いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

かやこの喪

 ホテルラウンジのソファに沈んで見合いの相手を待ちながら、やっぱり昨日中塚とやっておくべきだったと後悔した。お互い夕方からがばがばと飲んで二軒目が終わったとき、歓楽街の端っこに突っ立って妙に真面目な間ができたあのとき、あと一センチ二人の軸がずれたなら、力づくでずらしてくれたならそうなっていた。というか、そうしろよあの場合。私の頭はそのとき、散々アルコールに浸かったわりには生きていて、なしくずし的に繋いだ手の驚くような冷たさや、やや乾燥気味でざらっとした感触まで覚えているのに。
 中塚のやつ、と奥歯を噛みしめると、こめかみから後頭部にかけて電流が走りじんじんと痛む。この痛みをベッドの上で感じて、昼過ぎまで寝過ごしてしまえればよかった。
 遅い、と横に腰掛けている母ミツミが感情を込めない口調でつぶやく。昔からそうなのサトコって。お父さんが亡くなったときも病室に間に合わなかったの。ま、私はそもそも行けなかったけど。と、姉サトコの愚痴を口にしつつ、母の目はじっとなにかを見つめている。たぶん、ロビーの中央に据えられた巨大な水槽だろう。母の横顔を盗み見る。まぶたの厚みが増したような気がする。全体に、やや重力への無抵抗が感じられる。六十五歳という年齢の水準と比して、どうなんだろう。
 とりあえず視力は衰えているだろう。休日はゲームばかりしているのだろうから。昨日もうちに泊まりに来て、プレステ2しかない(それも母が買ったやつだ)ことに不満を漏らしつつ「ワンダと巨像」を夜中までやっていた。私はその正座してテレビに向かう後ろ姿と、テレビに映し出されるどこかも分からない壮大な、でも今になれば薄っぺらく映る風景を眺めながらいつの間にか眠った。
 母がゲームをやるようになったのはいつからかよく覚えてはいないけれど、父と離婚したのより後ではあったと思う。かといってそこに父との離婚が影響したという見方を母は嫌がる。
「ミツミ」と声が響いたのはそのときだった。私は立ち上がりながら声のする方を見る。着物姿のサトコ叔母さんが歩いてくる。綺麗な紺色。その後ろに上が紺、下がグレーでギンガムチェックのスーツ姿で長身の男性がいる。私は男性とはなんとなく目を合わせづらく、叔母さんに向かって笑いかける。叔母さんは五年前に会ったときより少しふくよかになっている。
「佳弥子ちゃん、久しぶり。ごめんね遅くなって」
 私は首を振りながら、近くで見る着物の光沢に圧倒される。控えめに刺繍されている花の種類は分からない。母のカジュアルなグレーのスーツに比べて、ずいぶんと見合い感が増す。私のワンピースにストールを肩からかけた格好は大丈夫か。
「綺麗」私はつぶやく。私の服はいいのよ、と叔母さんは言いながら後ろの男性の方を振り向いた。男性は誰にともなく会釈をして一歩進み出た。その肩にそっと手を置いて叔母さんがまたこちらに向き直り、
「山田英二さん。私が遅れただけで彼は時間前に来てたの」
 知ってるわ、と母の口元が言っている。
「山田英二です。よろしくお願いします」と頭を下げた男を初めてまじまじと見る。黒髪を短く整えた、理髪店カットとでもいうような標準的髪型。指三本入るかどうかの狭い額にはしわひとつ無い。長身と全体的につるつるときれいな肌質が印象に残るくらいで、あとは極々平凡な容姿だ。明日になったらどこかですれ違っても分からないかもしれない、と笑顔を作りながら思った。
 佐藤佳弥子です、と挨拶をしてお互い二人ずつ向かい合ったソファに座る。周囲を観察するとラウンジの中には緊張した面持ちの男女が何組もいる。ここはお見合いのメッカなのかもしれない、こういうところでやるものなのか今のお見合いは、と考えた。
 見合いなどしたことが無いし、することも無いと思っていた。サトコ叔母さんからの見合いの話自体は数年前から何度かあって、そのたびに断ってきた。母も会うたびに言われていたという。「あの人、要は暇なのよ」と母は言う。叔母さんの娘、つまり私の従姉のスズちゃんは十年前に二十代前半で結婚していて、今では二児の母でもあり、それに引き換えミツミの娘は、と思っていたのだろうか。
 ともかく、そんな見合い話が一カ月前に再び持ち上がって、それを受けてしまったのはまさに気の迷いと言っていい。その頃私は、母の人生について考えていた。きっかけは特に無い。ふと、気持ちが後ろを振り向いたときに、そこにあったのが母のことだった。
「今日は暖かいですね」と山田さんが窓の外の庭園を見ながら言って、今日は二十八度まで上がるとか、と付け加えた。
「ほんとに。暑いくらいですね」と返すと、山田さんはにこりと笑んだ。
「仕事柄、暑いのは嫌なんですよ」
 山田さんはメーカーの営業をされてるの、と叔母さんが言った。なにを売ってるんだっけ、あぁそうだプラスチックよね。
 庭園の池が両側を岩に挟まれて、小川のようにずーっと窓の近くまで来て湾曲して戻っていくのを目で辿っていた。ミニマル化された自然美をこうして眺めていると、気持ちもここを離れて高いところへ引き上げられるような感覚がある。そもそも実体としての自分を俯瞰で眺める癖みたいなものがあり、そんなとき不幸な瞬間も幸福な瞬間も薄皮一枚挟んだ向こう側にある気がしていた。触れているようで触れていない、ここではないどこかに私があるという不在感。その根源がどこにあるかといえば、決して責めるわけでも憤るわけでもないが、やはり両親の離婚という点に行きつくのかもしれない。
 母ミツミが父ノブオと別れたのは私が七歳のときだから、母は四十歳だった。直接の原因について、母からも周囲からも聞いたことがない(母は親戚付き合いもあまりしないタイプだった)が、私が物心ついたときには既に二人は不仲であったように思う。怒鳴りあいの喧嘩が始まると、私は父が酔ったときに買ってくるぬいぐるみ(これも喧嘩のタネだったけれど)の山の中に自分の身を埋もれさせた。なるべく体を小さく丸めて外気に触れないように。カーペットの匂いと埃の気配とぬいぐるみの隙間から差し込むわずかな光、そういったものに安堵を覚えていた。喧嘩が終わるとぬいぐるみの山はそっとどけられ、父は私の頭を撫で、それが終わると母は私を抱きしめた。私までぬいぐるみになったようだった。
「佐藤さんのお仕事は」
 山田さんの仕事の話がひと段落し、山田さんがこちらに話を振った。私は視線を彼に戻す。
「はい」と不用意な返事をしてから「あの、事務です」と答えた。
 山田さんは頷いて「そうですか」と受けたけれど、母が横から口を挟んで、
「なんの会社か分からないじゃない」と言った。
「海運系の、です」
 言い直すとようやく場の空気が動いて、あぁ海運ですか、と山田さんはなぜか嬉しそうにした。
「うちの材料だって石油ですから、お世話になってるかもしれませんね」
 でも事務ですから、とは言わなかった。山田さんは仕事人間なのだろうか。
 公立高校の商業科を出て、そのまま就職した会社だ。進学か就職か、進路について悩まなかったわけではない。元々大して学問に勤しんでいたわけでもないから、大学にどうしても行きたい理由は無かった。ただ少し、ちゃらんぽらんな生活に憧れがあったのだ。しかし結局のところ、進学するとすればおそらく奨学金を借りることになるという事実が、就職を選ばせた。その頃母は、格闘ゲームに熱中していた。自宅で、普通のコントローラーではなく、ゲームセンターにあるようなスティックとボタンのついたコントローラーを俊敏にがちゃがちゃと動かしていた。週末になるとゲームセンターに行くこともしばしばだった。母がそう言ったわけではなく地元の友人が、ゲーセンで何度も見かけた、と教えてくれた。どれくらいのお金をそこで使っていたのか分からないけれど、学費の滞納などはおそらくしていなかったし(父からの養育費もあったようだし)、自分で使うお金はアルバイトで稼いでいたから、私には大きな不満は無かった。むしろ、母のそうした振る舞いが私の独立心を高めたのかもしれない。
「ずっと今の会社に?」
「高卒で今のところに入ったので、もう十四年になりますね」
 言いながら、長いなぁと思った。どうしてもと希望して入ったわけでもないのに、まさかこんなに長くお世話になるとは。他にやりたいことも無いし、とにかくお金が稼げればいいという無味乾燥なスタイルだからこその長居だとは思うけれど、職場として居心地が悪くないのも事実だ。周囲の人間はずいぶん変わった。その中には嫌な人もいれば良い人もいて、好きになった相手もいた。彼ら(彼女ら)に共通して言えるのは、変わりたいと願っていたということだ。私はそうではない。
 中塚の顔が浮かぶ。新卒で大学から入ってきたあいつももう三十歳になる。どうするんだろうこの先、と考えたところで、三十二歳独身の私に心配されたくもないか、と思い直した。
 山田さんはよく喋る。こういう相手なら卓球のラリーのように力を入れず跳ね返せばいい。無口な相手だったら今ごろここは地獄だっただろう。
「佳弥子さんはほんとにいい子でね。昔から誰にも迷惑かけない子だった」
 叔母さんもよく喋る。叔母さんは喋ることに内容は無いが、間を持たせることにかけては一流だと思う。不愛想な母とは対照的で、子供のころどんな姉妹だったのか訊いてみたい。母の表情を見る。眠たそうだ。
「ちょっとミツミ聞いてる?」
 叔母さんに話しかけられ、母が目をぴくりと動かす。
「聞いてますよ」
 低い声だ。初めて会う人には、普通に話しているのに怒っているようにとられることもある。今もべつに怒ってはいないのだろうけど、ぶっきらぼうに響いている。叔母さんは笑顔を崩さず、「もう、この人ったら」とつぶやいた。
 そんないい子でもないですよー、と私が謙遜の言葉を明るく吐く。母のためにバランスをとる羽目になるのはいつものことだ。
「そんなことないわよ、本当に真っすぐ育って」
と叔母さんは母の方を再びちらと見た。そのときになってようやく、これは母に対する嫌味も込められているのかもしれないと思った。
 母は高校を中退しかけたという話を聞いたことがある。教師と付き合っていたことがばれたからだ。あれは誰から聞いたのだろう。考えて、生前の祖母だったと思い出した。祖父の三回忌かなにか、粛々とした空気の中、それまであまり喋ったこともなかった祖母が急に隣に座っていた私に話しかけた光景がよみがえった。私が高校生のころだったと思う。
 あれは、言うこときかん子でな。弁当をぱくぱくと食べながら祖母は無表情に語った。認知症はそのころ既に始まっていたんだろうか。少し離れた席で親戚に挟まれつまらなさそうにしている母を見ながらそんな話を聞くのは、今すぐ逃げ出したいようなぞくぞくと昂揚するような、妙な気分だった。
 関係が学校に知られ家族に知られてからも、教師と別れるなら高校を辞める、と母は強情を張った。そこには自分が辞めれば教師は助かるという思惑があっただろうか。現実には教師は退職に追い込まれ、母は一時不登校になったが、復学した。それからより一層、言うことを聞かなくなったよ、と祖母は言った。高校を卒業した母は東京の信用金庫に就職し、独立した。長野に住む祖母に会うのは法事のときくらいだった。
「祖母も五年前に亡くなって、佳弥子ちゃんに会う機会も減っちゃったから心配してたのよ」
 祖母の名前が出てどきっとする。叔母はそれからなにか思い出したように口を半開きにして、山田さんの方を見た。辛いことだけど、話していいわねと叔母が確認すると、山田さんは頷いた。
「山田さんは、ご両親を亡くされてるの」
「そうなんですか」思わず言葉が出た。
「両方とも癌でした」
 山田さんは涼しげな顔で、周りに気を遣うように口角をくっと上げた。
「それで大学まで出てるんだから立派よぉ、山田さん」
 叔母の言葉に、山田さんは無言で手を振って謙遜する。私は、うちの祖父母も癌だったな、と記憶に無い祖父の病室と、鮮明に記憶している祖母の病室を思った。
「葬式の挨拶は」
 ふと口に出すと、私に視線が集まったのを感じた。母も私を見ている。
「挨拶はどうされたんですか」
 私の言葉に一同が目を丸くした。
「挨拶ですか?」山田さんが訊き返す。
「はい。葬儀のときにしますよね、参列者に向けて」 
 あぁ、とようやく得心がいったように頷いて、山田さんが言った。
「父のときは私はまだ高校生だったので親戚がやりましたけど、母のときは喪主も挨拶も私がしました」
「生前の母は、みたいなやつですよね」
「ええ」
「佳弥子」と声がした。母の顔を見る。「やめなさい」と母は言って、一瞬かち合った視線を自分から逸らした。
 祖母が亡くなって以降、私は母の死についても身近なものだと考えるようになった。まだ六十代、などと思ってはいられなくなった。悲観的になったというわけではない。ただ死はいつでも生活の隣にあるということを意識して生きるようになっただけだ。自分が死ぬときはどうでもいい。問題は、母の死だ。
 それ以来、私は母の葬儀での挨拶について時折考えている。最初はそらでぼんやり思うだけだったが、段々エスカレートしてノートにつけるようになった。ノートには母について思うこと、思い出したことや起こったことを書いていく。そこまではいい。それをまとめるのが難しい。母の人生が続く限りそれは当然のことなのだけれど、ノートはぐちゃぐちゃで、まだまとめられてはいない。
 あまり暗い話しても仕方ないから、と叔母が打ち切って、趣味について訊いてきた。私はそれこそ母の葬儀について考えるのが趣味のようなものだけれど、それは言えないので「読書ですかね」と答えた。実際、読書は小さい頃から私にとって自分の居場所を作るための欠かせないツールだった。言葉を持たないことは不幸だと思う。名付けられない寂しさや、怒り、漠然とした不安、そういったものをそのまま抱えるのは辛い。名前を付けることは可能性をスポイルしてしまうことかもしれないけれど、得体のしれないものをむくむくと育てるよりは、薄っぺらくても安易でも言葉を貼り付けてしまう方が楽だ。私は言葉を獲得することで、無慈悲に思える世界というものに目印をつけ、歩いてきた。
 中学生のとき、万引きがやめられなかった時期があった。誰かに脅されたわけでも、つるむわけでもなく、私はひとりで万引きをしていた。ホームセンターで金槌を盗った。コンビニでワックスを。本屋でグラビアアイドルのフォトエッセイを。家には置いておけなくて、すべて近所の公園のベンチに捨てた。
 それがなんのための行為なのか、当時は自分でも分からなかった。母にも学校にも、もちろんお店の人にもばれることなく、多分半年くらいで足を洗ったけれど、罪悪感はぬぐい切れてはいない。いまでもたまに夢に見るのだ。手に持った、欲しくもない物体の感触。嵐の前みたいに不穏なのに静まりかえった心。それは緩やかな自傷行為だったのではないかと、いまになって思っている。破滅願望、みたいなもの。幼稚だったとは思っても、笑うことはできない。
 山田さんは趣味について「虫です」と答えた。
「虫?」叔母さんが訊き返した。
「虫って、カブトムシとかですか」私も訊く。
「はい。昆虫も、そうですね」
 山田さんは臆面なく、笑顔を見せる。
「男の子って感じね」
 叔母はなんとなく戸惑った様子でそうフォローした。
寄生虫とかは」
 なんの気なしに私がつぶやくと、山田さんの目の色が変わった。前のめりになって「お好きですか?」と訊いてきた。
目黒寄生虫館、行ったことはあります」
寄生虫館、あそこはマストですね」
 二十歳そこそこの頃、デートスポットとして周囲で流行した覚えがある。奇妙なもの、グロテスクなものには底知れない魅力があった。土産としてサナダ虫の写ったポストカードを持って帰って、母に「気持ち悪い」と一蹴されたのを思い出す。
「僕は、友達が大学の研究所にいるので、寄生虫の研究室をのぞかせてもらったこともあります。あと寄生虫学会の大会があるので、ときどき参加したり」
 山田さんの一人称が「僕」になった。叔母は若干強張った顔になり、母は私と山田さんを見比べるようにしていた。
冬虫夏草なんかはキノコ類ですけど、不思議ですよね。寄生した蛾の養分で、とか」
「寄生生物は『気持ち悪い』と思われがちですけど、それはきっと容姿だけではなくて寄生生物の持つ本質的な依存性に対する嫌悪感だと思うんです。でも寄生生物にも……」
「盛り上がってきたみたいね」
 叔母が笑顔で言って手を合わせた。それから時計を見て「ミツミさん、そろそろ私たちは帰りましょうか」と母を見る。
 母も頷いて、早々に身支度を始めた。山田さんと叔母に背を向けて鞄の中身をごそごそとしながら、あくびを噛み殺している。
 
 その場で立ち上がって、ラウンジからロビーへと遠ざかっていく母と叔母の二人を見送り、私たちは再び席に着いた。窓の外を見ると、陽の色は少し黄色がかってきていて、庭木も輪郭を徐々に濃く、影を薄くしながら日暮れを待っている。
 山田さんの寄生虫の話は、お互い紅茶のおかわりをしながら続いた。山田さんとしては寄生生物にだって生きる権利はあるということを主張したいようだった。私はもうさほど興味は無かったのだけれど、知っている知識でときどき相槌を打って、話を促した。人が熱を込めて語るのを聞くのは嫌いではなかった。それはシニカルな視点でもって思うのではなく、単純に羨ましさからくる気持ちだと思う。
 中塚は映画と野球が好きだ。その話題になると(というか酔うとすべからくその話題になるのだが)肘をテーブルに乗せて、口の端をわずかに緩ませて語り出す。人が喜びをもって語る言葉はどこかセクシーな魅力がある。愛、というものがあるとすればそこに私は愛の姿を見る。
 私はきっと、心の底からなにかを、誰かを好きになったことがないのだと思う。恋をしなかったわけではない。心惹かれる物事が無いわけではない。けれど私が欲しいのはもっと盲目的な、狂信的な感情なのだ。代替不可能ななにか。
 それともそんなもの、誰も持っていないのだろうか。なにもかもが代替可能なものでできているんだろうか。
「済みません、こんなに寄生虫の話ばっかり」
 我に返ったように周りをさっと見渡しながら山田さんが苦笑した。
「ホテルのラウンジでなんの話してるんでしょうね」
 私もふっと口元がほころんだ。それで体の緊張がほぐれた気がして、
「庭、見ましょうか」と自分から発案していた。
 
 外に出ると、穏やかな風と水のひんやりとした気配が肌に触れた。舗装された通路をゆっくり歩く。水面に私たちが写り、その下を目の覚めるような朱色の鯉が泳いでいった。
寄生虫の話ばっかりしてたから、鯉見て「あぁ顎口虫だな」とか思っちゃいますね、と山田さんが言った。私は思いませんよ、と返すと「はは」と笑った。
「そういえばさっき、葬儀のこと訊かれましたよね」と半歩前を歩いていた山田さんが振り返って尋ねた。
「あぁ」と池に視線をやりながら応えて、最初は躊躇った。実際に両親を亡くしている人の前で、こういった考えを披露するのは失礼なのではないかと思ったのだ。
「いや、なんとなく」と逃げたけれど山田さんはこっちをじっと見て「聞かせてください」と言った。
 結局、まぁ今日限りだし、と思い直し打ち明けることにした。
 話を聞いて山田さんは、なるほど、と言ってしばらく考え込むように黙って歩いた。そのときになって私はようやく山田さんの横顔をまじまじと見て、明日になっても覚えているかもしれないと思った。
「つまり佐藤さんは書記のようなものですね」山田さんが顔を再びこちらに向けた。
「書記ですか?」
「はい。お母様の人生の書記をされてる、と」
 書記という言葉はそれほどしっくりこなかったけれど、すぐには消えず頭の中に残った。
「そんな緻密なものじゃないんですけど。積極的に会うわけでもないし」
 母はひとり千葉に住んでいる。二十五までは親子で埼玉寄りの東京の古いアパートに住んでいた。横浜の支店への異動を機に私がそこを離れ、数年後、アパートの取り壊しが決まった。あまり気は進まなかったが、横浜で同居するかと訊いたこともある。けれど母は「いいよ」と千葉を選んだ。会社も遠くなるのにどうしてと思ったけれど、家賃が安くてその分ゲームに回せる、と母は言う。
 車も無いので会いに行くのはなかなか億劫で、ときどきの電話でお互いの近況を(さして話すような進捗もないけれど)喋って済ませている。今回のお見合いの件も電話で母から、だった。
 そういえば、母はどう思って私にお見合いのことを話したのだろうと、急に気になった。
いままでのお見合い話は母のところで止まっていた。それが今回は「あんた、お見合いする?」だった。
 そこに母の老いを見た気がした。同時に、今までの小さな軋みが寄り集まって形になって現れたとも思う。母ひとり子ひとりの軋み、歪み。違和感が無かったと言えば嘘になるのだ。意識しないレベルで、それは潜んでいた。
「時代とか時間っていうのは常に現在じゃないですか」
 私たちは池の中央の東屋にいた。さっきより確実に暗く、少し冷えてきたけれど、座りたい気分だったので椅子に腰掛けた。黙って山田さんもそれにならった。
「その上で色んな物事が起きて、でもそれっていうのはなんか上滑りしていくような感覚で時間よりもどんどん遠ざかってしまって。あのときあんなことがあったとか、こんなこと言ったとか、そういうのを自然と忘れてしまうじゃないですか、私たちは」
「そうかもしれない」
「だから、なるべく繋ぎ止めておきたいんです、画鋲で壁に写真を貼るみたいに。そうすれば、少しは華やかに見えますよね」
「誰のための華やかさなんでしょう、それって」
 山田さんが自問自答するように言った。
 私は少し考えて「分かりません」と答えた。自分のためと言い切ってしまうのも違うし、かといってすべて母のためと言うのも違うだろう。
「僕は、あなたがそれを自分の価値だと思ってるのなら、それは違うと思います」
 山田さんの方を見る。薄闇は屋根の下ではいよいよ濃いものになっていて、表情を確かめるには少し眉根を寄せる必要があった。
「場所を変えませんか」と山田さんが言った。

 離婚後の父に、一度だけ会ったことがある。というか、父が自分から私のところへ来たのだ。もう横浜にひとりで住んでいた私は、まさか自分のアパートに父を入れることになるとは思いもしなかった。
 老けたな、というのが当然の第一印象だった。数えてみたら二十年が経っていた。けれどなんだか小さく見えるのは七歳の私が小さかったからというだけで、父は大してしょぼくれてはいなかった。普通の健康そうなおじさんだ。それを少し残念に思う。
「急にごめんな」と正座した父は言った。
「電話くれれば片づけたのに」と言いながらお茶を出した。
「どうやってここを」と訊くと、「ミツミに聞いた」と答えた。それはそうか。
「お母さんと連絡とってたの」
「いや、ほとんどないよ。たまに手続き的なことであれするけど」
「ふーん」会話が途切れた。
「ミツミは元気かな」父がお茶をすすって、私を見た。
「電話したんでしょ」
「聞いたけど適当に答えてるかもしれないしさ。お前は元気だろうけど」
「ふーん。お母さんも元気だと思う」
「思う? あんまり連絡とってないのか?」
「あんまり会ってはないからね」
 そうなのか、と父はなんだか寂しそうにした。
「まぁ不仲ではないですよ、おかげさまで。あ、養育費ありがとうございました」
「佳弥子も皮肉言うようになったんだな」
 それで用件は、と私は訊いた。すると父は居住まいを正して、
「再婚することになった」と言った。
 なんだそんなことかというのが、そのときの私の偽らざる感想だった。というより、いままで再婚していなかったという方に驚いてしまった。それでもその後の父の言葉に、一抹の寂しさというか、心のどこかに小さな穴が開いたような思いだった。
「新しい家族ができる前に会っておこうと思ったんだ」
 家族って、と私は思った。新しいとか古いとか、そういうものなのだろうか。母は自分のあずかり知らぬところで、古いものとしてカテゴライズされていくのかと思うと、苦々しい気持ちになった。父に「なにがあったの」と訊きたくなっている自分を抑えた。なにがあって家族じゃなくなって、なにがあって家族になるの。

 電車を二度乗り換えて揺られているうちに、都会とは言い難い景色が広がってきた。住宅街があり、大型のドラッグストアが見え、公園らしき森林が見え、遠くは山が壁のように黒く塗りつぶされている。もうすっかり日は暮れている。
 場所を変えるってまさかこんな遠くだとは。驚きの気持ちはあるものの、夜を迎え、知らない男と二人でいるというのに、私には不思議と警戒心というものが無かった。それでいて頭は冷静に、よからぬことを考えているわけでもなさそうだと思っている。山田さんは車窓や乗客にときどき目をやる以外は膝のあたりを見つめ、黙っていた。電車が速度を落とし始めたとき、「降ります」と山田さんが言った。平日なら帰宅ラッシュの時間だろうが、土曜日の今日は電車もホームも空いている。
 駅を出て、山田さんはタクシー乗り場の列に並んだ。ほどなく私たちの順番が来て乗り込むと、「○○市民公園まで」と山田さんが運転手に告げるのが聞こえた。
 星がほとんど見えない。さっきまで晴れていたのに、いつの間にか雲が出たようだ。道路沿いの街灯と信号が視界に斜めに飛び込んでは消えていく。駐車場の大きなコンビニ、レンタルビデオ店、家具屋、大型スーパー。都会から離れるほど大型店が増えるのはなぜだろう、敷地があるからか、とひとりで納得しながらぼうっと眺めるうちに高いネットの張られた学校のところを曲がってタクシーは路地に入っていく。「ここらでいいですか」と運転手が言ったのはそれからすぐだった。「はい」と山田さんは前を見たまま答えた。
 住宅街の間に公園の入り口を示すブロックと、黄色い車止めと、その奥に手すりの付いた長いスロープが見えた。スロープの両側は林になっていて、人の気配は無い。
「ここを登っていきますか」念のため訊いた。
「怖いですか」
 山田さんの声が少し高くなっているように思った。
「いや、体力の問題です」と私が言うと山田さんは少し笑った。それを見て私はどこかほっとして、やっぱり不安はあったんだ、と気付いた。
 公園の中は、この時期の森はこんなに静かなのかと思うほど静寂が保たれていた。ときどきグルグルと聞こえるのはカエルの鳴き声かもしれない。スロープは途中から右に大きく曲がっていき、勾配も若干きつくなる。五分ほど歩いたところで口呼吸になった。山田さんはちらっと私を見たけれどなにも言わず進んでいく。
 今日はなんの日だっけ、と考えた。なんでこんなところにいるのか。
 スロープが終わり、階段とまた新たなスロープが見えてきた。山田さんが階段を選択したので仕方なく後に続く。階段は三十段くらいだろうか。
「この上です」と山田さんが励ますように言った。私は黙って登るしかなかった。
 登り切ったところに、うすぼんやりと月があった。そこは広場のように平らに開けていた。
「ここなんですか?」
 私は訊いた。周りを見渡すが、広場にはなにもない。
「ここならいいと思います」と山田さんが言った。私はその声に違和感を覚えた。さっきよりも声は高くなって、少し掠れて、思春期の少年のように中性的に響いた。山田さんは広場の中央の方へ歩いていくので私もついていく。
 ちょうど真ん中の辺りで、山田さんはもそもそとポケットに手を入れた。そして手を出す。その手にはなにも無いように見えた。手のひらを上にして開く。目を凝らすとそこに球体上のなにかが見えた。これなんですか、と訊こうとしたとき、ふうっと脳が吸い上げられたように体が軽くなり目の前が暗くなった。
 慌てて瞬きをして視界が戻ったときには、私は明るい空間に立っていた。目の前に山田さんがいるのだけが変わらない。山田さんは真顔で私を見ている。気を失っていたのかと考え、いやどう考えても一瞬だったと思ってから周囲を見る。
「どこですか、ここ」と声に出す。声は出る。白い壁に囲まれていた。あまりに白いので遠近感も輪郭も分かりにくいが、ここはどうやら円心状に囲まれているようだ。夢の中ということだろうか。
「ここは地球上ではありません」
 山田さんの言っていることの意味が理解できない。
「地下ってことですか」
 そういうことでもないです、と山田さんが言う。山田さんは超然としていて、さっきまでの親近感が嘘みたいに不気味だった。
「強いて言うなら地球の上空です。つまり宇宙空間」
 宇宙空間、とつぶやいてみた。分からない。
「なんですか?」闇雲に尋ねてみる。「なんなんですか」
「イチから説明すると長くなるので簡単に、分かりやすい概念で説明します」と山田さんは言う。
「僕はいわゆる宇宙人です」
 山田さんの顔をじっと眺めた。真顔は崩れない。なにも言えずにいると「もうちょっと詳しく言うと」と説明を重ねてきた。
「この体、つまり山田英二は地球人です。僕は寄生型生物なので、彼の体を借りています。いや、乗っ取っている、という方が正しい。私の本体はそうですね、枝豆のもっともっと遥かに小さいサイズと思ってください。それが人間の頭皮に付着すると毛穴から内部に侵入します。頭蓋骨と皮膚の間を這いずって、眼球の窪みから脳へと入るのです。大脳皮質の重要なところを傷つけないように潜っていって脳幹で止まります。そこから触手を広げて、全身を掌握するまで二日。そうしていま、この体があるんです」
「山田さん」初めて名前を呼んだ気がした。「本当にそう思ってるんですか」
 彼がそう信じているのだとしたら、それはそれでいい。そういう人だと思っていなかったから驚きはしているけれど、そういうことなら仕方ない。
「信じられませんか」
 山田さんは、静かな声で言う。
「いや、あなたがそう思うのならそれでいいと思いますよ。でも、とりあえず帰りたいです」
「もう少しだけ待ってください。佐藤さん、あなたにはすべてさらけ出してお話ししたいと思ったんです。宇宙人だということは信じてもらえなくてもいい。ただ私だってあなただって、いまこの場所では単なるひとつの生命体であるという点で変わりはないじゃないですか」
山田さんの声は真に迫っていて、私はどうしたらいいのか分からなくなりつつあった。
「これを見てください」
 山田さんが壁に触った。するとそこから円状にスクリーンが拡がるようにして壁の一部が透明になった。
 圧倒的な数の星屑。網膜の奥に焼き付きそうな輝きが飛び込んでくる。そしてその中央に、紫に近い深いブルーの球体。白と緑の土地が散りばめられた、これはおそらく地球だ。プロジェクションマッピングのようなものだろうか。それにしてはあまりにも鮮明で、くらくらとする。
「宗教ですか」私にはもう思い浮かぶ選択肢が少なくなっていた。
「一対一の話がしたいだけです」山田さんの声は変わらない。
「僕の種族には名前はありません。なぜなら僕は僕以外の同種と自らの姿で出会ったことがないからです。この乗り物と僕という個体、そして生存本能。知っているのはそれだけです。そして僕は地球上に降り立って、山田英二になりました。彼が五歳くらいのときでした」
 私は黙って彼を見守る。考えてみればたしかに一対一である以上、他のことは関係ないのかもしれない。脳が疲弊してそう考えたがっているようにも思えるけれど。
「そういう意味で、僕は生まれながらにひとりでした。でも、人間として過ごしていくにつれて、地球上の両親を失って、思うんです。人間も動物も昆虫も、寄生虫も、皆それぞれはひとつの個体に過ぎない。それ以上の価値は無いしそれ以下でもないんです。集団であっても、たとえばリーダーを持つ集団であっても、突き詰めればそれは同じことです」
「家族であっても」
 そうです、と山田さんは頷いた。
「あなたは集団単位に囚われすぎています。人間は一般的にそうですが、それは価値の優劣を生みます」
「私は私である、ってことですか」
 個としての私はどんな生き物なのだろう。なにが私の価値を認めてくれるのだろう。中塚の顔がまた浮かぶ。そして母の背中。家事を終え、テレビに向かう母の背中。私はなにも言わずそれを見ていた。
 私たちは二人とも、お互いに所属することで、逃げ続けていたのかもしれない。
「帰りたいです」私は言った。山田さんは私の目を覗き込むようにじっと見つめている。
「帰って会いたい人たちがいるんで」
 山田さんが視線を外した。そして「帰りましょうか」と、喫茶店を出るみたいに軽い調子で言った。

 ただいまというより早く、「おかえり」という声が聞こえて、私はうん、と答えながら玄関で黒のパンプスを脱いだ。リビングに入ると、母がダイニングテーブルの椅子に座っていた。
「ゲームやってないんだ」と言うと、「クリアしちゃったから」と事も無げに母は言った。
 テーブルの上にコンビニのビニール袋を置く。
「なんか食べてきたんじゃないの」と母が訊く程度にお酒やおつまみ、お菓子、弁当が入っている。
「適当に買ってきた。どうせ、明日お昼食べてから出るでしょ」
 そうだけど、と母は言いながら私の方をじろじろと見ている。その先のことを訊けずにいるようだ。
「山田さん?」私から訊いた。
「どうだったの」
「無いね」
 私は袋からチューハイを取り出しながら手を振った。
「無いって言える立場じゃないでしょ」
 まぁでも宇宙の彼方に連れ去らわなかったからいい人だとは思うよ、とは言えず、無いもんは無いよ、とだけ言った。
「そうですか」
 母はため息混じりに言いながら袋の中身をがさごそ漁った。それから思い出したように顔を上げた。
「あれ」そう言ってパソコン机の方を指差す。
「あ」私はしまった、と思う。ノートが置きっぱなしにされている。それはあのノートだ。
「見たの」
「見たよ」ビールを取りながら、平然と言う。
「見ないでよ」
「見てほしいのかと思った」
 気恥ずかしいような後ろめたいような妙な気持ちでチューハイをあおった。けれど、まぁいいのかなと思い直した。帰ったら捨てるつもりだったし、と。
「あんなもんじゃないね」母がぷしゅっと音を立てて缶ビールを開けた。
「なにが」
「私の人生」そう言って、にやりと笑う。目尻のしわが、やっぱり老けたなぁと思わせる。
 そうなの?と私が眉を上げると「だって付き合ってた男のこととか全然だもんね」と母がいたずらっぽく言った。
 初耳だと思いながらも動揺してないふりをして、「そんなの書くわけないじゃん」と一蹴する。
「でも話したいんなら聞くけど」
 母がチーズたらの袋を開けた。濃厚なチーズの匂いを嗅ぎながら、明日は日曜だし、いいか、と二本目のチューハイをつかんだ。