いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

引っ越し

 ラブリー引っ越しセンターです、本日はよろしくお願いいたしますと電話があり、それから一時間後に現れたのは、私と同じくらいの年格好の青年だった。短パンにTシャツのラフな格好で、一足早く初夏の陽気を感じているようだった。青年は部屋のなかを見渡し、後から入ってきた年若い金髪の青年に「これなら蛇腹ふたつでいいわ」「本は後からいこ」などと伝え、作業始めます、と私の方を向いた。
 元夫とふたりで詰めた段ボールを手際よく運んでいく。箱を一度に三つも持っていくその背中は無駄な脂肪が無いように見える。小柄な男性ながら全身に力が漲っていると感じる。無意識に元夫と比較していた。元夫は痩せぎすで背が高かった。重いものを抱えるとすぐに腰が痛くなる男だった。昨日やって来て、仕事の車に自分の荷物を載せて帰っていった。埼玉に引っ越すと言っていたが、詳しい場所は聞かなかった。
 作業を任せて、新居の方に移動した。駅の南側から北側への移動である。日射しがつよく、蒸し暑かった。徒歩で15分歩くと、たっぷりの汗をかいてしまった。新居の前に先ほどの青年が立っていた。
「お疲れ様です。お荷物の方全部捨てました」青年は朗らかにそう言って頭を下げた。私は動画ありますか、と尋ねる。じゃあお部屋の方で、と青年が言った。アパートの前に停まったトラックの荷台で、金髪の若者と、中年の男性が胡座をかいて談笑していた。


 青年の取り出したスマートフォンに動画は入っていて、青年がひとつひとつの物を丁寧に破壊している様子が納められていた。青年は手に大きい金槌を持っていた。ぐしゃっと音がして、段ボールがつぶれる。なかから出てきたのは食器だった。青年は乱暴に足で箱を蹴飛ばした。撮影しているのは金髪の青年だろうか。ときどき画面が激しく揺れるなかで、青年は淡々と物を破壊してゆく。カラーボックス、ローテーブル、Wi-Fiルーター、ノートパソコン、テレビ、扇風機。青年が金槌をふるうたび、それぞれの硬度に応じた音がする。青年はいつの間にか腕まくりをしていて、額には汗がにじんでいる。びっくりするほど白いタオルを首からかけていて、ときどきそれで顔をぬぐう。真剣な眼差しは、スマートフォンを差し出している今も変わらない。冷蔵庫は特に念入りに破壊された。表面の金属が叩かれるにつれて剥離し、内側の機械があらわになる。がしゃんがしゃんと音を立てて、冷蔵庫はぼこぼこにひしゃげた箱になっていった。
 動画はそこで終わった。青年は「以上です」と言い、スマートフォンをポケットにしまった。そしておもむろに窓の方に寄り、金槌を取り出すと振りかざした。せんべいのようにいとも容易くガラスが割れた。がらんがらんと部屋の外に破片が落ちていった。そうだ、下の階の方に挨拶しなければ、と思う。青年は備え付けのエアコンに金槌を向けた。ボコンと音がして、エアコンの真ん中に穴が空いた。青年の背中に筋肉が隆起しているように見えた。
 お客さん、おひとりで大変でしょう、と青年は襖に穴を空けながら言った。でもこの辺はのどかで良いところですよね、僕の実家もとなり町なので分かります。ただ、この辺犬を飼ってるお宅多くないですか。僕ね、犬は嫌いなんですよ、小学校のとき、クラスで犬を飼ったんですよ、保健所からもらってね。でもある日、コロって名前だったんですけど、コロが殺されてて。近所の変質者がやったみたいです。クラスのみんな泣いてて。僕はそんなに泣かなかったんですけど、そしたら担任が僕のところに来て、こういうときは悲しい気持ちになるんだよ、って言ったんですよ。まぁ、とにかくそれから犬は嫌いです。
 一通り破壊して、青年はハアハアと肩で息をしていた。僕も体力あった頃に比べるとだいぶ下り坂で。一日持たないんすわ。いやぁ、でも今日は暑いですね。明日はまた雨みたいですけど。では料金よろしいですか、六万五千円ですかね。私は封筒に入れていたお金をそのまま青年に渡した。青年はお札を二回数え、ポケットにしまった。たしかに。青年からは少し汗の匂いがした。


 トラックが去っていくエンジン音が終わると、静かなものだった。この辺りは一軒家が多く、自然も豊かで、眠りを妨げるようなものはなにひとつ無さそうだった。シャワーを浴びて出たところに元夫から電話が来ていた。
「もしもし。引っ越し無事終わったかな、と思って」
「うん。全部捨てられて、今バスタオルも無いまま裸でいるの」と言うと、元夫は静かに笑った。
「それはいけないね。近所で買って今から持っていくよ」
「ありがとう」
 電話が終わると、母にLINEを送った。『引っ越し終わりました』というメッセージはすぐに既読になったが、返信はなかなか無かった。私はフローリングの床に裸のまま座った。尻に冷たい感触がある。元夫は着替えも買ってきてくれるだろうか。アパート前の道をバスかなにかが走り抜け、建物全体が、微かに揺れた。

血が止まらない

 腕の、カッターで切ったところから血が止まらなくなってしまったのは、およそ一月前のことだ。あまり理由なく切ったのだが、それが神様の逆鱗に触れたのか、血が止まらなくなった。血が止まらないな、と思ったのは切って二時間くらい経ったときだろうか。あれ、なんか傷の大きさにたいして出血の量多くないか、ティッシュを一箱使い切ったぞみたいな感じで、夜中まで止まらなくて救急病院に行ったのだった。これは止まらないですね、と医師は言った。しばらく止まりません。しばらくって。わかりません、正直。そうして輸血され、大量のガーゼを渡されて、家に帰された。それからも血は止まらなかった。白いガーゼがじゅわっと赤く染まる。かき氷にシロップをかけたときみたいだといつも思う。しばらくの間仕事を休むことになった。なぜなら私の職場は学校で、止血をしながら挑むにはやや荷が重いのだった(かといって止血しながら勤まる仕事がこの世界にどれほどあるだろうか。Amazonの倉庫?)。
 血が止まらないので絶えず血を飲まなければいけなかった。え、飲むんですか、輸血ではなく? そうなのです最近は。血は誰のものかわからないが清潔なのだという。どういう理由でそれがここにあるのかは一切しらされないが、血は毎朝、まだ起きる前に届くのだった。私は朝、新聞とともにそれを取り、飲む。最初は鉄棒を舐めるような酸味、えぐ味が気になったが、体が欲しているからか、すぐにすうっと飲めるようになった。飲んだ端から出ていくので意味があるのか無いのか分からないけれども、取り込んですぐに出すこのスタイルは意外と健康的なんじゃないかという気もした。
 流血のことを恋人に話すと、恋人は気が動転したようだった。私のことをいつも気遣ってくれる優しさをそのときも見せた。私の脈を測り始めたので、大丈夫だということを伝えた。ただひたすら血が出るだけで、なんも悪いところはないんです、と話すと、血が止まらないってなによりも悪い気がする、と彼は言った。彼は前よりも頻繁に私の家に来るようになった。毎回ガーゼを大量に買ってくるので、私のクローゼットはガーゼでパンパンになっている。そこまでの量ではないのだ、と言っても彼には効かない。なにしろ、止まらないということが恐怖を感じさせるのかもしれなかった。
 あまり外出はしないようにしていたが、病院に行くときには外出せざるを得ない。雨の日の混んだバスに乗っていて、私の隣に立っていた男が妙に近いことに気づいた。体を密着させてくる、股間を擦り付けてくる。私は怖いと思いながら止血している最中のガーゼをべりっと剥がした。
「血が出てるんです!」
それで男の行為は止まった。男は次のバス停で降りたが、残された私は病院まで好奇の目に晒されなければならなかった。車内で不器用に巻きつけた新しいガーゼを医師に見せると、いつも真顔の医師が少し笑った。私はそこで少し泣いてしまった。誰も泣いたわけを聞くことはなかった。
 私思うんですけども、この血ってもしかしてもう一生止まらないのではないでしょうか。私がメイクをするときも買い物をしているときも、プロポーズを受けるときも結婚式のさなかも、妊娠したとしてその出産のときも。育児のどこかで娘(または息子)は気づくのでしょう。ママはどうして出血しているの? 答えられないということがなによりも苦痛なのですよ、答えがないということがなによりも。私の血はじわじわと皮膚の上を染めて、垂れて、カーペットに昨日黒い染みを見つけたんです。酸化した黒黒とした点。私はなにか悪いことをした気がする、そんなことは誰でもがしているのだと思うんですけども、私の場合は血が止まらないというこの現象に結実してしまっている、ただそれだけのことがどうにもできない。
 仕事には結局そのまま復帰した。ガーゼを厚く巻いて、30分毎に取り替える。そうしていればなんとかなるようだった。それだけのことなら休むことはなかったんじゃないの、と学年主任に言われた。そいつの顔をこの血でべったりにしてやりたかった。親切な最前列の生徒がいて、先生もう30分経つよ、と教えてくれるようになったのは本当に泣きそうなくらい嬉しかった。その教え子も教師になった。私は結婚した。あのときの彼とはちがう人とだ。妊娠はしていない。そんなに子供が欲しいとも思えなかった。
 ある日道で、肘の内側をハンカチで止血している女性とすれ違った。向こうからくる彼女は不安そうな表情、痛みもあるのだろう、早足でどこか、おそらくは病院に向かっているようだった。
「あの」私は声をかけた。「ガーゼ、よかったら」バッグのなかから取り出した。
「ありがとうございます」女性は何度も頭を下げて去っていった。私はまた歩きだした。膝が痛い方が気になっていた。時々は血が止まるようになっていた。

サボテン

 塩と水だけで一週間生き延びたという話が、イリヤという男の唯一の自慢であるらしく、なんかもう十回くらいは聞いている気がする。それだけ聞いているのに、私はこの話でいつも笑ってしまう。どうして? 付き合っているから? よく分からない。最初に聞かされたのは私のシフト初日だった。バイトリーダーという謎の肩書きを背負わされた彼から、コンビニバイトのいろはを教えられたあと、朝四時くらいの駐車場でだらだらと煙草を吸いながら、彼の話ははじまった。「僕、すごい貧乏でね、でもどうしても働きたくない時期があったんですよ……」


「で、カップヌードルカップヌードル買って、コンビニでお湯入れて、道歩きながら食べたの。家まであと数十メートルだよ? 全然待てない。もう、口のなかの天井みたいなとこベッロベロに火傷しながら、ガツガツガツ。三口くらいじゃない? 実質三口くらいで食べ終わってる」
「三口は絶対うそ」私は笑う。
「マジなんだって。みっちゃんは知らないから、その世界を。あのスープのうまさは、彦麿呂ですら黙る」
「世界とか語るのマジでやめて。一週間断食したくらいで」
 いやいやいやいや。イリヤは首を横に振ってから煙草を口の端でくわえる。サングラスの奥の目が細くなる。射精するときと煙草を吸うときの顔が一緒なのを、私は知っている。
 はじめて私の部屋にきたとき、イリヤは塩と水だけで一週間生き延びた話をしなかった。高校生のころビートルズが好きで、それが父親の影響でみたいな益体のない話をしていた。塩と水の話が益体があるかというとそうではないんだけど、なんというか、よりパーソナルな話を彼は選んだ。そしてパーソナルな話が私は好きではなかった。だからキスをしたんだと思う。気まずいくらいなら、キスでもした方がマシだったから。
 
「僕、当時親の金で借りた1Kの家でサボテンを飼ってたんですよ。サボテンとかの多肉植物ってなんであんなかわいらしいんですかね。まんまるで、全然植物のグロさがないんですよ」
「え、植物ってグロいですか?」私は聞いた。段ボールの縛り方を手を動かして復習しながらだった。
「グロいですよぉ。なんていうのかな、必死な感じ」
「必死?」
「生きることに? 細い茎のなかに色んな管とおってんですよあいつら。薄い葉っぱにいっぱい気孔っていう穴があいてるし」
「それは動物も同じでは……」
「動物がグロくないとは言ってないですけど、まぁ植物のグロさっていうのはつまり、ピュアな感じなのかなぁ。ピュアに生きる意志を持ってる。愚直な、感じ」
「愚直はグロいですかねぇ」私は納得できない。段ボールの結び方も、空手でやればやるほど正解から逸れていく気がしてやめた。
「ってべつにいまそのことはどうでもよくて、だから、僕はサボテンを飼ってたんですよ。で、サボテンになりたいと思ったんです」
「そもそも『サボテンを飼う』っていう言い方が気になってきたんですけど」
「ちょっと、それはあとでしますから。そうじゃなくて、僕は塩と水だけで生きてみようと思ったんですよ」
「サボテン好きが高じて?」
「そんなにサボテンメインの話じゃないんですけど」
 私は笑った。その後に続いた彼の断食生活の話の間ほとんど笑い続けた。なにに対してそんなに笑っているのか分からなかったが、それは失業して以来たぶんはじめての大笑いだった。


「真介を縛るのマジで、もうやめてあげて」
 女は泣いた。喫茶店だった。どこかのルノアールルノアールを指定したのは女の方だった。
「真介、夜中に手を握ってくるんですよ。なんか温もりが不足してる子どもみたいじゃないですか。あたし、握りかえして、そのまま朝まで眠れないんだよ、真介がかわいそうで」
 女の後ろに観葉植物が立っていた。観葉植物は、女を即座に呑み込むほどの背丈があり、エアコンの風に微かにゆれていた。
イリヤスマホのパスワードよく分かりましたね」
 私の言葉に、女の目が少し開く。お洒落なボブは、私の手入れされてない長髪とはあきらかに違う。
「『0930』。私入力してみて爆笑したんですよ。『オクサマ』っていうバンドが少し前にいてね、イリヤの部屋でそれのCD見つけて、まぁそのときも笑ったんですけど、それを入力してみたらロック解除されて」
そこでコーヒーを口に運んだ。あまり笑顔を見られたくなかったからだ。それでもマグカップを持つ手はあきらかにふるえてしまって、口元の笑みも存分に見られてしまっているだろう。
「自分のひらめきが怖いです。別に、どうだってよかったのに、0930だけ暇つぶしに入れたらロックは解除されちゃって」
女の顔がさっきまでより赤くなっていた。涙は止まっていたし、最初から止められる涙だと女も私も分かっていた。
「あなたは、全然世代じゃないでしょ? どうやってたどり着いたんですか?『0930』に」
「なんなの?」女は言った。
「なに器おおきいふりしてんの? 『浮気相手の前でも寛大な妻』みたいな顔して。笑える。自分以外と寝てることくらい平気です、みたいな。バカじゃないの。そうやってハードルさげて、自分が性欲処理マシーンですって自白して。あんた自分が真介とすればするほど価値を下げてるって分かってないよね?」
「まさか『0001』から順番に打ったの?」
「最後は自分のもとに戻ってくるみたいな。昭和かよ。他人とやりまくって立たないカスカスの男ぶら下げて、私健気なんですぅーって。みじめ。ひたすらあんたがみじめ。そんなの男の理屈の上に寝ころんだただの娼婦じゃん」
「じゃああなたもそうだね」
「自覚してるかどうかの話だよ。それに私はあなたとちがって……」
 私は女の顔を見る。女の瞳孔が少しゆるんだのが分かってしまった。そこに同情のかけらが見えて、私は目を逸らした。カップルがパンケーキを食べている。溶けたバターがパンケーキの上をすべり落ちた。


「六日目、まさかの試練。両親からの宅配便ですよ。しかも、パイナップル! なんでだよ! なんの連絡もなくパイナップルだけ送ってくるってなんなんだよって僕悶えましたよ。はじめてですからね? 全然、パイナップル農家とかじゃないですから。ていうか実家青森ですから。いや、そこは林檎! っていう。パイナップルの匂いってそれまでまったく気にしたことなかったんですけど、もうまがまがしいですよ。甘さを鼻で感じさせようかっていう、神経にねじ込んでくる感じすごくて。いつの間にか失神してました。いや、ほんとに! ほんとに! 人間甘さで失神するんですよ。まぁそれ以来僕、パイナップルが苦手ですよね」


 なんど聞いても、イリヤの話は七日目、カップヌードルを食べるところまでたどり着く。バカみたいな話だが、私はそれで安堵する。同じ世界線の上に今日もいるということに安堵するのだ。もしかしたらイリヤは五日目に死んでいたかもしれない。そういう分岐があったかもしれない。「僕ね、塩と水だけで一週間生き延びたかったんですけど、死んじゃいました」と言われたらどうしようか。いや、そんな告白あり得ないのだが、というか、それはそれで私は笑うのかもしれない。私はイリヤのなにを笑っているのだろう。サボテンはその後どうしたんだろう。イリヤの部屋にはなかった。サボテン死んでんじゃねーか! 私の頭のなかで、東京03の飯塚さんの声でそれが響いた。私と付き合ってからイリヤ契約社員になった。いらっしゃいませー、ありがとうございましたー。私は知人のつてで小さい印刷会社で働いている。イリヤが力んでいる。一生懸命腰を振っている。汗が私のお腹の上に落ちそうで落ちない。落ちろよ!
 私は笑っていた。いつの間にか笑っていた。それを見て、イリヤの目がおおきく見開かれた。動きが鈍くなり、完全に止まった。
「アイラブユー」
 私は言った。イリヤは無言でうつむいていた。「アイラブユー」私はもう一度言った。イリヤのぺニスが引き抜かれた。むき出しのぺニスは萎んでいた。思い詰めた表情。向こうの町ではたぶんもう雨が降っていますね、というような雨雲の色。
「ごめん」
 イリヤが言った。
「アイラブユー」
「みっちゃんごめん、俺、嘘ついてて」
 そういえば私は結局、段ボールの結び方を覚えたんだったか?
「全部、嘘」
「なにが」私の声が胸から出た。低くて、しゃがれていて、弱っていて、突っ張った声。イリヤは驚いた顔で私を見た。イリヤのおおきな喉仏が上下した。
「塩と水だけで一週間生き延びた話」
 私の拳は両方とも力いっぱい握られていた。シーツが湿っていた。
「ほんとは一日だけなんだ」
 私は渾身の力で笑って、それはほとんど悲鳴だった。

ベランダの夜明け

 若い男を召喚する手軽な方法があるときいて試してみると、これが効果抜群だった。方法は簡単で、夜の0時にベランダに陶製の灰皿とシケモクを置いておくだけだった。銘柄はなんでもよく、本当に吸ったものでなくても燃やされていればよい。私は煙草を吸わないのでありがたかった。はじめて仕掛けた夜、0時を過ぎておそるおそるベランダをのぞくと、いた。茶髪に金のハイライトを入れた20代前半の男が、四つん這いで火のついてないシケモクを咥えていた。早速招きいれてセックスをした。
 私はこの方法の正しさを確信し、以後数日に一回程度の頻度でシケモクを仕掛けていた。そして今日、シケモクにかかったのはなぜかおっさんだった。


 目尻のしわ、ほうれい線が懐中電灯のあかりのなかでくっきりと見える。おっさんはまぶしそうに目を細めて、シケモクをくわえたまま顔をあげる。おでこから頭頂部にかけて極端に毛髪が少ない。両サイドの毛は長く、黒々としている。私の方を見て、なにか口をごもごもと動かしていた。私は仕方なく窓を少しあけて、口を出した。
「なんですか」
「なんか缶詰めあるとうれしい」おっさんは言って口角をにゅっとさげた。あるとうれしい、じゃねーよと思いながら私はつぶ貝の缶詰めをあけて灰皿の横に置いた。「つぶ貝。センスあるね」とおっさんは言った。「お姉さんお酒のみだね、さては」うれしそうだ。「お酒は飲まないです」私は言った。


 その次もおっさんだった。同じおっさん。同じ男が来るのははじめてのことだった。私はつぶ貝をだして、窓の桟の辺りに腰をおろした。煙草をとりだしてみる。真新しい煙草はなにかのアイテムみたいに綺麗だった。じっと眺めているとおっさんが言った。「煙草吸うの?」「いや、吸わないんですけど吸ってみようかと」「やめな、からだに悪い」そう言っておっさんはシケモクを吸う。
「なんか、職場にヘビースモーカーのお局さんいるんですけど、その人に『くさい』って言われて。『制服がにおう』って。その人が言うと、まわりはなんとなくだけどそれに参加しなきゃいけない感じがあって、で、私結局その日からずっとファブリーズしてブルーベリーのガム噛んでるんですよ」
「つぶ貝はこれ、俺来ると思って買ってくれたの?」
「ちがいます」つぶ貝が好きで買いだめている。
「いやー、自分のにおいって自分じゃ気づかないよねぇ」おっさんは首にかけていた、いかにも「手ぬぐい」という感じのタオルでこめかみの辺りを拭いた。
「私くさいですかね。くさいです?」
「いやいや。ここカレーのにおいがすごくて分かんないわ」たしかに、今日は隣か下の階でカレーを食べたな、というにおいがしていた。おっさんがつぶ貝をあける。私は自分の服をかいでみた。ブルーベリーのせいで全然分からなかった。


 次もおっさんだったので、おっさんの名前を聞いてみた。おっさんはなぜか照れくさそうにフジナガと名乗った。
「今日はお局さん機嫌悪くてほんと参りました。仕事全部押しつけるいきおいでずーっとイライラしてますっていうアピールがすごくて。私の電話の受け方が気に入らないって言い出したり」
「殺しなよ」おっさんは言った。
「そうもいかないじゃないですか」
「じゃあ逃げるか」
「……私ね、中学のときいじめっ子でした。煙草も吸ってました」
「へぇ」
「お局さんも私も同じなんですよね。世の中に甘えてるタイプの人間。で、私ちがう人間になろうって思って、そしたらなんだろうって考えてセックスかなぁと。お局さんに勝れることっていったら」
フジナガは黙々とつぶ貝を食べている。向かいのマンションの上に月がいつもより白っぽく光っていた。
「でも、やっぱり、ちがうんですかねぇ」
「ディズニーとかは?」
「はい?」
「ディズニーとか行かないの? おれ行ったことないんだよなぁ」
フジナガが舌打ちのようにチュッチュと音をたてて歯のあいだに詰まったものを吸っている音がした。
「ディズニーとか行く方がいいと思うんだよ。君みたいのはミッキーと握手して写真とってさ」
私は黙って、膝のうえに顎をのせたまま、ライターを擦った。黄色く炎があがり、親指の爪の辺りで熱を感じた。煙草に火をつけた。吸うとかたい煙がのどをチクチク刺しながらくだっていく。
「ああ」フジナガがうめいた。「ソープいきたい」


 私はシケモクトラップをやめた。煙草をときどき吸う。社員旅行のときのお局さんの画像をアップにしてその両目をつぶして火を消すようにしている。
お局さんがものもらいで眼帯をしてきたときは、呪いの効果だと思った。夏が過ぎた。だいぶ涼しくなった土曜日、ふと思いたってトラップを仕掛けた。おっさんとセックスしてもよかったと思ったのだ。私はベランダに足だけ出してフジナガを待った。0時を過ぎても現れなかった。つぶ貝を食べながら、ミッキーの手のかたちをしたスクイーズをもてあそんで待った。月が徐々に薄くなって消えていつの間にか朝に入っていた。近くの線路から始発が走り出す音が聞こえてきた。ぶるっとふるえてあくびをして、吸っていた煙草を、普通に消した。

空白の教室

 廊下を歩いているときから2-B教室内の妙な静けさが、私にとってよくない兆候だということは分かっていた。だから立て付けの悪い扉を開けて、ひとり席に座っている子がいることの方に驚いた。私は入口のところで立ち止まり、「オゼキくん」と彼の名前を呼んだ。オゼキくんは既にこちらを向いていて、しかし、なにもないという顔をしていた。なにもないです。それはしばしば生徒から聞く言葉だった。私が背を向けて黒板に書いているとき、くすくす笑う声がどろんと部屋中に広がって、私は「なにかありますか?」と訊ねる。なにもないです。西口の顔が浮かぶ。まぶたに薄く傷がある。どことなくすえた目をしたあの金髪の無表情な少年。
 オゼキくんが口を開いた。「先生の授業ボイコットしようって言い出して、みんな出ていきました」「西口くんですか?」「それは分からないです」「オゼキくんはしないんですか、それ」オゼキくんは首をかしげて「したいと思わないです」と答えた。隣の教室から笑い声がする。鳥の鳴き声のように校庭からも声がする。私は体育の授業を欠席し、ひとり教室にいた日のことを思い出す。世界と私との間に温かな緩衝材が敷かれたような心地よさ。
 私は教壇に教科書を置き、オゼキくんを見た。背の低い、変声期も半ばの二年生、肌が羨ましいくらいきめ細かく、ぱっちりとした二重。その割にはハンサムではなく、薄い唇が世の中への不平を訴えているように見える。オゼキくんは、視線を両手で開いた教科書に移している。平然と授業に入ろうとしているこの少年の方が、ボイコットした彼らより怖い気がした。君はいじめられてるの?と聞こうとして止めた。職業倫理からではなく、ただめんどくさかった。
「めんどくさい」それは口に出ていた。オゼキくんが顔をあげる。私を観察する目。金魚鉢を見つめるような目。
「オゼキくんきらいな場所ある?」私は聞いた。普段のような敬語でないことが自分でも意外だった。「遊園地です」それで行き先が決まった。


 篠原先生は真面目だと言うとき、同じ理由で真面目じゃないとも言えて、それは誰にたいしての真面目さかで決まってくるのだと思う。篠原先生はとても自分にたいして真面目なのだと思う、僕たちにたいしてではなくて。学校という場の物差しは常に僕らなので、僕らの成績、僕らの素行がはかられている代わりに先生の評価は僕らによって決められる。それが正しいかどうかなんて関係ない。友達みたいに馴れ馴れしい先生やカッとなって生徒をぶん投げる先生、体育の授業でペアがつくれなかった女子生徒と熱心にストレッチする先生、誰にたいしても敬語で礼儀正しい先生。様々な先生が客観的正しさではなく僕らの愛着によってはかられていく。生徒にとって篠原先生はつまらないのだと思う。僕はつまらないことがいけないとは思わないけれど。バスに乗って駅へ行き、電車に乗った。学生服の僕と篠原先生は周りからどんな風に見えているのだろう。授業参観の帰り道?入学説明会?窓に映った僕は前髪が汚ならしく伸びていた。篠原先生はさっきからK-1の話をしている。僕はほとんど知らない。アンディ・フグって選手がいて、好きで、死んだのだということは分かった。電車を降りた。ホームから少し遠くに観覧車が見えた。


 なんで遊園地が嫌いなのかを聞いてもオゼキくんは答えなかった。でも中学生くらいの子にはありがちな思想だと思った。私も派手で賑やかしい場所はあまり好きではない。けれど今は自分の好みなどどうでもいいと思った。退職したらなにをしよう、なんてことを考えながら歩いていると少し気分は軽い気がした。同時に、なんでオゼキくんを連れてきたんだろうと後悔した。ひとりの方がよかった。オゼキくんはビルにうつる自分の姿をちらちらと見ながら猫背だった。遊園地に到着した。


 ジェットコースターに乗りながら先生が「学校楽しい?」と聞いた。なんで今、と思いながら「まぁ」と答えると先生はなにも言わなかった。僕も「先生は?」と聞いた。先生は笑って、やっぱり答えなかった。ジェットコースターは思ったより迫力があって、思ったより短かった。内臓が無理矢理動かされてかすかに痛い。
 それからコーヒーカップに乗り、シューティングゲームをやり、クレープを食べた。先生の携帯が何度か鳴っていた。学校からだろうと思った。観覧車に乗ろうと先生が言った。
 観覧車のなかは音がこもっている。グゥングゥンとゴンドラみたいな音が個室をふるわせていた。地上から数メートル浮いたところで、先生が咳払いをした。少し緊張しているのか、と思うとなぜだか下半身が熱っぽくなった。先生は全然タイプではない。それでもこうやって圧縮されたような空間にいることでぐぐぐと二人の距離が近づいてしまう気がした。早く降りたいと思った。観覧車はバカみたいにゆっくりと動いていた。僕は誰もいなくなった教室のことを考えた。生徒も先生も消えた教室で時間だけが進んでいく。誰も見ていないところで存在している、たくさんの場所に、僕の思いは散っていく。先生が窓の外を見て、「死にてぇ」と言った。

名もなき母

 日の暮れかけた公園でひとり遊んでいると、母が迎えにきた。母は100メートル手前でもすぐに母だとわかった。銀色の羽根が光をぐしゃぐしゃに乱反射するからだ。僕は母が公園に着くまでに水道で手を洗い、公園の入口で母を待った。やって来た母は「タイちゃん」と僕の頭を撫で、手をとった。背中の羽根が僕の頬をかすめた。羽根は、厚さを見れば透けそうなほど薄いのに、鏡面みたいにピカピカしている。
 歩いていると後ろから自転車に乗った二人組の、中学生くらいの男の子たちが僕たちを追い越した。数十メートル先で自転車を止めて、こちらをじっと見ていた。僕は目をそらして母を見た。母は何事もないように前を見て歩いていた。僕たちとの距離が縮まると、二人組は自転車を漕ぎだして去っていった。国道に出てトンネルに入った。
「今日のごはんはなんだと思う?」母が聞いた。
「ハンバーグ」
「正解」と母は嬉しそうに言った。母はハンバーグしか作れなかった。
 トンネルは、おんおんおんと音が反射していた。車が走り抜けるとびしゅっ、と大きな音がする。水のなかにいるときみたいに心ぼそかった。世界が急激に縮んでひとりきりになった気持ちになるのだ。しかしいまは母と手をつないでいるから、少なくともふたりだと思えた。
 家に帰り、母の作ったハンバーグを食べた。父は今日も遅くなるようだった。
「美味しい?」
「うん」
 ハンバーグのかたわら、母はストローで水を飲んでいた。一日にコップで何杯も母は水を飲む。お腹の袋にそれを貯めるのだと言う。そうしていれば何日かは何も食べずに過ごすことができるのだと。
 夜中に玄関のドアが開く音で目が覚めた。父が帰ってきたのだ。隣のリビングから父と母の会話が聞こえてくる。母は「美味しい?」と聞き、父は「うん」と答える。カチャカチャと食器の音を聞きながら、僕は再びまどろんだ。

 母が消えた。ある朝起きると、リビングに母の姿がなかった。書き置きも何もなかった。その翌朝もそうだったので、父は仕事を休んだ。警察署に行って帰ってきた。帰ってきた父は椅子に腰掛けながら体を前に丸め、片手でこめかみの辺りを支えていた。
 突然のことに、僕も父も呆然とするしかなかった。その日は父が料理を作った。カレーだった。ハンバーグ以外のものを食べるのは久しぶりだった。冷蔵庫を見ようとするといつものように父に止められた。「ハンバーグの材料がたくさんあるけど、今日はちがうものにしよう」と言いながら父が作ったカレーは美味しかった。
 母に再会したのはテレビのなかだった。ある夕方、親戚から電話があった。「ナルコさんだと思う」と言われてつけたテレビには東京の高層ビルが映っていて、ビルの真ん中辺りから灰色の煙が出ていた。スマートフォンのらしきカメラがズームすると、ところどころの窓に、取り残された人々が映っていた。そこに、するするすると右下の辺りから影のようなものが入ってきた。銀色の羽根。母だとわかった。母は体の色を黒く変色させていた。六本ある腕と二本の足で吸いつくようにビルの壁面を這っていた。「これはなんだろうか」とナレーションが入った。これは母です、と僕は思った。
 画面がスタジオに切り替わった。眉間にしわを寄せてモニターを見ていたキャスターが、右端のひげ面の人に「今のは……」と聞いた。ひげ面の人はなにも答えられないようだった。

 数日後、母は発見された。ビル群の路地裏で、焼け焦げた状態で見つかったという。遺体の確認を父だけがして、僕は父から間違いなく母であると聞いた。
 父に抱かれながら僕は泣いた。大声で泣いていると心の芯の方は徐々に冷たくくっきりとしてきて、僕はいつかこうなると思っていたような気がしていた。あのビルの火事で死者がたくさん出ていたけど、助かった人もいたと父が教えてくれた。
 最低限の修復をしてもらい、母は棺に入れられた。葬儀には電話をくれた父の親戚が参列した以外は誰も来なかった。
 僕は母を改めて見た。それは辛うじて原型をとどめているだけの物体だった。そうやって形あるものが無くなる、という儀式をさせられているのだとつよく思った。
 母が焼かれるあいだ僕は中庭の芝生のある空間にいた。葬儀場の屋根には煙突がついているけど、最近のは煙が出ないのだと係のおじさんが言っていた。
 僕は芝生のうえに寝ころがった。草のにおいがむわっと広がっている。僕はチキチキチキチキチキと鳴き声をあげた。芝生を両手でがむしゃらに掘り返し、黒く湿った土を食べた。手についた蟻やダンゴムシも食べた。むしゃむしゃと食べて、全部吐き出した。胃がうけつけなかった。母のハンバーグみたいな味がした。僕は気持ち悪くて涙が出るのか、、なにかがかなしくて泣いているのかわからなくなっていた。父が呼びに来るまでそうしていた。父と部屋に戻り、寿司を食べた。じゃり、と土の味のマグロは錆びたシャベルみたいだった。

小花

駐輪場で千夏と出会う。お互い、放課後に未練なんてない。まだ誰もいないこのトタン屋根の下で私たちは雑に置かれた自転車を引っ張りだし、またがる。早くも汗がにじみ出てくる。シャーシャーと蝉。梅雨明けたての空はまだ曇っている。
「いつもんとこ?」
「うん」
それだけの会話を交わし、校門を出る。バス通りを縦に並んで走る。暑いのでペダルは極力こがないようにしている。それでも汗でブラウスが背中に張りつくのが分かる。坂を下って国道に出る。自転車が加速して、無駄に長い私の黒髪が風に押される。左に曲がって五分走り、わき道に入ってすぐのところにセブンイレブンがある。駐車場は3台分しかない。私たちは雑誌コーナーの見える窓に持たれかけるように自転車を置いた。
「今月は千夏」
「わかってるよ」
ドアが開くと冷気に包まれた。涼しい、と思わず声になる。千夏とは離れ、炭酸ジュースとスナック菓子を買う。千夏がカゴにジュースと雑誌を入れてレジに行く。レジのお兄さんが気だるい声をあげた。
自転車の前で待っているとすぐに千夏が出てきた。そして、
「表紙やばい」という。
「まだ見ない。着いてから」
私は応えてふたたび自転車にまたがる。ここから私の家まではすぐだ。
二分後、オレンジ色の屋根が見える。千夏は家の前に、私は門をくぐって玄関のわきに自転車を停めて、ドアを開ける。
家のなかは大して冷えていない。なにか甘いような野菜のようなにおいがする。ただいま、と靴を脱ぐとあとから千夏が入ってきて、お邪魔しまーすという。とくとくと脈を耳の辺りで感じながら、リビングを覗く。母がいる。
「おかえりー」
母が顔だけこちらに向ける。テレビがついている。古い二時間サスペンスみたいだ。BSだ。
「すみませんお邪魔します」
私の後ろから千夏が声を出す。少し高い声をつくっている。
「はいはい、いらっしゃーい。あれ、千夏ちゃん髪切ったでしょ」
母が嬉しそうにいう。
「あ、はい。夏なんで」
「かわいい!ねぇ、れにもこういうのにしたら?ショートボブみたいな。ねぇ千夏ちゃんもそう思うでしょ?」
「いいよこのままで」
そういってリビングを離れる。階段を登りながら千夏が、
「れにのお母さんマジ陽キャ
「それな」
「なんでれにが陰キャなのか分からん」
「夏なんで」
髪をかきあげながら、さっきの千夏の真似をしていってみる。
「は?なにそれ」
「夏なんで」
千夏が堪えきれず笑う。まじうざい、といって千夏が先に私の部屋に入る。
二階は暑い空気が充満している。肌にまとわりつくむっとした空気に、急いでエアコンをつける。二人して胸もとをパタパタしながら、ベタベタしたからだを極力どこにもくっつけないように座りこむ。エアコンがぼーっと稼動するなか、どちらともなくペットボトルのジュースに口をつける。っあー、とおじさんみたいになる。
「いきますか」
千夏が上目遣いにいう。私はスナック菓子の袋をあけながら、オーケー、という。
じゃーんと千夏が袋から取り出したヤンジャンの表紙に遠藤小花がいた。黄色いビキニを身につけて覗きこむようにこちらを見つめている。
「え、やばい」
「ね、やばいっしょ」千夏が自慢げにいう。
「まゆ毛ちょっと変えたかな」
「色かな? ちょっとちがう気する」
表紙をひと通り眺めたところで「めくりますか?」と千夏に声をかける。千夏がうなずく。めくる。
「制服かぁ」
千夏がため息まじりにいう。誰もいない教室、あかりは消えていて、カーテンが日差しを受けて濃い陰影をつくっている。窓際席に座っている小花がこちらを振り向いている。頬が白く、そこが光源みたいに光っていた。
「きれい」私は言いながら、ページをめくった自分の指がかすかに湿っているのを感じた。

遠藤小花を最初に見つけたのは近所のスーパーだった。私と千夏はいつものようにラーメンが290円の、小さなフードコートにいた。しなしなになったフライドポテトを食べながら、ぼうっとあたりを見回して、エレベーターのわきにそのポスターを見つけたのだ。それは火の用心を呼びかけるポスターだった。白いセーターを着た、ふんわりヘアの美人が手を組んですこしはにかんだ感じで笑っていた。どことない初々しさとふてぶてしいほどの存在感があった。私は指をさして、あの子かわいいといい、千夏もほんとだと応えた。
それからすこし経って、ある日の学校帰り、千夏が鞄から小花がプリントされたクリアファイルを取り出した。どこかの予備校の名前のうえで、小花がガッツポーズみたいな格好をしていた。ブラウスのうえに紺の縁取りのオフホワイトのニットを着ていた。やっぱりかわいかった。
「駅にあった」
そういってそれを私にくれた。二枚取ったのだという。
私たちはファミレスに入り、遠藤小花をスマホで検索した。小花が自分たちと同じ横浜生まれの17歳であることを知って、なんだかおおっとなった。芸能事務所主催のコンテストでグランプリ、中学時代は陸上部にいたこと、ピアノが弾けること、好きなタイプは「呑気な人」、好きな色は青。そういうことをひとつひとつ仕入れていって、よく分からないけれど、彼女のことばかり気になった。

「この制服どこのかな」
「どこのとかないんじゃないの、こういうの」
「いいや今度調べてみる」
千夏がいった。千夏の家には制服コレクションという本があるということをこのあいだ知ったばかりだ。なんで持ってるの、と聞いたら好きだから、と返ってきたのでそれ以上聞く気にならなかった。
「クラスのあの子はいまなにを思っているのだろう、だって」
千夏がグラビアに寄せたコピーを読む。きゅっと肩をすくませたくなる感じの良いコピーだと思った。
「この男の子は放課後の教室に忘れものを取りに行ったんだよ、だから部活やってるね、文化系だね」千夏が早口でいう。
「天文部とか?」
「写真部だね、そんでクラスで一番美人の小花が座ってる。もはや好きとかそういう対象じゃないけど、声はかけられない。音を立てないように自分の席に向かう途中、彼女が振り向いた」
「彼女って」
「彼女だよ、代名詞だよ、誰もが小花になりうるんだよ、いや小花にはなれないけど小花になるんだよ。ほら、後ろ向いて」
「は?」
「いいから後ろ向いて」
私は背中を向けさせられる。
「はい振り向いて」
上半身をねじって千夏を見る。ジャッ、とシャッター音がする。道路で腹を見せてる蝉が動いたときみたいな声。写ルンですを持ってる千夏が満足げにうなずく。
「オッケ」
「なにが」
千夏はよく小花の写真と同じポーズを私にとらせて、インスタントカメラで撮る。まだどんな写真が撮れているのか見せてもらったことはない。
ページをめくる。水着だ。さっきとはちがう水着。青いワンピース型で胸のところはリボンのような形になっている。前かがみになることで彼女のDカップはしっかり強調されている。キメの細かい赤ん坊のおしりみたいな谷間。この肌の、これ以上ない美しさは加工されたものなんだろうか?いや、たぶんちがう。小花はまゆ根を寄せて、悩ましげな表情で視線を逸らしている。
「学校のプール」私は千夏がいう前にいった。千夏はうなずいて、
「これカメラはプールの中から撮ってる」という。たしかに視点は下からのアングルでプールのへりが写っている。
しばらく無言でそのページを眺めた。いつの間にか、エアコンの風がしっかり涼しくなっていた。千夏は写真を撮ろうとはしない。私に胸がないからか?
「次いこう」千夏がいった。めくる。
表紙とおなじ黄色いビキニだった。見開きに、寝転んでいる小花と、眩しそうに空を眺める麦わら帽子をかぶった小花の二枚。真ん中には写真集の発売予告。インスタでとっくに知っていた。
「少ない」
私がいうと、千夏は無言でうなずき、ページを戻ったりしながらひとりでグラビアを眺めている。
「グラビアって印刷の種類のことなんだよ」
私はスナック菓子を食べながら、千夏のつむじに話しかける。
凹版印刷?の一種で、まぁ要するに色がきれいに出るやつなんだけど、いまの雑誌のグラビアってほとんどその印刷法じゃないんだって」
「知ってる」千夏が小花から目を離さずにいった。私はジュースを飲んだ。

千夏の死んだ父親がカメラマンだったというのは本当なのだろうか。私はうわさレベルでそれを聞いたけれど、直接彼女に確認したことはない。けれど彼女がいつもカメラを持ち歩いているのは、そういうことなんじゃないかと思っている。父が死ぬというのはどんな感覚なんだろう、と思うことがある。千夏の、小花の話をするとき以外のつまらなさそうな表情は、そのせいなんじゃないかと考えてしまうのは、私が近しい人を失ったことがないからなのだろうか。
千夏とはじめて話したのは、あの駐輪場だった。その日校内では教師が生徒を殴るという事件があった。下校前にはすべての生徒がそのうわさを耳にしていた。なんだか妙な興奮が学校中を包んでいた。自転車を取ろうとして、彼女と目が合った。それまで何度も顔を合わせていてスルーだったのに、私はなぜだか会釈していた。千夏もただ地面を見るようなお辞儀のような格好をした。私はいった。
「山中が唾吐いたんだって、先に」
千夏が顔を上げた。
「古川先生の顔に。だから手が出たんだって。先生、悪くないよね」
千夏は鼻をすんとすすって、
「手出したらだめだよ」といった。
私はなんとなく、彼女は同意してくれると思っていたから裏切られた気持ちがして、その場を遠ざかろうとした。背中に声がかかった。
「ちょっと、付き合ってほしい」
そうして私たちは国道をずっと自転車で走って、川崎の工業地帯が見えるところまで行った。コンクリートの海岸みたいなところから、工場群を見た。工場はむき出しの骨みたいに荒々しくて、炎がめらめらと心臓みたいだった。千夏はポケットからインスタントカメラを取り出してその光景を撮った。何枚も何枚も撮ってから、喋った。
「写真の現像を教えてくれたことあって」
それが古川先生のことだとすぐに分かった。先生は写真部の顧問だった。
「部屋に工場の写真ばっか飾ってあるっていってた。工場の写真しか撮ってないんだって。変態」
そういって笑った。笑うと八重歯がのぞいた。
「手なんか出したら終わりだろ」
そういって、喋らなくなった。そして、その日から私たちは一緒に行動するようになった。

私はスナック菓子で汚れた手をウェットティッシュでぬぐってから、勉強机の文房具に手を伸ばす。はさみを取る。千夏が私の机からファイルを取り出す。青い表紙のファイルにはなにも書かれていない。ひらくと、小花の笑顔がこっちを見る。中学生の小花はひょろひょろと細い。小さい花柄の紺のワンピースを着ていて、両手をパーにして振っている姿があどけない。グランプリを取ったときの写真。これはネットから拾った。そこからページをめくると、彼女のグラビアが、インタビュー記事がつづく。小花が載っている雑誌のバックナンバーを二人で調べて、ネットで買ったのがいくつかある。小花の体はだんだんと肉づきがよくなっていく。筋肉のうえに適度な脂肪が乗っかっていく。
私はヤンジャンにはさみを入れる。丁寧になるべくまっすぐに刃を走らせる。
スクラップブックの作り方など分からないから、私たちはそのファイルにとにかく小花を集めていく。積み上げて積み上げて、その先になにがあるわけではない。ただ積み上げたその足もとがすべてなのだ。
「よし」
私はうまく切れた紙片を光に透かした。制服姿の小花に、水着姿の小花がオーバーラップする。
あの子はいまなにを思っているんだろう。
千夏が鼻歌を唄う。なんだっけこの歌、と思いながら最後に聴いたのはたぶん二人で行ったカラオケボックスだったと思い出す。曲名は思い出せない。けれどそのときも廊下から流れてくるこの曲を、彼女は口ずさんでいた。
胸が急に苦しくなった。暗いカラオケルームの、輪郭だけ白んだ千夏の横顔。
「写真集、あと半月か」
千夏が膝にあごをのせながらつぶやいた。
「もうテストも終わって夏休みだ」
「夏休み」私は復唱する。千夏が私を見る。私は持っていたはさみを床に置き、彼女の方へ滑らせた。
千夏は片眉を上げてそれを見た。それからはさみを私に返した。
「髪切ろうかな」
千夏はなにも言わない。
「切ってよ千夏」
「れにの髪を?」
「うん」
千夏は私をじっと見た。そして息を吐き、にっこりと笑った。私は時間が止まったのかと思った。目の前の光景が、後も先もない一枚の写真みたいだった。
「いま、小花みたいだった」
私はいった。本心だった。千夏が真顔になり、口を開けた。
「いま、小花みたいだった!」
私は目のまわりに熱を感じた。夢中で口を動かしていた。なんで泣きそうなの。
私は千夏の手のなかのカメラを奪った。そしてシャッターを切る。音がしなかった。巻いてなかった。急いで巻いてもう一度切る。ジャっと音がする。油に投げ込まれたお肉みたいな音。千夏はぼう然と私を見ている。その目に涙が浮かんでいるかどうか、小さなフレーム越しにはよく分からない。