いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

虹をわすれること

大切なことなのにキスをしてる途中で思い出したから、すぐにつぶやいて脳に刻むことができなかった。接したままの唇が僕の動きに合わせて動いていた。お互いを食べようとしてるみたいだった。キスが終わって唇が離れたとき、僕は「さやかのことが好き」とようやく言った。さやかは目を丸くして「えっ急に?」と言った。「そんなのずっとそうじゃん」とさやかは続けた。僕はその言葉にとても驚いて、でもそうだったんだなと思った。「私もずっとそうだし」とさやかが目を逸らして言った。僕は彼女のシャツの襟元に鼻を近づけた。かすかに香水のような匂いがしたけど、洗剤かもしれなかった。僕らはそんな風に久しぶりに告白し合ったから全身がちょっとムズムズしたというように服を脱いだ。自分の服は自分で脱いだ。消しゴムのカバーを取ったみたいにお互いの肌が露出した部分よりも白い。季節はいつでもいいが夏だった。手をつなぎながらもう一度キスをする。

なんでだろう。忘れるってことがないから逆に見えにくくなっていて、近づきすぎた壁画は全然なんだかわからない。細部のことが全部につながっているというのは少し気味が悪いけれど、好きだというのはそういうことなんだと思う。虹をふたりで見たことがあって、虹はすごくくっきりとしていて三階建てのスーパーマーケットの屋上の辺りから生えていた。虹のほとんどを見るのは初めてだった気がした。わからないけど、多分そうだと興奮した。樹一は窓枠に両肘をついて身を乗り出していた。だから大きな窓だったと思う。そうか、大学の北館の階段の踊り場か。虹はつまり、空気中の水分が太陽光に照らされているということで、輝いてる虹がえらいのか、太陽光がえらいのか微妙なところだという話をした。話してるあいだ樹一が持ってるマックの袋からポテトの匂いがすごかった。ポテトは食べる前から食べてるような気分になる。誰もいない階段で、手の側面が触れていた。なんかさ、そういうときのことを覚えてるのは脳なのか? 細胞そのものなのか?

帰り道、ボウリング場のあかりが屋上のゴリラを照らしていた。下からのライトアップは怖いという話をした。さやかはサンダルで僕の足を二回踏んだ。歩くの遅いよ、と言うけど、そもそもなんで前後になって歩いているんだっけ。それで思い出す。僕はさやかのことがずっとずっと好きで、でも思い出せるのは現在より過去のことだから、一秒後のことすらよくわからない。それでまた僕は思い出すだろう。それでさやかがずっとそうじゃんって言ってくれるはずだ。はずなのか? こういう信頼をさやかはどう思っているのだろうか。ずっとってなんの保証もない。それは誰もがそうなのだ。みんなどうやってこの先を歩いているのか? 屋上のゴリラの後頭部は照らされていない。大きな黒い背中だ。バスロータリーには結構人がいた。暑いなぁとさやかが言う。僕はちょっと泣いていた。バレないように気をつけて手をにぎる。ずっとにぎってたはずなのに、いま確かににぎったのだ。

私たちの国

ひとりで食べたラーメンの丼を洗い終え、タオルで拭いた手をリビングテーブルの上の本へと伸ばした。白一色の装丁に黒く力強いフォントで『歴史は噓をつかない』と書かれたその本は、星哉が市立図書館で借りてきたもので、彼が読書感想文を書くための題材だ。どういう経緯でこの本を選んだのかわからない、適当に棚から抜き出しただけなのではないかと思う。『歴史は嘘をつかない』は日本の戦中・戦後史について書いた本だった。著者は五代命作。聞いたことのない名前だった。私立大学の教授であるという。私はスピンを挟んだページを開き、読み始めた。手元にチラシの裏紙を置き、メモ代わりに使う。キーワードとなりそうな言葉を書き取りながら読み進めていく。
 星哉から読書感想文の代筆を頼まれたのは一昨日の夕方だった。夏休みの終わりまで一週間を切っていた。どうしてもこの宿題だけができないのだという。たしかに星哉は以前から文章を書くのが苦手な方だということは把握していた。最初は断った。星哉の為にならないのは明白だった。それを揺るがしたのは帰宅した夫の意外なほど無頓着な言葉だった。
「べつにいいんじゃない? 読書感想文って文化が子供の読書ばなれを生んでる、なんて話もあるし。誰しも苦手なもののひとつやふたつさ……」
 翌朝、代筆を引き受けることにした。星哉はやった、と声をあげて喜び、朝食をとると自室にあがっていった。夏休みの大半を彼はその部屋で過ごしている。時々だれかと話す声が深夜まで聞こえてくる。
 読書をするのは久しぶりだった。最後に読んだ本が何であったかすら思い出せないほどだ。

「結構ぶあついんだねぇ」
 帰ってきた夫が向かいの席で夜食を食べながら言った。解凍したご飯に肉じゃがをぶっかけて食べている。お風呂からあがったばかりの夫の額には早くも新しい汗が滲んでいた。おもむろに視線を低くし、本の表紙の文字を読もうとする。
「歴史は嘘をつかない……ふん、どういう本なの?」
「うん、まぁ歴史の事実はじつはこうでしたっていう解説書、かな」
「五代……へぇ、R大の」
 夫は顔を茶碗に戻し、またかっかとご飯をかきこみ始めた。グレーのスウェットの襟がよれていて下から白い肌着がのぞいている。そろそろ買い替えが必要かもしれない。
「昔のことならトヨさんに聞いたら?」
 私は本の文字を見つめたまま黙っていた。文字が目の表面をすべるようにダブって見えた。最近長時間パソコンを使ったり活字を読むとかすみ目がある。あるいは乱視か。
「おばあちゃんからは散々聞いたから、べつに今更だよ」
「まあたしかに……そこまで綿密に取材することでもないか。作文の出来が良すぎてコンクールにでも出場になったらやばいもんね」
 そう言って夫は笑った。息子の文章ぎらいを私の遺伝だと言い張っていたわりには呑気な冗談だ。食事を終えると夫はそそくさと寝室へ入っていく。なんとなく面倒で、夫の茶碗を水につけるだけにして、口をすすぐため洗面台に向かった。

 トヨさんが住む老人ホーム『四季の花』は周囲を森林に囲まれて静かに佇んでおり、こざっぱりとした深いブルーの外観は中流層向けのマンションにも見える。広い玄関の透明な自動ドアの向こうにカウンターに遮られた女性の半身が見えた。玄関に入り日傘を閉じて会釈をすると、窓口の女性は明るく「こんにちは」と笑いかけた。受付用紙の記入を終えトヨさんの部屋へ向かう。『松賀トヨ様』と花で飾られた表札のかかった扉をノックすると「はい」と返事がある。扉を横に引くと、ベッドに腰かけたトヨさんが見えた。
「あら、真露(まつゆ)?」
 トヨさんが小さな目でにっこり笑い、サイドチェストの眼鏡を手に取った。それをかけながら、
「てっきり良子だと思ったわ。元気なの?」
 母の名前を口にする。眼鏡を通したトヨさんの目はぎょろっと大きく見えた。
「元気だよ。おばあちゃんは?」
「元気よ。食べ過ぎて太ってしもうて」
 そう言って自分の横腹をさわって笑うトヨさんは、しかしちっとも太っては見えない。三年前に脳梗塞で倒れたときに比べればむしろだいぶ痩せて見える。徳島の一人住まいからこちらのホームに移ったのが二年ほど前だ。本人は認知機能の衰えこそあれそれなりに元気そうなのだが、体型は痩せたまま変わることがない。慣れない場所での生活で気苦労もあるだろうと思う。ペットボトルのお茶を開けて飲むトヨさんの横顔、頬のあたりのくっきりした縦皺が、衛星写真で見る砂だらけの惑星の峡谷みたいに思えた。
「毎年この時期はな……あの年を思い出すわ」
 トヨさんが唸るように喋った。ここから始まる話がどのような内容なのか、私には充分わかっている。
「大して暑うない夏やったのに、いま思い出すとなんでか暑かったような気がしてしまう……」
 終戦の年のことを、トヨさんはよく語った。家族で夏休みに遊びに行くことが多かったから、その時期になるとなのか、年中話すのかはよく分からなかった。それは大抵畳敷きの居間で、外からは蝉の声がし、テレビはNHKで線香の香りがしていた。特に七月四日の大空襲の話をトヨさんはくり返し話した。その時間、子供であったトヨさんは当然寝ていて、なにか音がすると思った次の瞬間母親に叩き起こされたこと。なんで目を覚まさなかったのかと驚くほどすでに空襲警報のサイレンがひび割れた音で辺りを包んでいたこと。暗がりを大して暗いと思わなかったのが空襲の炎のせいなのか、記憶のなかで修正されたのか今でもわからないこと。走りながら踏んだ、おそらく誰かの腕の感触。その腕が生きていない人のものだとなぜか瞬時に分かったこと。焼夷弾が焼いた学校の前で会った同級生とはその後会えていないこと。記憶の中のトヨさんの話はいつも微妙に時系列が変わったり、話すトーンにも変化があったが、近年はむしろ語りが均一化されてきているように感じる。伝えることよりも語ることそのものが目的化されているからか? と、自分でぞっとするような言葉が浮かんだ。
 帰りの電車で本を読み終えた。最後の脚注まで目で追い、再び巻頭にもどった。二度目の読書をしながら頭のなかで原稿用紙を広げ、どう書き出すか思案していた。危うく降り過ごすところで最寄り駅に降り立った。辺りはすっかり暗く、だが蒸し蒸しとした空気は昼のままだった。

不機嫌そうな顔で星哉が階段を下りてきた。ゲームの途中だったのか、会話の途中だったのか、すでに夫のいるリビングテーブルに荒っぽく着席した。夫はちらっと星哉を見て、すぐにテレビに視線をもどす。私は大皿のから揚げに添えるレモンを切り、テーブルに運んだ。テレビを見ると七時台のニュースをやっていた。市内の景品交換所が窃盗団らしきグループに襲撃され、従業員が刺されて重体だという。アスファルトにガラスの破片が飛び散る現場にアナウンサーの声が重なる。犯人は捕まっていない。
「近いな」
夫が呟いた。私は炊飯器の蓋を開けた。特有の甘いにおいに胃が刺激され、唾が出てくる。
「多いね、最近。外国人の」
白米をよそいながら私は言った。三つの茶碗を持って食卓に並べ、自分も席につく。夫がいただきますと言い、それぞれが箸をもつ音がした。
「外国人?」
夫が白米を口に運びながらこちらを見た。
「窃盗団でしょ。アジアから来てるんだって」
夫が顔をしかめた。あわてて胸を叩く。ごほごほと咳をして私になにか訴えている。詰まらせたのだと思い、水を持ってくると夫はそれを急いで飲んだ。あぶねぇ、と言う夫の目は潤んでいた。星哉は無言で白米をかきこんでいる。そういう仕草は夫にそっくりに見える。
「で、どうなの作文は?」
 夫が訊いた。私はレタスとトマトのサラダを頬張り、何度か頷いてみせる。飲み込んでから笑って、
「やっぱり久しぶりすぎて難しい。書き出しとかぜんぜんわからないし」
「書き出しって懐かしいフレーズ」
「内容はもう大体決まってるのに」
 星哉はなにも言わず、一秒でも早く自室にもどりたいというように目の前の食事をガツガツと食べる。
「内容って?」
「日本の歴史のなかにはね、あきらかな間違いがまかり通ってることがたくさんあるの。で、それっていうのは教育システムのせいでもあって、だからこれからの教育システムについても視野に入れて……」
「はは、ちょっと大仰すぎない? あくまで星哉が書くものなんだから」
「もちろんレベルは落として書くけど」
 レベルを落とすという言い方が気に食わなかったのか、星哉が私を睨むように見てまた視線を茶碗にもどした。
 星哉が担任の教師に呼び出されたのは、始業式から一週間後のことだった。「読書感想文のことで」と、帰ってきた星哉はぶっきらぼうに言ってそのまま部屋に上がろうとする。
「怒られたの? ほめられたの?」
 台所にいた私が訊くとキッと目の力を強め「怒られたに決まってんだろ!」と怒鳴った。私の全身を電流のように貫くものがあった。
「こんなこと書くなって延々説教だよ。おれが書いたんじゃないのに。成績下がっても文句言わないでよね」
 そう言うと階段を荒々しく昇っていく。私はその背中を見つめ、料理の手を止めてしばらく放心した。ぐつぐつとお湯が煮えていた。火を止め、そのままパソコンに向かう。五代命作、で検索しブログに飛ぶ。「在日デモ参加者の正体」と題された最新の投稿を開き、頭から読む。「週末、永田町でまたデモに出くわした。見知った顔が何人もいる。というのも当然、彼らは共産党員だ。この手のデモに毎週のように参加している」ブログには参加者の画像が載っている。拡大された写真は粒子が粗く、モザイクが顔の形を複雑に乱していた。「それにしても参加者の平均年齢が異常に高い。毒々しい色使いのプラカードを持ったジジババがウォーキングみたいな恰好で声を張り上げ、それを歩道の若者たちが眉をひそめて見ている……。まことに残念だがこの分断は彼らが望んで生んだものだ。日教組による極端な左翼教育、ネクラな自虐史観、特亜擁護等々。さもありなん、である」私たちが目指すべきはこの国を愛する若者を育てること。歴史を誇りに、伝統を守り、もう一度強い国を造ること。「はっきり言って彼らのしていることは実家に金の無心をするようなものだ。『人権』とやらを盾に、国の脛をかじろうとする。となればさっさと『家』から追い出すほかない。」記事にコメントをしようとするが、なにも浮かばず評価ボタンを押すだけにした。胸の辺りがなんだか熱っぽかった。キーボードの上に置いたままの指がわずかに震えている。

「あら、真露。久しぶり」
 トヨさんは私がこの間来たばかりなのを忘れているようだった。私はぎこちなく微笑み、
「元気?」と尋ねた。
 トヨさんは頷いて、なにか話したそうに口を開けた。言葉が出てこないのか窓の方に視線をやってその口を閉じた。
「ねぇおばあちゃん」トヨさんが私の方をゆっくりと見る。
「空襲の時のこと、夢に見たりはしない?」
 私の言葉にトヨさんが表情を少し硬くしたが、一瞬のことだった。老人と思えない機敏さだ。それから大仰に顔をしかめ、
「見るねぇ。なにしろあの光景は焼きついて死ぬまで離れないよ」
 と言った。さっきまでよりしゃがれた声は昔、私や従妹たちを前に怖い話をするときと同じようだった。窓の向こうの小規模な竹林が風にあおられて音もなくしなるのを見た。話すあいだ、トヨさんの目は瞬きで休みながらどこか一点を見つめていた。普段よりなめらかに回る舌が入れ歯の奥にちらっと覗いた。私は腹の奥がすうっと冷えていくのを感じていた。
「そうして私たちはなんとか眉山に登ったよ……」
「頂上にはたくさんの人がいて」私の口から自然と言葉が出た。トヨさんが目を見張って私を見た。盗人を見る目だった。
「炎につつまれた街の方を見てた。大人たちはほとんど声も発せないみたいだった。私は木にもたれかかって寝間着姿の大人たちの背中を見てたんだ」
 これが自分の声か、と思うほどしゃがれていた。言葉が体感を伴わず、ただ音だけの存在として耳をくすぐる。ぼやーっと浮かぶのはその日そこにいた人々の平面的なシルエットだ。個人が区別されない悲劇の総体。
「私はね、心の中で拝んだ。『ごめんなさい、ごめんなさい』って謝ったよ。なにか自分が重大なことをしてしまったからこうなった気がして」
 私は言葉を止めた。どこからかピアノの音と手拍子が聴こえる。トヨさんはじっと私を見ていた。
「なにを笑ってるんだ」トヨさんが言った。
「笑ってないよ、おばあちゃん」私は首を振った。「笑うもんですか」私は椅子から立ち上がり、小さく伸びをした。新鮮な空気が肺に溜まり、吐く息で目の辺りがムズムズとした。「身を挺した人たちに感謝しないと」トヨさんは黙っていた。部屋を出るときになって「良子」とトヨさんが母の名前を呼んだ。私は振り向かず、後ろ手に扉を閉めた。
 玄関の窓口には今日も女性が座っていた。私が日傘を取ると「お気をつけて」とほほ笑んだ。自動ドアが開き、熱気が体にまとわりつく。トヨさんが再び倒れたのは、それからひと月と経たないある晩だった。


                                    

目をつむれば

 アキネーターが私やあなたのことを当てるより前に逃げださない? どこに、ってどこでもいいよ。ぜんぜん知らないとこならなおいいけどね。海とかは普通にいこう。とんびだウミネコだって空をかき回している輩に名前のない海にさ。コンビニで買ったソフトクリームが手のひらの温度でくにゃっとしなび、泡立った波頭の白さが似てくる海にさ。

記憶をもって旅にでた私たちってとてもきれいだ。だれも脅かさない、だれも踏みにじらない、そういうものとしての覚悟がにじみでているんだ。そんなことは無理だというやつは干物にしてしまえ。干物のうえでカラカラ回る吹き流しで切り刻め。本当はぜんぶ自分のため。っていう俯瞰はだれへの目配せか?

傷口は殺菌するよりも洗って風にさらすほうがいいのだといつ知ったよ? 私はおすすめにでてきた。雲が低く垂れこめている。二本の腕がつながっているみたいなシルエットで。温かいね、すべすべとしている、と指の肌をよわくこするとあなたが翻ったレースのカーテンみたいに笑う。泣き叫んで変えられた世界はいつの間にかしぶとくなったね。そのぶんだけ私たちの背も伸びたけど内面はぬいぐるみのころのままだよな。ガソリンスタンドの間隔がだんだん長くなる道をいこう。暗いものはさっきトランクにしまった。

 昼のつづきが夜だってこと知ったよ。ずっと起きてたからね。だれも起きかたを教えてくれなかったけどあなたとしたトランプのルールだけはたぶんだれかに教わったものだよね。あなたにかけた毛布のはじっこをにぎっていた。埃のにおいはどこか甘かった。光る気配のない電灯、カーテンレールの蜘蛛の巣。目をつむればすぐつぎの旅だ。

 私たちはおそらくいつまでも呼ばれないだろう。巨大な待合室は白い壁紙にチューリッピの凹凸。とっくに帰った産婦人科医。警備員のライトは猟犬の目。私たちは手をにぎっていつまでも呼ばれないだろう。呼ばれることに特化した彼ら彼女らはするどい凹凸。さげすむのでもなくむしろ応援されるのだろう。その背中を押す手が、歩みを加速させる手がなにか殺そうとも。

 山か谷かどっちも見たいが正解だと緑の畝が言っている。雲のかたちに黒ずんだ森。たえず動いて水分をふくんだ空気は分岐する。カーブの先に中華そばの赤い看板があるね、あるよ、あった、もうない。

 あなたになりたい私と私になりたいあなたはくっつきあっているのだけども背中のこわばったふたつの肉体はおなじように弧をえがき、おなじように穴をもち、ひとつになれない、今日にかぎらず、永遠は証明できなくともたぶんずっとそうだろうと思う。ただおなじ記憶をもつことが私とあなたを唯一むすぶ。笑った泣いた怒ったとかが。えぐいきついエモいとかがずっと。

 日暮れの田んぼにでっかい電柱が刺さっているのを撮った。泣いているとあなたの両手が花びらを持ってくる。ひらいて、風に舞うひとひらずつに光は吸いこまれていく。どこでだってねむれる。目をつむればすぐつぎの旅だ。

終わらない

 なにもかもめんどくさくなって人生というものが物質なら放り投げて捨てたい、という多感な時期を乗り越え、なんとか三十になった。『ハッピーバースデイ』とスタンプを送ってくれる友人が複数いることを私はもう少し幸せに思った方がいいな、と考えながらタピオカミルクティーを飲む。今日も仕事はくそで、それは上司との人間関係から来るくそなのでまるきりファックだった。

『えっまたやりあったのー、楓もやるねー』

あーまた私は友人に仕事の愚痴を言ってしまった。そんなつもりはないのだけれど、いまの私を構築しているものがほとんど呪詛なんだろう。口を開けば口臭のようにそれが垂れ流される。『まーでもなんとか。』と打ってみる。まぁ嘘ではない、生きてるし。『最近気づいたことなんだけど人ってなかなか死なないよね。病気とかで死んじゃう人はいるけど、人に殺される人ってあんまりいないじゃん。統計見ると殺人事件の件数ってどんどん減ってるんだよね。なんか昔は「ちゃんとしてないと殺される」みたいな謎の強迫観念にとらわれてたけどさ』『そんなんないわ!笑』『自分だけ?? まぁでもあの頃の自分狂ってたからたぶん、仕方ないね』

私は学生の頃の自分を振り返って苦笑する。あの頃欲しがってたものは堀田先生の遺伝子だった。『堀田! 懐かしすぎるんだが笑』『いまはもう誰の遺伝子でもよくなったけど』と打つと「お前はビッチ」としかめ面の猫が言ってるスタンプ。いやいや、ビッチさで言ったらね、当時の私の方がよっぽどですよ。堀田先生の遺伝子、つまりは精子を、なんとか手に入れられないか本気で考えてた。穴があったら入れていただきたかった。

 堀田先生は若いだけでべつにイケメンではなかったから、女子から人気があるわけでもなかった。けれど私は堀田先生の声が最高に好きだった。ちょっとつぶれて掠れた感じの発音がすごくいい。虫の羽音みたいで。

 あー早く受精したい、という口癖はいまでも繋がりのある二人の友達しか知らない。私は周囲的にはそういうことを言わない普通の女の子だった。ここで言う普通とは両手両足をもがれてマウンティングされている状態のことだ。普通っていうレッテルが暴力だなんてこと、改めて議論する余地はないね。

 私は堀田先生の陰毛から遺伝子を取り出すことができないかと本気で考えて、顕微鏡で見てみたことがある。それは堀田先生の教卓の下から出てきた薄くウェーブのかかったちぢれ毛だった。陰毛だ陰毛だ! と私は興奮して友達と理科の授業中こっそりと顕微鏡を使ったのだ。ただの毛じゃん。という結論に至るまで数分。私たちはくっくっ、と声を殺して授業中ずっと笑った。笑っても笑ってもあの頃は笑いはいくらでも込み上げてきたよな。いまはなんか笑うと在庫が減ってくのが分かるよね。なんの在庫か分かんないけど。

 堀田先生にとって私っていうのはなんだったんだろう。ただの生徒だよ、ってそんなこと知ってるけど、ちゃんとただの生徒として映っていただろうか。私は堀田先生の前では普通であろうとした。普通さのなかにしか先生の前に投げ出せる私はいなくて、特異な存在になろうとすれば途端に化けの皮は剥がれてしまう。私はなんてったって薄っぺらい。いつも普通にそこそこの成績で、そこそこ校則守って、そこそこ愛想もよくて、一番層の厚い普通のフィールドで誰かを隠れ蓑にしてドッジボールの球を避けてた。ゲームでいえば一生オフラインで「俺TUEEEE!!」をしていたいタイプだった。

 ふと考える、私三十になりましたよってふらっと先生の前に現れること。先生っていまでも先生やってるんだろうか。ダメだな、たぶん酔ってる。でも「堀田裕行」で検索してしまう。フェイスブックがいくつも引っかかるけど顔写真は無くて確定はできない。確定できたところでどうするの? 本当に会いに行くの? いまはもう好きなわけでもなんでもないのに。あの頃私はたしかにあなたの遺伝子が欲しかったです、って言いにいくの?

 バカじゃないの?

 高校の同窓会のグループLINEのなかに先生のアカウント「HIROYUKI」を発見したのはその夜二時のことだった。私はさんざん逡巡してアカウントを追加、した。してしまった。そのまま四時まで寝れなくて、一瞬意識が飛んだと思ったらアラームが鳴った。

 

「だからクライアントの要望ばっかりへいこらして聞いてたら仕事になんないんですよこっちは!」

「頭下げるのも仕事のうちだろうが! いつから仕事えらぶほど偉くなったんだお前は!」

「バカですねぇ、そうやって相手の言いなりで摩耗してどこかで必ずミスが起きる、エラーが出るんですよ、四十五十のおじさんが自分が思ってるより走れないくせに急に走り出して靭帯とかやるんですよ。そうやって転んで入院ってなったとき、医療費出せるような体力の会社ですか、うちが?」

「そうやって人の年齢をバカにしてるやつはいずれ同じ穴に落ちるのわかってんのか?」

「わかってますよ。三十なんでこっちも」

「三十かよ」

「三十ですよ、なんか課長に不都合ありますか?」

「あっても言わねぇよ、どうせ叩かれるのはオトコだからな」

 

 『堀田先生、ご無沙汰しております。大川楓です。と言っても先生は覚えていらっしゃらないと思うんですが……2008年に新田高校で先生が担任されてたクラスに在籍してました。ふと先生のお名前をグループLINEで見つけてメッセージしてしまいました。お元気でしょうか。もしわからなければお返事いただかなくても結構です』

 私はバカになることにした。自己批判の声に耳をふさぐことにした。もうすでに途絶えてる人間関係なのだから、これ以上失うものはないはずだった。そう決めてしまえば結構簡単にメッセージを送ることができた。そうして週末まで仕事をしてたら金曜の夜に返信が来た。

『もちろん覚えてますよ! たしか卒アルにメッセージ書いた気がします! 大川さんこそ元気ですか?』

 

 私の卒アル。そこにはたくさんの色で書かれた言葉がある。ぐっと真面目なもの、おちゃらけたもの、どちらも平等に時間の経過を経て錆びている。あの日私たちは何者だったか、の答えなんてそこにはないんだよな。先生のメッセージは中央やや右下にあった。「賢者でなくてもいい。すべてを知ることはできない。知らぬことへの怖れを捨てずにいてください」先生は私のことべつになにも知らない。どういう気持ちでこれを書いたか分からない。私は梅酒をちびちびと飲みながらしばらくそれを眺めていた。そうするうちに自分がなにをしたかったのか分からなくなってきて、マングースが狂暴化して人を襲う映画を観て寝た。

 

 返ってきたLINEに返信することもなく時間が過ぎた。会社を辞めることにしたのは先生の件とは関係なくて、あれだけ喧嘩してた上司がある日コクって来たからだ。気持ち悪かった。そうすることでいままでの喧嘩がぜんぶなにかのプレイだったみたいにされるのが心底許せなかった。会社のコンプライアンス委員会にぜんぶ暴露したうえで退職した。退職の翌日友達がパーティーを開いてくれて一緒に酒を飲んだ。友達たちは私のことをうらやましがり、私も仕事辞めたい、と口々に言った。私は、ほんとは不安だったけど、そのことは言わなかった。言わなくても友達はみんな察していただろうし、そんなことより一秒でも多くバカな話をしていたかった。そうやってお互いの時間をくだらないことで埋めていかないと勝手に変な意味が入りこんじゃうことがあるから。いつか振り返って「あの頃は楽しかったよね」なんて浸りたくないから。文脈のない世界。点と点が点のままのすばらしい世界。

 

 朝焼けを見た。起きてるのは私だけだった。ベランダから東の横に長いマンションを覆うように空がグラデーションの赤だった。こういうのって雨になるんだっけ。分からないけど写真を撮った。シャッター音でほかの子が起きないように気をつけて。パーティーの終わりが朝焼けとかかなりリリシズム。私の人生がまだ終わらないことへの祝福として。先生にLINEをした。『今度同窓会やったら来てくれますか?』って。

退屈な日々にさようならを

 希望を燃やす。希望は半紙なのでよく燃える。墨のにおいがする。希望は書道の授業で書かれた希望なので、墨のにおいがする.

どうにかしようと始めた狼煙も今日で三日になる。どこかで誰かが見てやしないかと、私たちの白煙は一斗缶からくねくねと身をよじって青い空をのぼってゆく。のぼっていって、空気に溶けていくのだけれど、暴力的なまでの青のまま。なんか余計に絶望する。

 そんなことを思っていたら、手に棒のようなものを握っている鹿嶋が戻ってくる。

「なに燃してんの」

「習字のやつ」

 私は校舎の方を指さす。一年生の廊下に貼りだされてあったやつを、全部集めてきたのだ。

「いやいや、そんなの燃しても意味ないじゃん。木だよ木」

 しゃがんでいる私の頬に、立っている鹿嶋の唾がかかった。きたな。

 鹿嶋が手に持っているのはフランスパンだった。微かだけど、焼けた小麦のにおいがしている。

「給食室にあった」

 鹿嶋は言って、はしっこをちぎる。

「それ、私にくれようとしてる?」

「うん」

「いま、いい」

 私は立ち上がってスカートの裾をぱたぱたとやり、長い木の棒を鹿嶋の空いてる方の手に押しつける。

「交代して」

「トイレ?」鹿嶋が訊く。

「うるせー」

 私は校舎の方に歩く。

「うんこ?」

「ぶっとばすよ」

 

 昇降口を入ると、目が暗さに慣れなくて視界が悪くなった。しんとしている。それはもう当たり前の光景なんだけど、学校というものの喧騒を知っているから、慣れない。鼓膜の奥で勝手に鳴っている音がある。上履きが床にこすれる音とか、手を叩いて笑う女の子たちの声とか、階下で椅子が一斉に動く音とか。普段気になんかしてなかったはずの音が、しっかりと残っている。

 といって、ここは私の母校ではない。中学校なら給食室があるから、と鹿嶋が提案して、鹿嶋の母校に来たのだ。たしかに給食の食材があったのだから、鹿嶋には感謝しなくてはならない。

 静まり返った校舎内に私の足音だけが響いている。なにか歌を唄おうと思ったけれど、特に思いつかなかった。階段をのぼる。

 

 街から人が消えたとき、私と鹿嶋は警察署にいた。私たちが通う高校を管轄とする警察署で、いつもありがとうございますと花束とメッセージカードを持っていかなければならなかったのだ。応接室で私たちは黒い革張りのソファに座って、署長さんだか副署長さんだかを待っていた。私は、なんでこんなとこに鹿嶋と二人いるのだろうと、いまさら考えても仕方ないことを考えていた。それは私と鹿嶋が学級委員だからで、なぜ学級委員かというと友達がいないからだ。私たちはいわゆる「ミソっかす」同士だったのだ。

 不意にドアの向こうから人々の気配と物音が消えた。私たちは顔を見合せ、鹿嶋が扉を開けた。フロアには誰ひとりいなくなっていて、エアコンの音だけが静かに続いていた。警察署から外に出ても同じことだった。道路には無人の車やベビーカーや配られていたティッシュは残っていても、生き物はいなかった。

 私と鹿嶋以外の人間はどこかに消えてしまったのだ。

 

 四階をすぎて屋上の扉の前にたどり着いた。窓のついた扉にはカギがかかっている。私はポケットに入っていたスパナを窓に叩きつけた。がしゃんと音がして曇りガラスがなくなると、とたんに風が吹き込んでくる。秋風は少し肌寒い。慎重に手を伸ばして、屋上側のドアノブを探った。カチッとつまみを回すとドアが開いた。

 扉が風に押されて重たい。一気に開けて屋上に出た。

 屋上は風がびゅうびゅう鳴っている。校庭にいたときはそんなに感じなかったのに、遮るものがないだけでこんなにちがうか、と思う。空の青も暴力的だけど、風というのも同じだ。耳元で私を威嚇するみたいに唸っている。自然ってこわい、私は自然よりも人工が好きだ。スケールのでかいものは苦手だ。

 屋上のふちは二メートルくらいの白い柵でおおわれている。私はその柵に近寄って両手で握った。じーんとくるぐらい冷たかった。

「おー海」

 思わず声が出た。丘の上にあるこの中学校からなだらかに下っていく町並みの向こうに、コンクリート色の港が見える。コンテナを積んだタンカーかなにかが、埠頭に停泊している。水平線がくっきりと見えている。私は家族で行った夏の海を思い出していた。妹が中学生のくせに、なのか中学生だからなのか、暇なくせに行きたがらず、両親と三人で行ったのだ。お父さんもお母さんも行きの車のなかでは妹の愚痴(妹は学校の成績がすごく悪い)を言ったりして重たい雰囲気だったけれど、山がひらけて濃紺の海が見えた途端にわーすごい、となってムードが変わった。海は偉大だ、と私は思った。人工が好きなくせに、海は許してしまう。

 海岸はめちゃくちゃ混んでいたけれど、ほとんどの人が砂浜にいて、海に入ってしまうと窮屈さは感じなかった。海より砂浜の方がはるかに人口密度が高いのだ。みんななんの為に海に来てるのだろうと思った。父と母が代わりばんこに砂浜に残り、私はほとんどの時間(焼きそばを食べたとき以外)を海のなかですごした。父も母も楽しそうだった。私は海水は目が痛いので泳ぐことはせずに、浮き輪に入ってぷかぷかと浮かんでいた。なんかこういう風に、クラゲみたいに生きてたい、と呟いたのを母が聞いていて「なにおばあちゃんみたいなこと言ってんの」と笑われた。帰りに水族館のお土産コーナーに寄って、クラゲのキーホルダーを妹のお土産にした。家に帰って妹に渡すと「きもっ」と言われ、みんなで笑った。

 

 いつの間にか涙が出ていた。そりゃまあ、涙くらい出ますわな、とおどけて言ってみるものの、所詮ひとりなので恥ずかしいだけだった。

 一日目の夜、私と鹿嶋はもしかしたら家族がいるかもしれないと思い、それぞれの自宅に戻ってみた。電車もバスも動いていないから、一時間半くらい歩いた。その間、誰にも会わず、自宅にも家族の姿はなかった。いつもこの時間なら妹と母はいて、夕飯を食べているはずだった。冷蔵庫をあけると(二日目の途中まで電気は使えていた)、週末に母が作り置きしていたハンバーグが入っていて、私はそれを冷たいまま、泣きながら食べた。

 もぬけの殻になった我が家が網膜にはりついて消えない。そこはまだ全然綺麗なはずなのに、骨が透けて見えるみたいに、脆弱なあばら家同然だった。

 反対側の柵に近寄った。校庭の真ん中に鹿嶋がいた。おい、と聞こえない声で呟いた。鹿嶋はこっちを見なかった。

 

 月明かりが体育館の二階の窓から白く差し込んでいる。ステージ裏にあった毛布と体操マットで作ったベッドの上に座っていると、鹿嶋が入ってきた。

 火を消した、と言って鹿嶋は私から数メートル離れて座った。

「また明日つけるの?」

「んーどうかね。ここいても駄目そうだしなぁ」

 ぼんやりとした口調で言う。その表情はなんとなく大人っぽい。

 学校での鹿嶋は、いつもいじられ役だった。いじられてるのかいじめられてるのか、正直よく分からなかった。あまり人が寄りつかない私とはちがって彼の周りには人がいたけれど、羨ましいとは思えずなんとなく休み時間の教室で転がされたり頭を叩かれている彼を見ていた。鹿嶋の言動はどこか空気を読まないところがあったり、変な行動をして人を笑わそうとしても本人の意図とは別なところで笑われたりしているようだった。

 そういう鹿嶋を見てきたから、いまの彼はなんだか別人を見てるみたいにも思える。どっちが本来の彼なのか分からない。

「全国まわるっていうのも考えた」

「日本一周?」

「海の向こうにはいけないからな。日本のどこかには俺たちみたいな生き残りがいるかもしれない」

 生き残りという言葉が胸に刺さって私は黙った。それはつまり、私たち以外の人間の死を意味している。家族の死を意味している。

「いや、消えた人たちが死んだってわけじゃないけど」

 表情で察したのか、優しいことを言う。でも、同じなのだ。見えないということは、触れられないということは死んだのと同じことなのだ。

「さびしいね」

 私は思わず口に出してしまった。鹿嶋の前でこんなことを言うのは初めてだった。鹿嶋は口を尖らせて、言葉を探しているようだった。

「俺はあれだな。さびしいっていうか、なんか叫び出したくなる。これあれかな。発狂しそうなのかな」

 彼は無理矢理笑ったけれど、全然笑える状況じゃない。

「発狂されたら私が困る」

「たしかに。ていうかさぁ、俺思ってることあって」

「なに?」

「水野、俺のこと殺せる?」

 突然の問いに私は耳を疑った。は?と言った。

「いや、極論ていうか最終的に?そういうことできるかってこと」

 想像もできなかった。

「なんで?」

「うん?いやそれは……」鹿嶋が口ごもる。しばらく間が空いて、再び彼が口をひらいた。

ゾンビ映画であるじゃん。ゾンビになる前に殺して、みたいなの」

「ゾンビにはならないじゃん」

「ゾンビにはならない俺は。ならないけど、その、バケモノというか。つまり、人間の本能ってあるだろ。それってバケモノみたいだって俺は思ってて。だって理性で制御できない力って、それもうやばいじゃん」

 鹿嶋が頭を掻く。私はうなずきもせず先を促す。

「たとえばナチスがやったユダヤ人虐殺とか、色んな暴動とか、戦争での犯罪行為とか。そういうのってなんで起こるかって、人間は集団になることでひとりひとりの理性のブレーキが外れてしまうことがあるんだと思うのよ。個々の人間がコントロールできない大きな力に動かされてやっちゃうっていう感じなんじゃないかな。そういうの考えるとさ、人間って全然理性的で優秀な生物なんかじゃなくて、ただ少し頭の発達した動物にすぎないんだよな。だから、だからさ。俺が水野を、襲ったりしたら」

 鹿嶋の言いたいことがようやく分かった。

「いや、絶対そんなことならないように俺はする。するけど、それは理性を保ってる俺が言ってることであって、どうなるか分からないっちゃ分からないからね」

「殺すよ」

 私は言った。鹿嶋の動きが止まった。私を見ている少しつり上がった彼の目に、光が見えた。

「ちゃんと殺す」

「……そっか」

 鹿嶋がうつむいて、黙った。私は急に笑いが込み上げてきたけれど、笑わずに堪えた。

「じゃあ寝よう」と鹿嶋が立ち上がった。どこで寝るのと聞くと体育倉庫と返ってくる。

「俺が出れないように封鎖しといてもいいよ」

「そんなに本能出そうなの?」

 鹿嶋が笑った。笑ってもいいのか、と思えた。おやすみ、と倉庫の扉が閉まった。

 私も横になったけれど、しばらく眠れなかった。なにも音のしない世界で、自分の呼吸だけが聞こえていた。鹿嶋のことが少し怖くなったのは確かだったけれど、それ以上になにか信頼できるような気がした。信頼するしか生きていく手段はないのじゃないか。結局はどこかで、自分でどうにもできない領域に身を投げ出さなくてはならないのだと思った。

 

 四日目の朝になって、私たちは学校を出た。とりあえず人の多い東京の方に向かうことにした。相変わらず、風のほかにはなんの音もしない世界が続いていた。天気は少し曇っていたけれど、雨が降るほどではなさそうだった。国道らしき太い道路を何時間も歩いて、休憩してまた歩いた。東京の地下鉄の表示を見て、ああ東京だ、と感慨深くなった。数少ない友だちと浅草に遊びに行ったときのことを思い出して鹿嶋にも話した。

浅草寺の線香だけもくもく燃えてたりしてな」鹿嶋が言った。ポケットに手を突っ込んでいた彼が、あ、と声を上げて指差した先に東京タワーがあった。

「俺、東京タワーってのぼったことないんだよね」

 鹿嶋がつぶやいた。

「じゃあのぼろうか」私はほとんど無意識にそう返答した。鹿嶋は少し驚いたようだったけど、高いところから見るってのはあるよな、と言った。

 

 タワーの外階段は果てしない長さに感じられた。風が、学校の屋上の比ではないくらいつよく吹きつけてきた。寒さで指先がかじかむ。手袋してくればよかった、と言ったけれど、風のせいで鹿嶋には聞こえていないようだった。鹿嶋は後ろを振り返ることもなく、ときどき目を外に向けて、黙々とのぼっている。私も街を見る。四角い建物が不規則に並んでいる。道路が血管みたいに塊と塊をつないでいる、動かない車の列が見える。意外と多い緑が目につく。あそこにもあそこにも誰もいないのだろうか。本当に誰もいないのだろうか。

 息が切れてきた。手すりを持ちながら、ゆっくりとのぼる。頭がぼうっとしてきて、自分の呼吸を整えること、足を前に出すこと以外は考えられなくなっていた。からだが徐々に重くなっていく。視界は目の前の階段ばかりになる。

 鹿嶋が立ち止まってこちらを見た。鹿嶋の前には扉があった。着いたのだ。

 

 室内に入ると、風にさらされた皮膚の冷たさを余計に感じた。私は大きな窓の前のイスに腰掛けた。ギッと音が鳴って、なんだかそれだけで嬉しい。

 鹿嶋は私の後ろで立っていた。息づかいが荒くなっているのが分かる。なにも言わない。しばらくすると私を通り越し、ゆっくりと窓に近づいていく。

 呼吸を整えながらその後ろ姿を見ていた。やっぱりなにも喋らない。

 私はからだの機能が戻ってくるのと引き換えに、心の芯がだんだん冷えていっているような気がした。なんだろう、この感覚は。なにかおかしい。

「誰もいない」

 鹿嶋が言った。彼は窓に手を置いた。

「海が見える」

 私は気づいた。彼もまた、いまなにかの渦のなかにいる。

「大津波がくるとかなら分かるけど。なんだよこれ。二人だけって。消えるってなんだよ」

「鹿嶋」

「分かってる。なんだよって聞いたって答えは返ってこない」

 鹿嶋が横を向く。唇がかすかにふるえている。

「水野」

「ん?」

「こうなったのは俺のせいかもしれないんだ」

 鹿嶋が私を見る。

「俺な、みんな消えたらいいのにって思ってたんだ。なにもかもやかましいから消えてしまえばいいのにって。教室ではしゃいでる奴らも。先生も。親も。すれ違う人たちも全部。そうやって思ってた」

 鹿嶋がしゃがみこんだ。

「警察署で、音が消えて人が消えたとき、だから俺はちょっと喜んでたんだよ。こんな状況で、ちょっとはしゃいでた。でもそんなのは最初だけなんだ。これからずっとずっと変化のない景色が続いて、誰もいない毎日が続いて、俺たちは狂ってく」

 私は顔が熱くなるのを感じた。視界がゆっくり滲みはじめてしまう。鹿嶋の輪郭がぼやける。

「自分ひとりでは自分のことすら保てないんだ俺たちは。誰かとぶつかって反射したものを視覚として認識するのと同じに、俺たち自身もなにかとぶつからないと、反射しないと自分だってことが分からない。ひとりでは生きていくことすらできない」

「二人いるよ」

「二人しかいない。二人だから余計に駄目なんだ。水野、俺はお前のことをレイプするかもしれない。いまここで、急にそうやってしようと思えばできてしまう。裏切ろうと思えばできてしまう。そのことが堪らないんだよ。昨日だって思ってた。もしかしたらお前は嫌がらないでやらせてくれるんじゃないかって、そう思ったらぐるぐるとその考えが頭のなかをまわって。信じられないだろ? 馬鹿だと思うよな。ほんの一瞬の快感のために、一生分の裏切りをすることが、俺にはできるんだよ。昔からそうだった。目の前にいる友だちの喉元を食いちぎってやることとか、持っている鉛筆で後頭部を刺してやることとか、親を殺したらどうなるかとか考えたことがある。何度も何度も、頭のなかでその映像がリピートされるんだよ。そう思ったら俺、とっくの昔に頭おかしくなってたのかもな」

 鹿嶋は床を叩いた。音は全然ひびかなくて、どすどすと冷たい素材に吸収されていくばかりだった。

 私は窓の外を見る。曇り空はほとんど真っ白になっている。白く塗った壁がすべてを覆ってしまったようだった。

「あっ」

 私は声を出した。なにかが動いた。黒い影のようなものが視界をよぎった。

「鳥」つぶやいた。私は窓に駆け寄って、顔を張りつける。

 鳥が飛んでいる。よろよろと風に吹かれて、いまにも墜落しそうな頼りなさで、ほとんど溺れているような雰囲気で、空を泳いでいる。鹿嶋はまだ見つけられないというように視線をさまよわせている。

 現実だろうか、幻覚だろうか。どちらでもいい。生き残ったのか取り残されたのか。どちらでもいい。見えないものがないのと同じであるように、見えるものは存在するのと同じことなのだ。窓に添えた手が、外気の冷たさを感じている。

 私は鳥を見つめる。

 その向こうで、いま雲が割れてつよい光が現れた。

燃えるごみのパレード

  まったく、くそったれしかいないと思う。いまこの場にくそったれしかいない。ぼすぼすぼすと袋を踏みながら進む、進んでいるのか沈んでいるのか本当のところはわからないが、不法投棄されたごみの上を走るこの真夜中の山のなかで。
 智恵子オオオオ! と正木の声が追いかけてくる。その声は血がにじんだように掠れている。実際のところ正木の頭部からは真っ赤な血が流れている、さっき峰田がレンチで殴ったところから、どろどろと。
 臭い。なにかこれは、ガスが、なんらかのガスが発生している感じのにおいだ。踏んでいるのは固体も液体もおそらくは混じって、ぶよぶよと腐敗して融解して、この世のものでここより汚れた場所は想像がつかない。吐き気はしかし、徒労に近い動作による荒い呼吸に圧されて感じる暇もない。数メートルの距離にいる峰田が、大丈夫ですか! と声を出す。大丈夫なわけあるか! お前と関わったがために私はいまこうして息を切らし、汗を流し、ごみに埋もれているのだ、お前が、お前が目の前に財布をぶらぶらと、不相応にも高級そうな財布をぶらさげて歩いていたから私はそれを奪おうとし、奪えず、逃げようとするとお前が喫茶店に誘い、私は従った。私はあのときお前を殴ってでも財布を奪って逃げていればよかったのだ、金を欲しがる理由が正木にあるなどとお前に話さなければ。
 一緒に正木を殺そう、などとお前が言わなければ。
 ずぶ、とまた足が埋まる。濡れていた。なんの液体か。獣の死骸のその体液であってもおかしくはない。なにせここはごみ溜めだ。ごみは無意識の悪意の集合体。死ね死ね死ねと垂れ流された残骸のなかで、生きたい生きたいと足を前に運ぶ自分の憐れさよ。生きたいのか、私は? おそらく死なんて一瞬のしびれのようなもので、あとは永久に無があるだけなのに、それをおそれている。どうして? だいたい、これから先どうする? この場を逃げきって、峰田とふたり、逃げつづける? この冴えないシリコン入りシャンプーをノンシリコンと偽って売る詐欺師と。体臭のうすいことだけが取り柄のような男と。
 泥水をすするような人生を、それでも終止符を打たずにやりつづけようとするその動機はどこにある?
 小さな破裂音がふたつ。銃だ、銃を持っている。正木が、殺すぞくそがぁぁぁぁと叫んで狙っている。私はついには銃に狙われる人生になってしまったかと、半分壊死したように冷えている頭で思った。東京に出てきた日の、千住のアパートの脇に座っていた浮浪者の顔がなぜかいま鮮明に思い出されるような気がした。それがいまつくられたのか、本当に過去のことなのか誰にもわからないだろう。交差してすらいない誰かは、私の人生と関わりないという一点に支えられて存在している。知らないことがたくさんあった。いまも数かぎりなくあり、知ることはできない。知らないものが、それでも存在しているということが私を形づくっている。
 私の内側には私すらいない。それは常々そうだった。私は自分のことすら充分には語れず、行き届かず、触れられることのない場所はそのまま埃をかぶっていた。その蓄積こそが自分なのだと、掻きむしって教えてくれたのが正木だった。正木は自分のことのように私のことを語った。私がどういう人間か、正木が教えた。正木は垢まみれの私を愛した。垢まみれだからこそ愛した。私はいつの間にかあの頃のにおいを失っていて、それは誰のせいでもない。

 峰田が私に並走した。呼吸は不規則で歯の隙間から漏れ出すような音だ。私に横顔を見せながら必死にごみをかき分け、みっともなくつんのめり、また前を向く。そのとき発砲音がして、峰田が口元を歪めたかと思うと、ぷっと吹き出した。
「耳かすった! 死んでたよ俺!」
 その顔は子供のように幼く笑っていて、いまにも泣き出しそうに張りつめている。
「でもずっと死んでたからどうせ! チエコさん俺、耳が痛い! 大丈夫? って聞いてくれる人、ずっといなかったんだ!」
 私は目を逸らす。一心に膝をあげ、ぐちゃぐちゃになった足を前にやる。心もからだも別々の方を向いて、がちゃがちゃとやかましい。
 後方で正木のうめき声。思わず顔を向けた。正木がごみに腰まで浸かっていた。噴き出した血で左目はふさがっているようだ。顔半分が黒く染まっている。銃口を漠然とこちらに向けながらうつむいている。
 怖いんですよ朝は。初めて峰田とセックスした日の明け方。白みはじめた空が窓も染めていくのを見ながらコーヒーを飲んだ。なにかが始まるということをずっと恐れてる、僕は。私もそうだった。昨日を永遠に引きずりたいと思っていた。
 パァン。
 どこかにあたった気もする。痛みはないけれど、全部命中して私はとっくに死んでいるという気がする。殺意はパラレルに私たちを引き裂くのだと思った。選びとらなければならない。自分で、自分を語らなければ。
 ずん、と視界が下がった。足の裏に地面がない。太ももまで埋まり、生臭いにおいに途端にえづきそうになる。
 峰田が気づいて、近づいてきた。私のひじのあたりをとって引き上げようとするが、自分も同様に足場が悪いため、大した効果はない。
「なんなんですかここは!」
 嬉々とした声に聞こえる。悲鳴にも聞こえる。「くせぇ!」
 智恵子! 智恵子! 正木の声が、カラスの声とミックスされたみたいに歪んでいく。
 私にはなにもない。なにもない私の名前を呼ぶくそったれ、手を引くくそったれ。ほとんどごみ同然の私たちが、まだかろうじて生きていることを告げるのは、この夜においてはざわざわと風にゆれる木々と、鼻腔にへばりつくにおい。なんて鈍感に生きてきたのだろう。 本当のことはマンホールみたいに蓋をされていて、いつも素知らぬ顔で通りすぎてしまう。知りたい。もっと知りたい。もっと知ったうえで死にたい。
 私はつかんだ。金属製のなにか。冷たくてぬらついている。それを頼りに全身に力を入れると、足がごみから抜け出た。銃声と水分を含んだ破裂音が同時だった。ざさざさざさと鳥が逃げていった。

 森をとにかく下った。人の通った跡なのか獣なのか分からないような道にも出くわしながら雑木林を走った。脛を植物の茎か枝がこするように切りつけた。鋭く痛み、いつまでも残った。峰田と一言も交わさず走り続け、明かりが漏れてくることに気づいた。森がそこで終わっていて、民家があった。私と峰田は目を合わせた。峰田の黄色い目が湿っていた。私は民家に駆け寄り、扉を叩いた。すみません、すみません! と叫んだ。謝っているつもりだった。誰に対してでもなかった。人が出てきた。老婆で、私を見るとひっ、と声をあげて口に手を当てた。あんた血が、と老婆は言った。後ろにいた峰田にも気づき、なんなのあんた達、と言った。
 
 ヤクザに殺されそうになって逃げたという話を信じたのか私たちが怖ろしかったのかわからないが老婆は私たちを部屋に上げた。とにかく汚いから入れと言われて風呂に入った。風呂はわずかにカビ臭かった。明り取りは光を受けて白く光っていた。シャワーを流すと黒っぽいお湯がタイルの上に流れた。ずきずきと痛むところからはまだ少し血が出ていた。
 通された畳敷きの部屋は死んだ夫のだと老婆は言った。ほとんどなにもない部屋だった。しばらく放心していると襖が開いて峰田が立っていた。峰田は無言で私の目の前に座った。私を曖昧に眺めた。手が伸びてきて私の髪を触った。ノンシリコンだって、と峰田が言った。ここのシャンプー、ノンシリコンのやつだった。峰田の息が私の息と混じりそうだった。毛穴という毛穴から汗が噴き出していた。峰田の目が充血して私の目も熱くなっていった。峰田の髪を触った。水分をたっぷり含んだ毛が指にじっとりと絡んだ。
 智恵子さん、愛してるよ。

 うるせえ、全員死ね。

たまに踊ってる

 西田マキというひとが「あの夏」って名前のプロジェクトを始めたときには私はまだ彼女のことを全然知らなかった。彼女の楽曲を知ったのは日比谷のTOHOシネマズで映画を観た後に行った本屋で「コールミーコールミー」という曲がかかっていたからで、少しハスキーでアンニュイな歌声とシンセサイザー?の効いたサウンドがとても好みだったからだった。それが「あの夏」の曲だと教えてくれたのは一緒に映画を観に行った男だった。天井の方をちら、と見た私の仕草をちゃんと見ているのが凄いなと思った。でも同時に初対面でそんなとこまで見てるなんて怖い、という気持ちもあった。さっき交換したばかりのLINEに彼がYOUTUBEのリンクを貼ってくれた。この曲だよ、って。そのあと行った九州料理の居酒屋で私はその動画を見た。あの夏こと西田マキは黒目が大きかった。「アイドル」と「アーティスト」の狭間にいるみたいな感じがした。

 そういえばその彼(ホンゴウさん)とはその日別れたきりで、二度と会わなかった。やっぱりちょっと怖い、の方が勝ってしまったのだ。

 

 事務なんかよく続いてるね、と言われた日の夜、私はヨドバシカメラで冷蔵庫を買った。本当は持って帰ります、と言いたいくらい即日で欲しかったのだけど、冷蔵、野菜室、冷凍と三つも扉のあるそれを持って帰ることは不可能だった。一週間ほどで届くとのことだったが、一週間後に冷蔵庫に執着がある可能性は低い。ヨドバシのポイントがだいぶ付いた。つぎ来ることがあるかな、と思うと疑問だが黒いカードは財布のなかに一応入れておくことにする。    事務なんかよく続いてるね、と言った男と食べたステーキが胃のなかにいつまでもいた。男は小さな設計事務所をしていると言っていた。でもそんなこと半分も信じていなかった。お店を出たところで肩に触られそうになり、動物的反射神経で避けた。そのまま場は白け、男はひとりで飲むからと言って繁華街の明かりのなかに消えたのだった。アパートに着き、廊下からリビングへと歩きながら服を脱いでいく。実家にいる頃母親に散々注意されても直らなかった悪癖。転々と脱ぎ捨てられた洋服たちが抜け殻のように見える。そのままシャワーを浴び、全身をくまなく洗う。今日がぜんぶ流れていくようにくまなく。

 風呂上がりに発泡酒を開けてローテーブルの横に座りこむ。テレビをつける気にはなれず真っ暗な画面をぼやっと見ながら飲む。昔のブラウン管なら黒い画面に自分が映りこんだものだけど、液晶の画面は光を吸い込むばかりで私が映らない。スマホで音楽を再生する。自分のプレイリストからあの夏の『トロル』が流れてくる。恋をする女の子が怪物に飲み込まれていく最後のサビが終わるのと、缶が空くのがほぼ同時だった。

 

 わたしたちはいつもどうしてこうなんだろう

 思い込んでも思い込んでも

 同じゆめを見ることができない

 

 会議室の準備に手間取っていた。レジュメにぬけたページがあり、その場で4人がかりでホチキスを外し、紙をはさんでまたホチキスで留めた。ペーパーレスにしろよ、と嵯峨根さんが毒づく。そうしたら私たちの仕事は減ってしまうということを考えながら手を動かした。いつか私たちみたいな仕事が機械にとって代わられたら、私たちはどうやって生きていったらいいんだろう。レジュメが完成したのは会議の十五分前だった。あたしたちの昼休み返してくれ! とぼやきながら嵯峨根さんたちが部屋を出ていった。ひとりになると部屋のなかには換気扇のまわる音しかしなくなった。窓の外を見るとビル群の上空は晴れているが、少し遠くに灰色の重たそうな雲が見えていて、夕方頃から雨なのではと思われた。

 

 「『あの夏』はこの夏をもって活動を終了します」という情報をSNSで知った。西田マキ本人の直筆と思われる字で書かれていた。「いくつかの夏を、『あの夏』と一緒に駆け抜けてくださった皆様に感謝します」「でも西田マキは活動を辞めるわけではありません」「いつかまたちがう形で、皆様とお会いできればと思っております。本当にありがとうございました」季節は六月に入っていた。私は彼女のホームページを眺めたあと、YOUTUBEで彼女の動画を見た。コメント欄には早くも活動終了を悲しむファンの姿があった。まだ終わってないけれど、ほとんど終わったようなものだった。

 

 週末、冷蔵庫が届いた。大きかった。配達スタッフがふたりがかりだった。こんなに大きい必要あっただろうかと思う。スタッフの男性がポケットから紙を取り出し、そこにサインをした。紙と一緒にポケットから白いタオルが覗いた。青いつなぎからはほんの少し汗のにおいがしていた。冷蔵庫の電源を入れ、数時間後に開けてみる。なにも入っていない各部屋が、しっかり冷えてきていた。発泡酒をある程度買いだめしても大丈夫だ、肉も野菜も小分けにして冷凍できるから、月初めに多めに買っとこうか。考えながら子供の頃、冷蔵庫の扉を閉めたあとの冷蔵庫のなかは絶対に見られないことや、鏡に背中を向けた自分の姿は絶対に見られないことなどを考えていたことを思い出した。

 

 会議室の後片付けをひとりでやることになった。少し前から嵯峨根さんたちは私のことを疎ましく思っているようだった。理由なんかなんでもよく、それは生理みたいなものなんじゃないかと私は気にしないことにしている。レジュメをまとめ、お茶を捨て、テーブルを拭いていく。廊下をだれかの笑い声が通り過ぎた。レジュメでうっすらと指を切った。血は表面張力なのか傷から少しはみ出す程度で流れてはいかなかった。窓の外を眺めていて、あ、と思った。見下ろした交差点の広告があの夏になっていた。

「『あの夏』はこの夏で終了します。」

 私はそれをしばらく見つめた。昨日見たミュージックビデオの、西田マキのステップを踏んでみたくなった。私にできるだろうか? 扉からだれも入ってこないことを確認して足もとを見つめた。旋律を思い出し、膝で拍をとる。右、右、左と足を出した。体が重い。三十路を迎えて少し太ったかもしれない。もう一度、右、右、左。

 

拍手はいらない

思い出のなかでくりかえす

幻のステップで

時を越えた

時を越えた