。それでものぞみはトランクに収まった自分の姿を想像した。真っ暗闇の中で手足を縮こませている自分は胎児になったようになにも考えずにいられる気がした。
 四人の中で最初に生理がきたのがのぞみだった。学校のトイレで自分の下着が濡れていることに気づいて個室に入り見てみると真っ赤な血だったことを、のぞみは教室前の廊下で窓の外を見ていた澤さんに話した。生理だね、と澤さんは淡々と言って、保健室についてきてくれた。そこで下着を借りて履き替え、二人で教室に戻る途中で澤さんは呟いた。「そうかぁ、のんちゃん生理かぁ」小声ではあったがのぞみはその声が他の人に聞かれないかとひやひやした。「重くないといいね」彼女の言う意味がよく分からなかったけれど、私はこれからずっと、この赤い血液を定期的に見ることになるのだと実感した。のぞみは生理がきたことを放課後の図書館で保谷さんと児玉さんにも話した。二人の反応は澤さんとは少し違い、ひとつの重大なイベントであるかのように熱っぽかった。
「いつか赤ちゃんつくるために必要なことなの」
「赤ちゃんってどうやってできるか知ってる?」
「男子にいやらしい目で見られるのはやだよね」
「あいつら子供っぽいし。Yくんは違うけど」
「おめでとう」
「おめでとう」
「おめでとう」
 駐車場を過ぎると丘の尾根に沿って続くひょろっと長い道路にぶつかり、のぞみは左右に建ち並ぶ住宅を眺めながら歩いた。丘の下の建物たちとは趣が異なり、洗練されたデザインと高級な質感の物が多い。表面の半分くらいがガラス張りの家から白い大型犬と男の人が出てきた。のぞみは道路の反対端に避けて知らん顔をして歩き続けた。平気なふりをしても歩調は自然と速くなってしまった。のぞみは動物が苦手だった。保谷さんが教室で飼うために生後一週間のハムスターの子供を連れてきたとき、ほら、と手のひらにそれを乗せられたときも緊張した。手の中でハムスターはふるふると震えていて、お腹がどくどくと脈打っていて生々しかった。不意に力を入れたなら壊れてしまうような危うさが、自分の中の破壊衝動を試している気がして落ち着かなかった。すべて生き物はそうして拍動し、呼吸し、食べ、排泄して生きているのだということがのぞみの心に改めて刻まれた。そうしてみると、教室の中には様々な生き物の声が騒がしく、ぐつぐつと煮えた鍋の泡のように活き活きとひしめき合っているように思えた。
 私たちは呼吸しています、と書かれた看板が目に入った。その隣に家庭菜園のような小ぢんまりとした四角いスペースに、足首くらいまでの高さの小さな花が植えられていた。鮮やかなオレンジ色の花や薄くレモン色の花たちから再び看板に目を戻す。『私たちは呼吸しています。ごみを捨てないでください。勝手に抜かないでください。』この花畑の所有者が書いたものだろう、字の大きさは妙に不揃いで、誰かが怒鳴っているようにみえる。白地に黒くでかでかと書かれたその文字は花たちの繊細な美しさを壊しているように思えたが、それ以上にのぞみの頭の中にはその文言が頭の中をぐるぐると回った。
 田子(たご)くんに告白されたのは三日前のことだった。校庭の端っこ、投てき板の裏。団地とフェンス一枚で仕切られた雑草茂る暗い林の中で彼は好きです、と言った。四文字の言葉が彼の着ているトレーナーの表面にみみず腫れのように浮き出るのではないかと、のぞみは彼のまだ薄い胸板を眺めた。のぞみにはなんと返事していいのか分からなかった。田子くんとは美化委員で一緒だったことがある。プールの授業でバディを組んだことがある。鼻の下の産毛が濃くて、将来髭が濃くなるような気がする。それ以上の印象はなかった。「なんで?」とのぞみは尋ねた。田子くんはあきらかに動揺して、えっ、と声を出して視線を上の方に泳がせた。木いちごのような実をつける名前も知らない樹が二人を見下ろしていた。のぞみからすれば彼を困らせる意図はなかった。好きという感情がなんなのか、のぞみにはまだ分からずにいただけだった。そして、おそらく田子くんにもまだ分からないだろうと彼女は思っていた。「だって、かわいいから」口を少しとがらせて田子くんは答えた。「結婚するなら深瀬がいい」そう言うと彼はくちびるをきっと真一文字に結んだ。
 結婚、と口に出してのぞみは歩いた。マンションの脇を下に伸びる階段を歩いた。マンションの敷地内の小さな公園で幼児たちが遊んでいるのを見た。乾いた排水溝に落葉が溜まっている。階段にも散らばった落ち葉をのぞみの足が踏みつけた。しゃく、と音がした。にんしん、と再び声に出す。出産。体の芯が硬くなっていく感覚があった。なにも知らないのだ、と思う。今どれだけ想像してもガラス張りの表面をきいきいと引っ掻いているだけで、知ることにはたどり着けない。知ったときには遅いのだと思う。知るときは過ぎたときだと。
 マンションの入口に着くと、大きくて四角いトラックが停まっていた。若い男性とお父さんくらいの年齢の男がオレンジと白の制服を着て、なにごとか話し合っていた。階段を上がっていると「のぞみ」と声をかけられた。母が踊り場に立っていた。「遅かったじゃない」母はそれほど怒っているようには見えなかった。のぞみは「ごめんなさい」と口にして、母と一緒に自分の部屋へ向かった。
 209号室のドアは開け放たれていた。ベランダには人数分の靴しか置かれていなかった。玄関からベランダまで真っすぐ見えているのが不思議で、立ち止まってから食器棚がないのだと気づいた。姉はリビングでペットボトルの紅茶を飲んでいた。リビングと言っても残っているものは灰色のソファだけだった。「おそ」と姉が言い「お帰り」と父が言った。父は作業員の人と同じように首にタオルを巻いて、胸元に汗がにじんで染みになっていた。のぞみの後ろから出てきた母が「あとはソファだけだね」と腰に手をあてる。
「挨拶してきた。会長でしょ、副会長でしょ。あとは最後に管理人さんにすればOK。あ、会長からお菓子もらっちゃった」
「マジで。山本さんほんとできた人だよな」
「はは、普通でしょ。美人だからって採点甘すぎ。こっちだって行事の写真係命じられて、二年間苦労したんだから」
 眉をひそめてそう言った母がくるっと玄関の方に向き直り、笑顔で作業員を迎え入れた。
 じゃああとは私たちが移動するだけ、と母が言って、皆玄関に向かった。父と母とのぞみは手ぶらだが、姉の背中にはギターが背負われている。どうしても自分で持っていくといって聞かず、母が渋々了承したのだ。マンションの廊下で二軒隣の杉田さんに母がつかまり、私たち三人は先に車に向かうことにした。歩きながら姉が、杉田さんち覗いたことある、とのぞみにささやいた。母と一緒にカレー持ってったけど、でっかくて中が金色の仏壇が見えて、線香の匂いが物凄かった。のぞみはそれがどういうニュアンスの話なのか分からないまま、そうなんだ、とうなずいた。ついこの間まで姉とは話があうような気がしていたけれど、ここのところなんとなく噛み合わない、とのぞみは思っている。
 三人で管理人に挨拶しているところに母が合流した。マンションのスロープ下に停めてあった車に乗り込んだ。運転席に座った父が、じゃあそろそろ行くよ、とわざわざ声に出して、さよならーと母が陽気な声で応えた。
 のぞみは急に自分が小さくなっていくような気がした。どきどきと心臓が体からはみ出して鼓動が車内に響いているような気がした。ゆっくりと景色が窓の外を滑りだす。思わず後ろを振り向いていた。どしたの、と姉が声をかけたがのぞみは答えられなかった。マンションがしぼんでいくのが見えた。