いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

燃えるごみのパレード

  まったく、くそったれしかいないと思う。いまこの場にくそったれしかいない。ぼすぼすぼすと袋を踏みながら進む、進んでいるのか沈んでいるのか本当のところはわからないが、不法投棄されたごみの上を走るこの真夜中の山のなかで。
 智恵子オオオオ! と正木の声が追いかけてくる。その声は血がにじんだように掠れている。実際のところ正木の頭部からは真っ赤な血が流れている、さっき峰田がレンチで殴ったところから、どろどろと。
 臭い。なにかこれは、ガスが、なんらかのガスが発生している感じのにおいだ。踏んでいるのは固体も液体もおそらくは混じって、ぶよぶよと腐敗して融解して、この世のものでここより汚れた場所は想像がつかない。吐き気はしかし、徒労に近い動作による荒い呼吸に圧されて感じる暇もない。数メートルの距離にいる峰田が、大丈夫ですか! と声を出す。大丈夫なわけあるか! お前と関わったがために私はいまこうして息を切らし、汗を流し、ごみに埋もれているのだ、お前が、お前が目の前に財布をぶらぶらと、不相応にも高級そうな財布をぶらさげて歩いていたから私はそれを奪おうとし、奪えず、逃げようとするとお前が喫茶店に誘い、私は従った。私はあのときお前を殴ってでも財布を奪って逃げていればよかったのだ、金を欲しがる理由が正木にあるなどとお前に話さなければ。
 一緒に正木を殺そう、などとお前が言わなければ。
 ずぶ、とまた足が埋まる。濡れていた。なんの液体か。獣の死骸のその体液であってもおかしくはない。なにせここはごみ溜めだ。ごみは無意識の悪意の集合体。死ね死ね死ねと垂れ流された残骸のなかで、生きたい生きたいと足を前に運ぶ自分の憐れさよ。生きたいのか、私は? おそらく死なんて一瞬のしびれのようなもので、あとは永久に無があるだけなのに、それをおそれている。どうして? だいたい、これから先どうする? この場を逃げきって、峰田とふたり、逃げつづける? この冴えないシリコン入りシャンプーをノンシリコンと偽って売る詐欺師と。体臭のうすいことだけが取り柄のような男と。
 泥水をすするような人生を、それでも終止符を打たずにやりつづけようとするその動機はどこにある?
 小さな破裂音がふたつ。銃だ、銃を持っている。正木が、殺すぞくそがぁぁぁぁと叫んで狙っている。私はついには銃に狙われる人生になってしまったかと、半分壊死したように冷えている頭で思った。東京に出てきた日の、千住のアパートの脇に座っていた浮浪者の顔がなぜかいま鮮明に思い出されるような気がした。それがいまつくられたのか、本当に過去のことなのか誰にもわからないだろう。交差してすらいない誰かは、私の人生と関わりないという一点に支えられて存在している。知らないことがたくさんあった。いまも数かぎりなくあり、知ることはできない。知らないものが、それでも存在しているということが私を形づくっている。
 私の内側には私すらいない。それは常々そうだった。私は自分のことすら充分には語れず、行き届かず、触れられることのない場所はそのまま埃をかぶっていた。その蓄積こそが自分なのだと、掻きむしって教えてくれたのが正木だった。正木は自分のことのように私のことを語った。私がどういう人間か、正木が教えた。正木は垢まみれの私を愛した。垢まみれだからこそ愛した。私はいつの間にかあの頃のにおいを失っていて、それは誰のせいでもない。

 峰田が私に並走した。呼吸は不規則で歯の隙間から漏れ出すような音だ。私に横顔を見せながら必死にごみをかき分け、みっともなくつんのめり、また前を向く。そのとき発砲音がして、峰田が口元を歪めたかと思うと、ぷっと吹き出した。
「耳かすった! 死んでたよ俺!」
 その顔は子供のように幼く笑っていて、いまにも泣き出しそうに張りつめている。
「でもずっと死んでたからどうせ! チエコさん俺、耳が痛い! 大丈夫? って聞いてくれる人、ずっといなかったんだ!」
 私は目を逸らす。一心に膝をあげ、ぐちゃぐちゃになった足を前にやる。心もからだも別々の方を向いて、がちゃがちゃとやかましい。
 後方で正木のうめき声。思わず顔を向けた。正木がごみに腰まで浸かっていた。噴き出した血で左目はふさがっているようだ。顔半分が黒く染まっている。銃口を漠然とこちらに向けながらうつむいている。
 怖いんですよ朝は。初めて峰田とセックスした日の明け方。白みはじめた空が窓も染めていくのを見ながらコーヒーを飲んだ。なにかが始まるということをずっと恐れてる、僕は。私もそうだった。昨日を永遠に引きずりたいと思っていた。
 パァン。
 どこかにあたった気もする。痛みはないけれど、全部命中して私はとっくに死んでいるという気がする。殺意はパラレルに私たちを引き裂くのだと思った。選びとらなければならない。自分で、自分を語らなければ。
 ずん、と視界が下がった。足の裏に地面がない。太ももまで埋まり、生臭いにおいに途端にえづきそうになる。
 峰田が気づいて、近づいてきた。私のひじのあたりをとって引き上げようとするが、自分も同様に足場が悪いため、大した効果はない。
「なんなんですかここは!」
 嬉々とした声に聞こえる。悲鳴にも聞こえる。「くせぇ!」
 智恵子! 智恵子! 正木の声が、カラスの声とミックスされたみたいに歪んでいく。
 私にはなにもない。なにもない私の名前を呼ぶくそったれ、手を引くくそったれ。ほとんどごみ同然の私たちが、まだかろうじて生きていることを告げるのは、この夜においてはざわざわと風にゆれる木々と、鼻腔にへばりつくにおい。なんて鈍感に生きてきたのだろう。 本当のことはマンホールみたいに蓋をされていて、いつも素知らぬ顔で通りすぎてしまう。知りたい。もっと知りたい。もっと知ったうえで死にたい。
 私はつかんだ。金属製のなにか。冷たくてぬらついている。それを頼りに全身に力を入れると、足がごみから抜け出た。銃声と水分を含んだ破裂音が同時だった。ざさざさざさと鳥が逃げていった。

 森をとにかく下った。人の通った跡なのか獣なのか分からないような道にも出くわしながら雑木林を走った。脛を植物の茎か枝がこするように切りつけた。鋭く痛み、いつまでも残った。峰田と一言も交わさず走り続け、明かりが漏れてくることに気づいた。森がそこで終わっていて、民家があった。私と峰田は目を合わせた。峰田の黄色い目が湿っていた。私は民家に駆け寄り、扉を叩いた。すみません、すみません! と叫んだ。謝っているつもりだった。誰に対してでもなかった。人が出てきた。老婆で、私を見るとひっ、と声をあげて口に手を当てた。あんた血が、と老婆は言った。後ろにいた峰田にも気づき、なんなのあんた達、と言った。
 
 ヤクザに殺されそうになって逃げたという話を信じたのか私たちが怖ろしかったのかわからないが老婆は私たちを部屋に上げた。とにかく汚いから入れと言われて風呂に入った。風呂はわずかにカビ臭かった。明り取りは光を受けて白く光っていた。シャワーを流すと黒っぽいお湯がタイルの上に流れた。ずきずきと痛むところからはまだ少し血が出ていた。
 通された畳敷きの部屋は死んだ夫のだと老婆は言った。ほとんどなにもない部屋だった。しばらく放心していると襖が開いて峰田が立っていた。峰田は無言で私の目の前に座った。私を曖昧に眺めた。手が伸びてきて私の髪を触った。ノンシリコンだって、と峰田が言った。ここのシャンプー、ノンシリコンのやつだった。峰田の息が私の息と混じりそうだった。毛穴という毛穴から汗が噴き出していた。峰田の目が充血して私の目も熱くなっていった。峰田の髪を触った。水分をたっぷり含んだ毛が指にじっとりと絡んだ。
 智恵子さん、愛してるよ。

 うるせえ、全員死ね。