いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

血が止まらない

 腕の、カッターで切ったところから血が止まらなくなってしまったのは、およそ一月前のことだ。あまり理由なく切ったのだが、それが神様の逆鱗に触れたのか、血が止まらなくなった。血が止まらないな、と思ったのは切って二時間くらい経ったときだろうか。あれ、なんか傷の大きさにたいして出血の量多くないか、ティッシュを一箱使い切ったぞみたいな感じで、夜中まで止まらなくて救急病院に行ったのだった。これは止まらないですね、と医師は言った。しばらく止まりません。しばらくって。わかりません、正直。そうして輸血され、大量のガーゼを渡されて、家に帰された。それからも血は止まらなかった。白いガーゼがじゅわっと赤く染まる。かき氷にシロップをかけたときみたいだといつも思う。しばらくの間仕事を休むことになった。なぜなら私の職場は学校で、止血をしながら挑むにはやや荷が重いのだった(かといって止血しながら勤まる仕事がこの世界にどれほどあるだろうか。Amazonの倉庫?)。
 血が止まらないので絶えず血を飲まなければいけなかった。え、飲むんですか、輸血ではなく? そうなのです最近は。血は誰のものかわからないが清潔なのだという。どういう理由でそれがここにあるのかは一切しらされないが、血は毎朝、まだ起きる前に届くのだった。私は朝、新聞とともにそれを取り、飲む。最初は鉄棒を舐めるような酸味、えぐ味が気になったが、体が欲しているからか、すぐにすうっと飲めるようになった。飲んだ端から出ていくので意味があるのか無いのか分からないけれども、取り込んですぐに出すこのスタイルは意外と健康的なんじゃないかという気もした。
 流血のことを恋人に話すと、恋人は気が動転したようだった。私のことをいつも気遣ってくれる優しさをそのときも見せた。私の脈を測り始めたので、大丈夫だということを伝えた。ただひたすら血が出るだけで、なんも悪いところはないんです、と話すと、血が止まらないってなによりも悪い気がする、と彼は言った。彼は前よりも頻繁に私の家に来るようになった。毎回ガーゼを大量に買ってくるので、私のクローゼットはガーゼでパンパンになっている。そこまでの量ではないのだ、と言っても彼には効かない。なにしろ、止まらないということが恐怖を感じさせるのかもしれなかった。
 あまり外出はしないようにしていたが、病院に行くときには外出せざるを得ない。雨の日の混んだバスに乗っていて、私の隣に立っていた男が妙に近いことに気づいた。体を密着させてくる、股間を擦り付けてくる。私は怖いと思いながら止血している最中のガーゼをべりっと剥がした。
「血が出てるんです!」
それで男の行為は止まった。男は次のバス停で降りたが、残された私は病院まで好奇の目に晒されなければならなかった。車内で不器用に巻きつけた新しいガーゼを医師に見せると、いつも真顔の医師が少し笑った。私はそこで少し泣いてしまった。誰も泣いたわけを聞くことはなかった。
 私思うんですけども、この血ってもしかしてもう一生止まらないのではないでしょうか。私がメイクをするときも買い物をしているときも、プロポーズを受けるときも結婚式のさなかも、妊娠したとしてその出産のときも。育児のどこかで娘(または息子)は気づくのでしょう。ママはどうして出血しているの? 答えられないということがなによりも苦痛なのですよ、答えがないということがなによりも。私の血はじわじわと皮膚の上を染めて、垂れて、カーペットに昨日黒い染みを見つけたんです。酸化した黒黒とした点。私はなにか悪いことをした気がする、そんなことは誰でもがしているのだと思うんですけども、私の場合は血が止まらないというこの現象に結実してしまっている、ただそれだけのことがどうにもできない。
 仕事には結局そのまま復帰した。ガーゼを厚く巻いて、30分毎に取り替える。そうしていればなんとかなるようだった。それだけのことなら休むことはなかったんじゃないの、と学年主任に言われた。そいつの顔をこの血でべったりにしてやりたかった。親切な最前列の生徒がいて、先生もう30分経つよ、と教えてくれるようになったのは本当に泣きそうなくらい嬉しかった。その教え子も教師になった。私は結婚した。あのときの彼とはちがう人とだ。妊娠はしていない。そんなに子供が欲しいとも思えなかった。
 ある日道で、肘の内側をハンカチで止血している女性とすれ違った。向こうからくる彼女は不安そうな表情、痛みもあるのだろう、早足でどこか、おそらくは病院に向かっているようだった。
「あの」私は声をかけた。「ガーゼ、よかったら」バッグのなかから取り出した。
「ありがとうございます」女性は何度も頭を下げて去っていった。私はまた歩きだした。膝が痛い方が気になっていた。時々は血が止まるようになっていた。