いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

退屈な日々にさようならを

 希望を燃やす。希望は半紙なのでよく燃える。墨のにおいがする。希望は書道の授業で書かれた希望なので、墨のにおいがする.

どうにかしようと始めた狼煙も今日で三日になる。どこかで誰かが見てやしないかと、私たちの白煙は一斗缶からくねくねと身をよじって青い空をのぼってゆく。のぼっていって、空気に溶けていくのだけれど、暴力的なまでの青のまま。なんか余計に絶望する。

 そんなことを思っていたら、手に棒のようなものを握っている鹿嶋が戻ってくる。

「なに燃してんの」

「習字のやつ」

 私は校舎の方を指さす。一年生の廊下に貼りだされてあったやつを、全部集めてきたのだ。

「いやいや、そんなの燃しても意味ないじゃん。木だよ木」

 しゃがんでいる私の頬に、立っている鹿嶋の唾がかかった。きたな。

 鹿嶋が手に持っているのはフランスパンだった。微かだけど、焼けた小麦のにおいがしている。

「給食室にあった」

 鹿嶋は言って、はしっこをちぎる。

「それ、私にくれようとしてる?」

「うん」

「いま、いい」

 私は立ち上がってスカートの裾をぱたぱたとやり、長い木の棒を鹿嶋の空いてる方の手に押しつける。

「交代して」

「トイレ?」鹿嶋が訊く。

「うるせー」

 私は校舎の方に歩く。

「うんこ?」

「ぶっとばすよ」

 

 昇降口を入ると、目が暗さに慣れなくて視界が悪くなった。しんとしている。それはもう当たり前の光景なんだけど、学校というものの喧騒を知っているから、慣れない。鼓膜の奥で勝手に鳴っている音がある。上履きが床にこすれる音とか、手を叩いて笑う女の子たちの声とか、階下で椅子が一斉に動く音とか。普段気になんかしてなかったはずの音が、しっかりと残っている。

 といって、ここは私の母校ではない。中学校なら給食室があるから、と鹿嶋が提案して、鹿嶋の母校に来たのだ。たしかに給食の食材があったのだから、鹿嶋には感謝しなくてはならない。

 静まり返った校舎内に私の足音だけが響いている。なにか歌を唄おうと思ったけれど、特に思いつかなかった。階段をのぼる。

 

 街から人が消えたとき、私と鹿嶋は警察署にいた。私たちが通う高校を管轄とする警察署で、いつもありがとうございますと花束とメッセージカードを持っていかなければならなかったのだ。応接室で私たちは黒い革張りのソファに座って、署長さんだか副署長さんだかを待っていた。私は、なんでこんなとこに鹿嶋と二人いるのだろうと、いまさら考えても仕方ないことを考えていた。それは私と鹿嶋が学級委員だからで、なぜ学級委員かというと友達がいないからだ。私たちはいわゆる「ミソっかす」同士だったのだ。

 不意にドアの向こうから人々の気配と物音が消えた。私たちは顔を見合せ、鹿嶋が扉を開けた。フロアには誰ひとりいなくなっていて、エアコンの音だけが静かに続いていた。警察署から外に出ても同じことだった。道路には無人の車やベビーカーや配られていたティッシュは残っていても、生き物はいなかった。

 私と鹿嶋以外の人間はどこかに消えてしまったのだ。

 

 四階をすぎて屋上の扉の前にたどり着いた。窓のついた扉にはカギがかかっている。私はポケットに入っていたスパナを窓に叩きつけた。がしゃんと音がして曇りガラスがなくなると、とたんに風が吹き込んでくる。秋風は少し肌寒い。慎重に手を伸ばして、屋上側のドアノブを探った。カチッとつまみを回すとドアが開いた。

 扉が風に押されて重たい。一気に開けて屋上に出た。

 屋上は風がびゅうびゅう鳴っている。校庭にいたときはそんなに感じなかったのに、遮るものがないだけでこんなにちがうか、と思う。空の青も暴力的だけど、風というのも同じだ。耳元で私を威嚇するみたいに唸っている。自然ってこわい、私は自然よりも人工が好きだ。スケールのでかいものは苦手だ。

 屋上のふちは二メートルくらいの白い柵でおおわれている。私はその柵に近寄って両手で握った。じーんとくるぐらい冷たかった。

「おー海」

 思わず声が出た。丘の上にあるこの中学校からなだらかに下っていく町並みの向こうに、コンクリート色の港が見える。コンテナを積んだタンカーかなにかが、埠頭に停泊している。水平線がくっきりと見えている。私は家族で行った夏の海を思い出していた。妹が中学生のくせに、なのか中学生だからなのか、暇なくせに行きたがらず、両親と三人で行ったのだ。お父さんもお母さんも行きの車のなかでは妹の愚痴(妹は学校の成績がすごく悪い)を言ったりして重たい雰囲気だったけれど、山がひらけて濃紺の海が見えた途端にわーすごい、となってムードが変わった。海は偉大だ、と私は思った。人工が好きなくせに、海は許してしまう。

 海岸はめちゃくちゃ混んでいたけれど、ほとんどの人が砂浜にいて、海に入ってしまうと窮屈さは感じなかった。海より砂浜の方がはるかに人口密度が高いのだ。みんななんの為に海に来てるのだろうと思った。父と母が代わりばんこに砂浜に残り、私はほとんどの時間(焼きそばを食べたとき以外)を海のなかですごした。父も母も楽しそうだった。私は海水は目が痛いので泳ぐことはせずに、浮き輪に入ってぷかぷかと浮かんでいた。なんかこういう風に、クラゲみたいに生きてたい、と呟いたのを母が聞いていて「なにおばあちゃんみたいなこと言ってんの」と笑われた。帰りに水族館のお土産コーナーに寄って、クラゲのキーホルダーを妹のお土産にした。家に帰って妹に渡すと「きもっ」と言われ、みんなで笑った。

 

 いつの間にか涙が出ていた。そりゃまあ、涙くらい出ますわな、とおどけて言ってみるものの、所詮ひとりなので恥ずかしいだけだった。

 一日目の夜、私と鹿嶋はもしかしたら家族がいるかもしれないと思い、それぞれの自宅に戻ってみた。電車もバスも動いていないから、一時間半くらい歩いた。その間、誰にも会わず、自宅にも家族の姿はなかった。いつもこの時間なら妹と母はいて、夕飯を食べているはずだった。冷蔵庫をあけると(二日目の途中まで電気は使えていた)、週末に母が作り置きしていたハンバーグが入っていて、私はそれを冷たいまま、泣きながら食べた。

 もぬけの殻になった我が家が網膜にはりついて消えない。そこはまだ全然綺麗なはずなのに、骨が透けて見えるみたいに、脆弱なあばら家同然だった。

 反対側の柵に近寄った。校庭の真ん中に鹿嶋がいた。おい、と聞こえない声で呟いた。鹿嶋はこっちを見なかった。

 

 月明かりが体育館の二階の窓から白く差し込んでいる。ステージ裏にあった毛布と体操マットで作ったベッドの上に座っていると、鹿嶋が入ってきた。

 火を消した、と言って鹿嶋は私から数メートル離れて座った。

「また明日つけるの?」

「んーどうかね。ここいても駄目そうだしなぁ」

 ぼんやりとした口調で言う。その表情はなんとなく大人っぽい。

 学校での鹿嶋は、いつもいじられ役だった。いじられてるのかいじめられてるのか、正直よく分からなかった。あまり人が寄りつかない私とはちがって彼の周りには人がいたけれど、羨ましいとは思えずなんとなく休み時間の教室で転がされたり頭を叩かれている彼を見ていた。鹿嶋の言動はどこか空気を読まないところがあったり、変な行動をして人を笑わそうとしても本人の意図とは別なところで笑われたりしているようだった。

 そういう鹿嶋を見てきたから、いまの彼はなんだか別人を見てるみたいにも思える。どっちが本来の彼なのか分からない。

「全国まわるっていうのも考えた」

「日本一周?」

「海の向こうにはいけないからな。日本のどこかには俺たちみたいな生き残りがいるかもしれない」

 生き残りという言葉が胸に刺さって私は黙った。それはつまり、私たち以外の人間の死を意味している。家族の死を意味している。

「いや、消えた人たちが死んだってわけじゃないけど」

 表情で察したのか、優しいことを言う。でも、同じなのだ。見えないということは、触れられないということは死んだのと同じことなのだ。

「さびしいね」

 私は思わず口に出してしまった。鹿嶋の前でこんなことを言うのは初めてだった。鹿嶋は口を尖らせて、言葉を探しているようだった。

「俺はあれだな。さびしいっていうか、なんか叫び出したくなる。これあれかな。発狂しそうなのかな」

 彼は無理矢理笑ったけれど、全然笑える状況じゃない。

「発狂されたら私が困る」

「たしかに。ていうかさぁ、俺思ってることあって」

「なに?」

「水野、俺のこと殺せる?」

 突然の問いに私は耳を疑った。は?と言った。

「いや、極論ていうか最終的に?そういうことできるかってこと」

 想像もできなかった。

「なんで?」

「うん?いやそれは……」鹿嶋が口ごもる。しばらく間が空いて、再び彼が口をひらいた。

ゾンビ映画であるじゃん。ゾンビになる前に殺して、みたいなの」

「ゾンビにはならないじゃん」

「ゾンビにはならない俺は。ならないけど、その、バケモノというか。つまり、人間の本能ってあるだろ。それってバケモノみたいだって俺は思ってて。だって理性で制御できない力って、それもうやばいじゃん」

 鹿嶋が頭を掻く。私はうなずきもせず先を促す。

「たとえばナチスがやったユダヤ人虐殺とか、色んな暴動とか、戦争での犯罪行為とか。そういうのってなんで起こるかって、人間は集団になることでひとりひとりの理性のブレーキが外れてしまうことがあるんだと思うのよ。個々の人間がコントロールできない大きな力に動かされてやっちゃうっていう感じなんじゃないかな。そういうの考えるとさ、人間って全然理性的で優秀な生物なんかじゃなくて、ただ少し頭の発達した動物にすぎないんだよな。だから、だからさ。俺が水野を、襲ったりしたら」

 鹿嶋の言いたいことがようやく分かった。

「いや、絶対そんなことならないように俺はする。するけど、それは理性を保ってる俺が言ってることであって、どうなるか分からないっちゃ分からないからね」

「殺すよ」

 私は言った。鹿嶋の動きが止まった。私を見ている少しつり上がった彼の目に、光が見えた。

「ちゃんと殺す」

「……そっか」

 鹿嶋がうつむいて、黙った。私は急に笑いが込み上げてきたけれど、笑わずに堪えた。

「じゃあ寝よう」と鹿嶋が立ち上がった。どこで寝るのと聞くと体育倉庫と返ってくる。

「俺が出れないように封鎖しといてもいいよ」

「そんなに本能出そうなの?」

 鹿嶋が笑った。笑ってもいいのか、と思えた。おやすみ、と倉庫の扉が閉まった。

 私も横になったけれど、しばらく眠れなかった。なにも音のしない世界で、自分の呼吸だけが聞こえていた。鹿嶋のことが少し怖くなったのは確かだったけれど、それ以上になにか信頼できるような気がした。信頼するしか生きていく手段はないのじゃないか。結局はどこかで、自分でどうにもできない領域に身を投げ出さなくてはならないのだと思った。

 

 四日目の朝になって、私たちは学校を出た。とりあえず人の多い東京の方に向かうことにした。相変わらず、風のほかにはなんの音もしない世界が続いていた。天気は少し曇っていたけれど、雨が降るほどではなさそうだった。国道らしき太い道路を何時間も歩いて、休憩してまた歩いた。東京の地下鉄の表示を見て、ああ東京だ、と感慨深くなった。数少ない友だちと浅草に遊びに行ったときのことを思い出して鹿嶋にも話した。

浅草寺の線香だけもくもく燃えてたりしてな」鹿嶋が言った。ポケットに手を突っ込んでいた彼が、あ、と声を上げて指差した先に東京タワーがあった。

「俺、東京タワーってのぼったことないんだよね」

 鹿嶋がつぶやいた。

「じゃあのぼろうか」私はほとんど無意識にそう返答した。鹿嶋は少し驚いたようだったけど、高いところから見るってのはあるよな、と言った。

 

 タワーの外階段は果てしない長さに感じられた。風が、学校の屋上の比ではないくらいつよく吹きつけてきた。寒さで指先がかじかむ。手袋してくればよかった、と言ったけれど、風のせいで鹿嶋には聞こえていないようだった。鹿嶋は後ろを振り返ることもなく、ときどき目を外に向けて、黙々とのぼっている。私も街を見る。四角い建物が不規則に並んでいる。道路が血管みたいに塊と塊をつないでいる、動かない車の列が見える。意外と多い緑が目につく。あそこにもあそこにも誰もいないのだろうか。本当に誰もいないのだろうか。

 息が切れてきた。手すりを持ちながら、ゆっくりとのぼる。頭がぼうっとしてきて、自分の呼吸を整えること、足を前に出すこと以外は考えられなくなっていた。からだが徐々に重くなっていく。視界は目の前の階段ばかりになる。

 鹿嶋が立ち止まってこちらを見た。鹿嶋の前には扉があった。着いたのだ。

 

 室内に入ると、風にさらされた皮膚の冷たさを余計に感じた。私は大きな窓の前のイスに腰掛けた。ギッと音が鳴って、なんだかそれだけで嬉しい。

 鹿嶋は私の後ろで立っていた。息づかいが荒くなっているのが分かる。なにも言わない。しばらくすると私を通り越し、ゆっくりと窓に近づいていく。

 呼吸を整えながらその後ろ姿を見ていた。やっぱりなにも喋らない。

 私はからだの機能が戻ってくるのと引き換えに、心の芯がだんだん冷えていっているような気がした。なんだろう、この感覚は。なにかおかしい。

「誰もいない」

 鹿嶋が言った。彼は窓に手を置いた。

「海が見える」

 私は気づいた。彼もまた、いまなにかの渦のなかにいる。

「大津波がくるとかなら分かるけど。なんだよこれ。二人だけって。消えるってなんだよ」

「鹿嶋」

「分かってる。なんだよって聞いたって答えは返ってこない」

 鹿嶋が横を向く。唇がかすかにふるえている。

「水野」

「ん?」

「こうなったのは俺のせいかもしれないんだ」

 鹿嶋が私を見る。

「俺な、みんな消えたらいいのにって思ってたんだ。なにもかもやかましいから消えてしまえばいいのにって。教室ではしゃいでる奴らも。先生も。親も。すれ違う人たちも全部。そうやって思ってた」

 鹿嶋がしゃがみこんだ。

「警察署で、音が消えて人が消えたとき、だから俺はちょっと喜んでたんだよ。こんな状況で、ちょっとはしゃいでた。でもそんなのは最初だけなんだ。これからずっとずっと変化のない景色が続いて、誰もいない毎日が続いて、俺たちは狂ってく」

 私は顔が熱くなるのを感じた。視界がゆっくり滲みはじめてしまう。鹿嶋の輪郭がぼやける。

「自分ひとりでは自分のことすら保てないんだ俺たちは。誰かとぶつかって反射したものを視覚として認識するのと同じに、俺たち自身もなにかとぶつからないと、反射しないと自分だってことが分からない。ひとりでは生きていくことすらできない」

「二人いるよ」

「二人しかいない。二人だから余計に駄目なんだ。水野、俺はお前のことをレイプするかもしれない。いまここで、急にそうやってしようと思えばできてしまう。裏切ろうと思えばできてしまう。そのことが堪らないんだよ。昨日だって思ってた。もしかしたらお前は嫌がらないでやらせてくれるんじゃないかって、そう思ったらぐるぐるとその考えが頭のなかをまわって。信じられないだろ? 馬鹿だと思うよな。ほんの一瞬の快感のために、一生分の裏切りをすることが、俺にはできるんだよ。昔からそうだった。目の前にいる友だちの喉元を食いちぎってやることとか、持っている鉛筆で後頭部を刺してやることとか、親を殺したらどうなるかとか考えたことがある。何度も何度も、頭のなかでその映像がリピートされるんだよ。そう思ったら俺、とっくの昔に頭おかしくなってたのかもな」

 鹿嶋は床を叩いた。音は全然ひびかなくて、どすどすと冷たい素材に吸収されていくばかりだった。

 私は窓の外を見る。曇り空はほとんど真っ白になっている。白く塗った壁がすべてを覆ってしまったようだった。

「あっ」

 私は声を出した。なにかが動いた。黒い影のようなものが視界をよぎった。

「鳥」つぶやいた。私は窓に駆け寄って、顔を張りつける。

 鳥が飛んでいる。よろよろと風に吹かれて、いまにも墜落しそうな頼りなさで、ほとんど溺れているような雰囲気で、空を泳いでいる。鹿嶋はまだ見つけられないというように視線をさまよわせている。

 現実だろうか、幻覚だろうか。どちらでもいい。生き残ったのか取り残されたのか。どちらでもいい。見えないものがないのと同じであるように、見えるものは存在するのと同じことなのだ。窓に添えた手が、外気の冷たさを感じている。

 私は鳥を見つめる。

 その向こうで、いま雲が割れてつよい光が現れた。