いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

君はスター

 五年一組の朝の会はとつぜん裁判になった。ほかになんかありますかー、といつも鼻をほじっているサエグサが、めずらしく鼻をほじらないで日直をやっていた。ここで「なんかある」と言い出すやつはなかなかいない。それは前の、東京の小学校でもそうだったし、岡山の、田舎のここでも変わらない景色だった。たまにお調子者が静まりかえった教室を見渡しながら「しーん!」とか言って、皆がクスクスと笑うこともあるけれど、僕はそんなので笑ったことはない。そんなので笑うやつはちょっと幼稚だと思う。
 静かになっている皆を見てサエグサが「ではこれで……」と言いかけたとき、青柳先生がすっと手を上げた。それまで先生は教室に入ってきて「はい、日直」と言った以外はずっと黙っていて、考えてみればそこからいつもとは違った。
 青柳先生はまだ若い。髪型はわしゃわしゃと波打った天然パーマで、顔はしゅっとしている。しゅっとしている、というのがどういう意味なのか僕はよく知らないけれど、このクラスに転校することに決まって最初のあいさつの後、お母さんが「先生、イケメンだね。しゅっとしてる」とお父さんに言うのを聞いていた。だから青柳先生みたいな顔をしゅっとしているのだということを理解した。たしかに、青柳先生は最新の新幹線みたいな顔をしてるな、と僕は思っている。
 先生が手を上げたことで教室はざわっとした。それはぐっとみんなの顔が真剣になる音で、机にいたずら書きをしていたやつも、隣の子と喋ってたやつも急に引っ張られたみたいに先生の方を向いた。この教室の全部の目がいま青柳先生を見ている。先生は手を下ろし、立ち上がると口を開いた。
「今日は先生、怒ってます」
 ぴしゃあ、とカミナリが落ちたような感じがして、教室は静かな上に、みんな石の服を着せられたみたいにずーんとなった。先生が怒っている。これ以上怖いことはない。先生は黙ってゆっくりと「ひとりひとりの顔を見てます」という感じに僕たちを見た。長い時間が経っているような気がした。
「こんなかに、悪いことをした人がおる」
 先生は言った。教室は今度は本当にざわざわとなった。みんなの声が重なって誰がなにを言っているかは分からなかった。僕はこぶしを握りしめて、ただ黙っていた。
「昨日、帰り道、お不動さんの前を通った者は手を上げなさい」
 ざわざわは爆発的に大きくなった。みんな顔を見合わせている。先生が、静かにしなさい、と言ってようやく収まって、そろそろとみんなの手が上がる。お不動さんとは、学校の門を出て坂道を下ったつきあたりにあるお寺のことだ。不動明王という怖い顔をした神様の像があるので、そう呼ばれているという。僕はまだ見たことがない。でもパソコンで調べて、そのお寺のじゃないけれど不動明王の顔は知っている。たしかに怖い顔をしている。しかも不動明王の後ろでは炎があがっていたりして余計に怖い。青柳先生はいまぐっと口を結んで眉毛を落として怖い顔をしているけれど、お不動さんはもっと怖い。ぞくぞくする怖さがある。怖すぎるとなんというか、背中がつめたーくなるものなのだということを、僕は初めて知った。
 半分以上の手があがっている。僕もおそるおそる手をあげた。それもそのはず、学校の周りの社宅とかに住んでいるやつ以外は、みんな坂の下のお不動さんのところで右と左に別れるのだ。
 先生は小さくうなずいてから、「石けりをしてた者以外は下ろしてよし」と言った。
 あっ、と誰のものかも分からない、もしかしたらみんなの心の声が漏れたみたいな声がして、手が下ろされていく。僕もほっとして手を下ろす。手をあげたままなのは五人ほどの男子たちだった。ぴんと真っすぐ手をあげているやつはおらず、みんな本当は手を下ろしたいという感じ丸出してひじが曲がっている。
 先生は残った五人の顔をまた見回してから、言った。
「昨日、うちの学校の生徒が石けりをしていて、その石が通りかかった人に当たるという事件があった」
 事件、という言葉に僕はひっと小さく息を吸った。パトカーとおまわりさんが思い浮かぶ。きっと全員それを思い浮かべているはずだ。
「学校に電話があって初めて分かったことです。石が足に当たった人が電話してくれたんだ」
 五人の横顔と後ろ姿を僕は見た。そろそろ震えたり、泣き出すやつがいてもおかしくないと思った。少なくとも僕なら小さく震えてるんじゃないかと思った。でも誰も泣いていなかったし、震えているかも分からなかった。
「さいわい、ケガはなかったそうです。でも、その人が石を蹴ってた生徒たちに声をかけたら、その子たちは逃げ出したそうです。謝りもせんで」
 先生はぐっと眉間にしわを寄せた。いつの間にか腕組みをしていて、ちょっとだけ前かがみになっていた。
「まず、石けりは禁止だってことはみんな知ってるよな」
 先生の言葉に、数人がはい、と答えた。手をあげているやつらはもう首をがっくり下げて机を見ていた。そのとき、一番前の窓側の、コウロキさんが言った。
「先生! 石を当てたのはハヤシくんです!」
 教室がどんと声であふれかえる。ハヤシや。あほのハヤシや。手をあげているのはクラスに二人いるハヤシのうち、「あほのハヤシ」と呼ばれているやつだった。いつも坊主頭で、眉毛が太い。ハヤシは立ち上がった。
「ちがうわ! 当てたんはスドウじゃろ!」
 同じく手をあげていたスドウも机をばんと叩きながら立ち上がった。
「当ててねえし! 先生当てたんはほんまにハヤシです!」
 嘘つくなや! お前や! と二人の言い争いが始まったと思った瞬間、
「しずかにせえ!」
 と先生が怒鳴った。びくっと僕の体が反応した。教室が急にぐわっと縮んだ気がした。
「当てたんはどっちでもええ! そんなことを言ってるんじゃない!」
 ハヤシとスドウはセメントみたいに固まってしまった。ぴーんと空気が止まってしまって息をするのも苦しい。青柳先生はすっと黙り込み、たっぷりの間を空けて、今度はいつもの落ち着いた声に戻って言った。
「先生が一番怒っとるのはそこじゃないんよ。先生がなにを怒っとるかわかる人おるか?」
 それはとつぜんのクイズ形式だった。いつもの授業でならみんなはいはいはーいと手をあげるのに、誰も手をあげず、気付かれないようにお互いの顔色を見ているようだった。僕は最初から手をあげるつもりはなかった。ただ、じっと前の席のイヌモリさんの首の後ろを見ていた。僕の目から光線が出るとしたら、イヌモリさんの首には大穴が開いていることだろう。
「おらんか?」
 先生がもう一度言ったとき、イヌモリさんが手をあげた。すうっと音のするようなきれいな動作で、まっすぐにあげた。美しい。
「イヌモリ」と先生が言った。
 イヌモリさんは言われていないのに立ち上がった。僕の目線には灰色のセーターと赤いスカートが見えた。
「逃げたことです」
 はっきりと聞こえる言葉で、イヌモリさんは言った。みんなの視線がイヌモリさんから先生にうつる。先生はゆっくりと小さな笑顔を浮かべながらうなずいた。
「そう。逃げたことじゃ。石けりしてたんは悪い。当てたことはもちろん悪い。でも一番悪いのは逃げたことなんじゃ」
 人はまちがって悪いことをしてしまうことはある。でもそのときちゃんとあやまれるかどうかで、その人がちゃんとした人間か卑怯な人間かが決まる。青柳先生はそんなようなことを言って、クラスのみんなは多分その声をじっと聴いていた。僕だけはイヌモリさんを見ていた。先生が喋り始めたとき、音も立てずに座るイヌモリさんを見ていた。座ってから先生の話が終わるまで、イヌモリさんの頭はじっと動かなかった。後ろで結ばれている黒い髪がどんどん黒くなっていくように思えた。真夜中の森の奥の奥、いや、宇宙の端っこの端っこ。夜の空は宇宙につながっているらしい。岡山の空は東京の空よりも暗い。全然違う。星の光の強さが違う。くっきりと周りをなぞったみたいにきれいに見える。それもたくさん。真っ黒なじゅうたんに小麦粉をまいたみたいに。ああ、イヌモリさん。僕は自分がイヌモリさんのことを考えているときだけ、どんどんバカになっているような気がする。

 最初にイヌモリさんの顔を見たとき、僕は頭の中が真っ白になった。ちょうど「転校生のあいさつ」として自己紹介をしている途中だった。記憶がそこだけ無くなったみたいに、喋れなくなった。でもそれは一瞬のことで、僕はイヌモリさんから目を離して、話をつづけた。もうイヌモリさんの方は見れなかった。僕が話し終わると先生が席はあそこ、と指をさした。僕ははい、と言って首を前に傾けたまま言われた席に座った。そこからイヌモリさんの席は右後ろの方向だった。僕は右後ろの背中のあたりがかゆくなった気がした。イヌモリさんはあまりにもきれいだった。美しい、という言葉がたぶん生まれて初めて、僕の頭に浮かんだ。
 最初に話しかけてくれたのはその日の休み時間、イヌモリさんからだった。男子女子が集まって僕は質問責めにあっていた。そんな中、イヌモリさんは訊いた。
「東京ってキャベツ高いんじゃろ?」
 僕は不意をつかれた。それまで訊かれていた、好きな科目とか、好きな食べ物とか、渋谷のこととかとは違っていた。
「え、キャベツ高いん?」
「そうじゃって。親戚のお姉ちゃんが東京に住んでるんよ。で、そう言うとった。野菜ぜんぶ高いんじゃけど、特にキャベツじゃって」
 イヌモリさんは僕の答えを待つわけでもなく、隣の女子と話し始めた。キャベツが高いかどうかなんて、僕は考えたことがなかった。そういえばお母さんがそんなようなことをぶつぶつ言ってたこともあったかもしれないけれど、そういうのは大人が考えることだと思っていた。イヌモリさんは大人だった。
 僕はテレビの歌番組をよく観る。岡山に来て最初にびっくりしたのはチャンネルが東京と違うことだった。番組の内容も違う。お笑い番組が少し多い気がする。東京のテレビにも出ている人がこっちにも出ていたり、出ていなかったりする。お笑い番組はあまり見すぎないように言われているので、僕はお父さんの見るNHKのニュースや、歌番組を見ることにした。乃木坂46が特に好きだ。なんかわいわいとしているけれど、余計なお喋りはしない感じが(見えないところではしているかもしれないけど)、周りの女子たちとは違ってよかった。
 イヌモリさんは乃木坂46に入れると思う。というか、たぶん「センター」になってしまうと思う、入ったらすぐに。それぐらい彼女は美しい。目は大きいし、肌は白い。鼻もまっすぐのびてこれ以上なくきれい。そして、ほっぺたは少し赤い。笑うと片方だけにえくぼができる。そのくぼみに触れてみたいと思うことがあるけれど、そんなことを考える自分が少し気持ち悪い。
 イヌモリさんのことをかわいい、と思っている男子は結構いる。モトキとヤマモトは確実に彼女のことが好きだ。その他にも絶対いる。彼女に意地悪をしたり、エッチなこと(ちんちんとかセックスとか)を言ったりするやつもいる。エッチなことを言うやつは、殺してやろうかと思うくらい腹が立つけれど、僕はケンカをしたことがない。その相手を虫歯菌みたいにバイキンだと思って、奥歯をぐっと噛むことで抑えている。エッチなことを言われても意地悪をされても、イヌモリさんは堂々としている。なんというか、彼女は自分がそうされるのをどこか「仕方ない」と思ってるようにみえる。それはつまり、自分の美しさを分かっているということだ。僕は自分のことがよく分からない。ときどき胸がざわつくときがあったり無性にイライラしたり、逆に気付いたら笑っているときもある。きっと他の同級生たちだってそうだ。けれどイヌモリさんは違うのだ。それは少し恐ろしいという気もする。僕が分かっていない僕のことも、彼女は見抜いているんじゃないかという気になる。僕の気持ち悪い部分もふくめて、ぜんぶ。

 結局朝の裁判は、あほのハヤシが泣き出して、そうしたら五人のうち四人が泣き出して、みんな「ごめんなさい」とあやまって終わった。怒られてないのに泣いているやつもいた。そんな雰囲気だったから、一時間目の算数はとても勉強に集中できる気はしなかった。みんなちょっと下を向いていて、青柳先生もあまり盛り上げるつもりはないようで、シャーペンとノートのページをめくる音だけが響いて、静かなまま終わった。 
 二時間目は音楽室で音楽の授業だった。先生は小西先生だから、ここから少し雰囲気が戻ってきた。男子がうるさくなり、女子が笑いながらそれを注意したりするいつもの授業になってきた。僕はさっきまでどこか落ち着かない気持ちでみんなをうかがっていたけれど、そうやっていつもの感じになってくるとそれはそれでなんだかムカついていた。反省してないのか、と心の中でみんなを叱りつけた。もう一度思い出せ、石けり事件を。というかお前たち、普段からうるさい。わあわあきゃあきゃあと、すぐ調子に乗る。すぐ泣く。ふざけ合ってたくせに急にムキになってケンカしたり、授業中、鼻くそを食べたりする。イヌモリさんを見ろ。彼女は鼻くそなんて食べない。常に清潔。笑って喋ることはあってもうるさくはしない。むしろうるさいやつを注意する。スカートをめくられたって怒りはしても泣かないし、相合傘を黒板に書かれても笑って消してくれる。大人だ。みんな大人になれ。
 でもこの声は誰にも届かない。山奥の滝みたいに美しいイヌモリさんは真剣にリコーダーを吹いている。指先まで美しい。
 三、四時間目は完全にいつもどおりのクラスだった。あほのハヤシですら、分からないくせに手をあげ、さされては「わっかりましぇーん!」とか言ってふざけていた。クラスメイトも、青柳先生も笑っていた。僕はずっと黙ってそれを見ていた。
 給食の時間になった。四人ずつの席にみんな座っている。僕とイヌモリさんは別の班なのだけれど、ちょうど真横の位置に彼女がくるので、緊張しながらも嬉しく思う。今日の給食は中華丼だった。美味しそうな匂いが教室中に立ちこめる。先生のいただきますで、みんなが食べ始める。がやがやとみんなの声がする。かしゃかしゃと食器がこすれる音がする。
 同じ班のメンバーも同じように自由な雰囲気で給食を食べているけれど、僕にはあまり話しかけてこない。僕はみんなの言葉が苦手だ。「岡山弁」というやつだとお父さんが言っていた。クラスのみんなは普通に岡山弁を使う。「まーが」とか「○○じゃ」とか「○○けん」とかいう言葉があちこちで飛び交う。テレビからも聞こえてくる。近所のおじさんもおばさんもおじいさんもおばあさんも岡山弁だ。僕はなんだか周りのみんなが裏で手を組んでいて、でたらめな言葉でわざと喋っているんじゃないか、とさえ思っていた。岡山弁は一向に覚えられない。だからみんなと話すこともあまりない。別にいじめられてるとか思わないけれど、僕はたぶん「ほとんど喋らないやつ」としてみんなに認識されたのだ。それで構わない。
 そのとき、ガラっと教室のドアが開いた。事務の先生が顔をのぞかせた。
「先生」と青柳先生のことを呼ぶ。青柳先生はスプーンを置き、事務の先生のところへ行った。二人でひそひそと何事か話している。そうして、青柳先生は僕たちの方を見て、
「みんな静かに食べろよ」と告げて教室を出ていった。一瞬、教室は静かになった。朝の雰囲気が戻ってきたかのようだった。けれど次の瞬間にはまたお喋りが始まった。僕はドアの方を見て、また事件か? などと考えながら中華丼を口に運んだ。ちらっとイヌモリさんを見る。彼女は静かに牛乳を吸っていた。
「ドゥンドゥードゥードゥン、ドゥンドゥードゥードゥン」
 耳慣れた音楽を口ずさみながら、急にスドウが立ち上がった。映画のミッションインポッシブルだ、と僕は思った。
「ミッションチンポッシブル!!」
 スドウが股間のあたりをおさえながら叫んだ。教室が静まった。なぜか、奇跡的に、誰ひとり笑わなかった。すべった、と僕は思った。調子に乗るからだ。スドウは周りをきょろきょろと見回しながら、黙って座った。
 ぶほっ! と音が響いたのはそのときだった。音の原因がなんなのか僕には分からなかった。視界の端で、イヌモリさんがうつむいたのだけが見えた。
「イヌモリさん」
 イヌモリさんと向かい合わせに座っている女子のナガノが言った。
「イヌモリさん、鼻でとるよ」
 僕はふとイヌモリさんを見る。
 イヌモリさんは手で鼻のあたりを覆っている。みんなの視線が彼女に集まるのを感じた。彼女の手からぽたぽたと液体が垂れた。白い。
「イヌモリさん……鼻から牛乳でとるが!」
 ナガノが叫んだ。
 ダイナマイトが爆発したように、教室に笑い声がはじけた。ぴしゃぴしゃと手を叩く音が混じる。ガタガタと机が、椅子が鳴る。
「ほんまじゃ! イヌモリさん牛乳出とる!」
 数人の男子が立ち上がってはやし立てる。
「しかもチンポッシブルで笑っとるが!」
 ぎゃはははははは、とみんなが笑った。
 僕は彼女の紅潮していく横顔を見ていた。なんだこれは、と思った。イヌモリさんが牛乳を鼻から吹いている。こんな光景がこの世にあることが信じられなかった。騒いでいる同級生たちの声が、壁のように僕の耳にぶつかってくる。なにかの冗談だと思いたかった。僕は彼女の完璧な姿を思い出していた。蛇口から水を飲んでいるときも、体育で走っているときも、授業で発表しているときも、掲示板におしらせを貼っているときも、ただ一度だけ、近所のスーパーでお互いの家族連れで、偶然出会ったときも、彼女は完璧に美しかった。その彼女の像がはじめてゆがんだ。くもった。彼女は一点を見つめたまま動かない。手が震えている。僕の手も震えていた。
 みんなこのときを待っていたのか、という考えが僕の脳に浮かんだ。完璧な彼女がくずれるこの瞬間を、みんなどこかで待っていたんじゃないか。想像して期待して夢を見ていたんじゃないか。
 すべては敵だったんだ。
 気がついたときには立ち上がっていた。
 教室の空気が少しずつ硬くなっていく。笑い声が小さくなっていく。みんな僕を見ている。全然喋らんナグモが、なにを言う気じゃ。
「病気かも!」
 僕ののどはかさかさに乾いていた。は? とどこからか声があがった。僕の頭は段々白くなっていく。
「白い血が出る病気があるんだよ!」
 自分がなにを言っているのかよく分からなかった。みんな僕の次の言葉を待っている。
「東京で聞いたことあるんだ! 見たこともある!」
「……お前なに言うとん」
 スドウが言った。僕は彼を睨みながら、
「知らないのかよ! みんな離れろ!」と叫んだ。
「白い血には触っちゃダメだぞ!」
 僕は席を離れ、教室の後ろに干してあった雑巾を持ってきた。ざわつきがちがう形で戻ってきた。僕はイヌモリさんのところにいき、床についた牛乳をぬぐった。悲鳴があがった。イヌモリさんの隣に座っていたその子の机には牛乳が飛んでいた。
 僕は無言でそれも拭いた。
「お前もさわんなよ!」誰かが言った。
「僕は大丈夫なんだ」と言い返す。そしてイヌモリさんの手首をつかんだ。彼女の肩に力が入るのが分かった。顔は見れなかった。
「とにかく保健室だ!」
 僕は彼女の腕を引いて走り出した。ドア方向に立っていた男子が大げさに避けた。
 廊下はひんやりとしていた。僕はとにかく走った。彼女はなにも言わない。廊下のつきあたりまできて、階段をのぼった。保健室に行く気などなかった。ただ、誰もいないところへ行こうと思った。誰も空気を吸っていないところ。なんの音も聞こえないところ。二回か三回ぐるぐると回りながら上がって、階段は終わった。大きな鉄製の扉がある。屋上へとつながる扉だった。足を止めてドアノブに手をやり、力をこめる。ドアノブは回らなかった。
 僕ははあはあと荒い息を吐いた。全身の血がぐるぐると回っている気がした。
「……なんなん?」
 イヌモリさんの声がした。僕は振り向く。初めての生き物を見るような目で、イヌモリさんは僕を見ていた。
「なんなん?」
 もう一度言った。その声には混乱と怒りがこもっていると思った。
「なんでそんなしょうもないうそつくん? 白い血出る病気なんて嘘じゃろ」
 僕はただ彼女の目を見ていた。そんな風に怒りをあらわにする彼女を見たことがなかった。
「教室もどれんが!」
 彼女のあごに、まだ白い水滴がついていた。僕はそれを拭いたかった。でも彼女に触れることはもうできないだろうと思った。
「ミッションインポッシブル、観たことあるよ」
 僕は言った。体から力が抜けて、立っているのもやっとのようだった。胸が痛い。
トム・クルーズがヘリコプター操縦したり、ビルからビルに飛んだりすんだよ。お父さんが言ってた。トム・クルーズのアクションはやばいんだって。いつ死んでもおかしくないんだって」
 イヌモリさんの目の色はあまり変わらなかった。僕はかまわずに喋った。
トム・クルーズって離婚したり色々ひどい目にあって、それでそうやってめちゃくちゃなことやるんだって。だから、」
 僕は大きく息を吸った。
「チンポッシブルで笑ってしまうのは、逆に分かる」
 二人とも黙った。誰かの声がした。青柳先生かもしれない。
「……いや意味わからん」
 イヌモリさんが言った。そしてその場に座り込んだ。僕は立ったままそれを見つめた。声が下から近づいてくる。先生の声だとはっきり分かった。
「分からんけど、分からんけどな、今は」
 イヌモリさんが僕の膝のあたりを見つめている。口元が笑っていた。
「いつか分かるんかな」
 イヌモリさんが僕を見上げる。どこからか入った光が彼女の顔を立体的に光らせている。小鼻の脇にできた影に、永久に住みたいと思った。
 
 それが僕と妻との出会いだったのです。
 というナレーションが頭の中にぶわっと浮かんだ。
 やっぱり僕はバカだな、と思った。

夏の獣

 姉が未知をおいて家を出てから三日が経つ。ふらっと訪れた実家である我が家で、姉はそうめんを少しだけ食べた。ほとんどの時間をリビングに座って過ごした。私は数学の期末試験の成績がすこぶる悪く、夏休みの補習を課せられていて、暴力的な暑さの中を学校から自宅まで自転車を走らせて帰った。玄関に見慣れないからし色の靴があって、姉が来ているのだと察した。リビングに入った私に姉は待ち構えていたように視線を走らせて、おかえりと言った。うん。私は言葉につまってしまい、そう返したあと汚れてもいない紺色の制服スカートに視線をやり、パンパンと手で払った。じゃあじゃあと蝉の音が窓にぶつかっていた。姉はリビングのテレビ前の座卓についていて、姉の前にはそうめんがあった。ガラスの器に入れられためんつゆが茶色の中に日差しの白を含んでいた。姉の箸はいつもと同じ箸だった。姉が出て行く前に使っていたものをそのままとってある。朱色の塗り箸は修学旅行かなにかで、姉が自分で買ってきたものだったはずだ。
 おかえり、と隣の和室から母の声がした。私はリビングから和室をのぞいた。そこには母と未知がいた。未知は布団の上に寝かされていて、母は未知に掛けられたタオルケットの上、お腹のあたりに手をあてて微笑んでいた。そうめんを茹でるから、と母は言って立ち上がった。母が台所へ行ってからも私は和室の入り口で未知を見ていた。未知はいくつになるんだろう、たぶん一歳を少し過ぎたくらいだ。
「似てる?」と姉が訊いてきた。私は未知の方に視線をやったまま「どうかな」と答えた。実際のところなんともいえなかった。目のあたりが姉に似ているかもしれないがそれはまつげが長いというだけだし、第一、相手の男の顔もしらないのだ。それよりも未知の大きさが気になった。半年前に見たときとずいぶん違って、ふくふくとしている。
「すごい大きくなった」と私が声に出すと姉ではなく母がそりゃね、と応えた。未知は頭の毛がまだ薄い。茶色い毛がふわっと綿菓子みたいにのっている。黒々したまつ毛の目を閉じ、小さな口を開けて未知は眠っていた。ぴくっと痙攣するみたいに右肩が動いた。そのしぐさがとても人間くさくて、同じ生き物なのだという当たり前のことを私に意識させた。姉は、その日の夜中に消えた。

 姉の住んでいたアパートに着くまで父はほとんど無言だった。声を発したのは途中で走った川沿いで、橋の向こうに夕日があって川面に乗っかっているように見えたとき、思わず出たという感じの「おお」という一言だけだった。それは唸り声のようにも聞こえ、少なくとも私に向けられたものではないと思った。父はアパートまでの道を、カーナビも使わずにたどった。よく覚えているなぁと思った。父と母は二回ほど姉のアパートに行っているけれど、私がしらないだけで本当はもっと頻繁に行っていたのかもしれない。
 ドラッグストアの隣のタイムパーキングに車を停めて、父は「こっち」と信号の方を指差した。夕方になってもアスファルトは昼間の熱をそのまま帯びていた。足首のあたりまで、見えない手でつかまれているように熱気に浸かっている。サンダルと地面が接着するパシンパシンという音を響かせながらコインランドリーの角を曲がり、一方通行の路地を数十メートル行ったところで父は足を止め、左側のアパートを見上げた。203という部屋番号だけは私も覚えていて、同じく見上げて立ち止まった。そういえば今日は風がないなと思った。
 どうして父と二人ここに来ようと思ったのか、そのときにはもう忘れていた。父もそうなのではないかと思う。ここに姉がいる気はしない。それでも父はなにかせずにはいられなかったし、私はきっと家にいたくなかった。家の中は空気が止まっている。完全に静止しているわけではなくて、表面上止まっていて、その奥深いところでどろどろと流れているような不穏さがある。いまこの瞬間になにかが弾けてしまいそうな予兆だけが延々続いていくような緊張感。そして、それなのに未知だけはその流れの中にいない。彼女だけが日常と地続きに存在している。
手すりのついた階段を父がのぼっていく、カンカンと金属を踏みつける音がする。階段下にはそこだけ最近付け加えられたように真新しいメールボックスがあった。手すりをにぎるとさびの粉っぽい感触があり、手を引っ込めた。階段の途中に蝉が腹を見せて死んでいた。のぼって外通路を一番奥まで進むと姉の部屋だった。父は私がついてきたのを視認してからかぎを回した。
姉の匂いがするかと思っていたのでドアが開いたとき、自然と眉根を寄せていた。けれど香ったのは埃と日陰のカーペットのような匂いの混じったものだった。私は姉の匂いが昔から苦手だった。くさいわけではなくて、むしろ少し甘く鼻腔を緩ませるような良い匂いなのだけれど、それはなにか重大な忘れごとをしていて、けれどその違和感すらも消えかけているような幽かなゆらぎで、いつも私を少し緊張させるのだった。
目が暗さに慣れないうちに靴を脱ぎ、廊下を進んだ。むっとする空気に汗が一層噴出する。先を歩いている父が廊下の電気をつけ、しばらくしてリビングもつけた。リビングに入る。そこで立ち止まった父の脇を抜けて、となりの一軒家が見える窓際に立った。殺風景な部屋だった。見るかぎり華やかな装飾はなに一つない。生活するにあたって必要そうな物だけが未知の使う小さなアイテムも含めて、正確に置かれているという感覚だった。父は無言でリビングテーブルの椅子に座った。テーブルの真ん中に郵便物かなにかの不在票がおかれていて、父が他にしようもないという風にそれに触れた。リビングの奥に白い引き戸で仕切られた部屋がある。寝室として利用されているのであろうその部屋には、ベビー布団が敷いたままになっていた。壁のフックには小さな洋服がハンガーに掛けられている。私はなんとなく奥の押し入れが気になり、ためらいなくそこを開けた。洋服の入ったプラスチックのボックスや、ビニールに包まれた暖房器具、大人サイズの布団などが畳まれて入っていた。姉らしい原色系の服が透明なボックス越しに見えたが、実家にいたときあれだけたくさん持っていたはずの服が極めて少なくなっている気がした。
「どこに行ったんだ」
リビングから父のつぶやきが聞こえてきた。語尾がかすれていた。私は応えることもできずに、湿った木の匂いのする押し入れの前にただ立っていた。

家に帰るとリビングに歩き回る未知とソファに腰掛ける母がいた。未知は桃色のやわらかい積み木のようなおもちゃを持って、だぁだぁと声を発していた。私の視線に気づくと声が止まった。怯えたような、好奇心のかたまりのような瞳。私はあわてて視線を母に送ったが、母の目は未知に注がれていた。姉のアパートを出る前に父が携帯で状況を伝えていたので、母はお帰りなさいの他にはなにも訊いてはこなかった。シチューのバターっぽい匂いがリビングに充満していて、急にお腹が空いてきた。
夕食まで未知は眠ることなく遊び、母のとなりで一緒に食卓についた。足まで固定される機能的なデザインの赤ん坊用チェアは、未知が産まれる直前に母が買ってきた物だ。母はそこに座った未知のことをさっきまでと同じ笑顔で見ている。
「まつりにご飯食べさせるときは苦労した」
 母が急に私の名前を出して言った。
「ぐにゃぐにゃタコみたいに動くから、全然座ってられなくて、何度も椅子から落ちるし」
 父がシチューをすする音がした。
「未知は大人しくて手がかからないね」と母が未知に話しかけるように言い、小さなスプーンで掬ったシチューを彼女の口に運んだ。彼女はぽっと口を開けそれを受けたけれど、口角から白い液体がとろっと垂れた。母はやはり穏やかに笑ってそれを指で拭った。
「お姉ちゃんは大人しかった?」
 私は訊いた。父の手が止まったのが分かった。母は未知から私へと視線をやり、「莉生(りお)は……」と少し考えてから言った。
「いつも寝てたような気がする。一度眠ると長いのよ、とにかく。それで助かるは助かるんだけど、でも色々心配だった」
 母の目が天井の隅の方を見つめる。
「考えごとしてることも多かったじゃない? それも、なにか変わったことを」
 姉は雄弁なタイプではなかった。周りでなにか起きていても、一人だけじっと空の雲を見つめているような人だった。それでいてその思考内容はどうでもよいことが多くて、換気扇の回る音がどしゃぶりの雨の音と似ていてこれが本当の雨だったらと思うとぞっとするとか、爬虫類の鮮やかな発色は一体なにに対するサインなのかとか、ときどき考えていることを教えてくれた。そのどれもが(覚えている限りで)私にとって共感しづらいものというか、そうかもしれないけどそんなこと考えてなにになるのという苛立ちに近い感情を抱かせるようなもので、私が苛立っていると分かると姉は「まぁどうでもいいけど」と笑った。その姿にまた新たな苛立ちを覚えてしまう私は、姉のなにかが決定的に自分とは異なっているという事実を認めざるを得ないのだった。
「だからって、娘をおいて出て行くなんて」
 父が言葉を発して、白飯をいまいましそうに頬張った。
「母親失格だよ」
 母は父の方をぼんやりと見つめて、「そう簡単に決めつけれるものでもないから」と言った。
「決めつけるもなにも」
 父の声に一層の怒気がこもった。こんなに感情をあらわにする父はいつ以来だろう、と思った。
「現に、莉生は消えて未知は一人ぼっちじゃないか」
 私は未知を見ていた。未知は言葉にならない声を発して、首を見たいものの方に曲げ、なにかを捕まえようとするように手を動かしていた。
「……できることをするしかないでしょう。いまは未知を……」
 母もまた未知に視線を戻していた。言葉は継がず、未知の頭を形にそってなで、シチューを彼女の口に運んだ。じゅる、という音が沈黙の中に浮かんだ。
 父はその後、無言で食事を終えて二階に上がっていった。母が洗い物をしている間、未知と遊んだ。遊ぶといっても、未知は勝手に動き回り、私はそれをなんとなく見守っているだけだった。それ以上関わろうとする意志はなかった。リビングテーブルの下をハイハイして戻ってきた未知から、ぷうんと刺激臭がした。おむつを確認すると未知は大便をもらしていた。母にそれを伝えると、母は顔をくしゃっとさせて「あらあら」と言い手を拭いておむつを取りに行った。

 夜中に暑さで目を覚ました。エアコンが停まっていた。体の下にリモコンがあり、いつの間にか消してしまったようだった。首のあたりがじとっと濡れているいやな感覚があった。Tシャツを持って階下のリビングへ降りていく。リビングには小さな非常灯が黄色い光を放っていた。静けさの中に冷蔵庫かなにかが動く音がただよっていた。廊下を伝い、脱衣場で体を拭いてTシャツを着替える。リビングに戻り、冷蔵庫からウーロン茶を取り出しコップに注いだ。
「寝れない?」
 と暗闇から声がして体がびくっと反応する。シルエットが近づいてきて、母の顔が非常灯の明かりに照らされた。母はそのままリビングの椅子に腰掛けた。母は薄手のパジャマ姿だった。見事に黒い髪が闇に混ざり、顔の白さが引き立っていた。ふっと息を吐く母の姿が、なぜだか異様に若く見えて驚いた。
「ううん、暑くて」と応えた私は、突然その場にいることがいたたまれない気持ちになり、慌ててウーロン茶を飲みほした。
「よく寝てる」母が言った。「未知」
「あぁ」和室の仕切りは開いているが、未知の顔は見えなかった。
「心配?」
 母が訊いてきた。すぐに姉のことだと察した。私は自問した。心配なのだろうか、この気持ちは。ざらざらとした感覚がそうではないと言っているように思えた。私が姉に感じる気持ちはいつからかすべて違和感の内側にある。でこぼこの、組み合うことのないパズルのピースのように私たちは存在していると思っていた。母はそれに気づいていないのだろうか。それで、こんなことを訊いてくるのだろうか。
「大丈夫じゃない?」
 私は母の顔を見れず、自分のつま先を見ながらそう言った。
「なんかさぁ、大げさに心配してもって感じ。そのうち戻ってくるよ」
 私はいま、母の欲しい言葉を喋っているという気がした。自分の放つ言葉はどこまでが本当に自分のものなのだろう。ときどきそれが分からなくなる。母のため息のような鼻息が聞こえた。
「そうね。それまで、まつりにも迷惑かけるけど」
「ううん」
 私はそう言って流しにコップを置き、足早に二階の自分の部屋を目指した。
 エアコンのスイッチをつけベッドに仰向けになると、自分の心臓の鼓動が聞こえた。どっどっどと、はやし立てるような急き立てるような速さで体を血がめぐった。私は姉の顔を思い浮かべようとしていた。あんなに見慣れた顔が、いざ浮かべようとすると正確にはいかないようだった。そうして天井を睨んでいるうちに、私は眠りに落ちていた。

 未知が熱を出したのは、それから二日後のことだった。朝から桃の皮のように赤い顔をしていて、母が熱を測ると39度近くあった。私は病院に連れていくのだろうかと考えたけれど、母は冷静に未知を観察し、一日様子を見ると言った。
「赤ちゃんってよく熱出すのよ。全部病院行ってたら大変」
 そういうものなのか、と思いながら未知を見る。目をぱっちり開き、いつものようにだぁだぁと喋って手足を動かしている。どうやらそれなりに大丈夫そうで、私も少しの安堵を覚える。その後、昼までを二階の部屋で過ごしまたリビングに下りてくるといつもどおり遊ぶ未知の側で怪訝そうな表情を浮かべる母の姿があった。どうしたの、と訊くと「未知がごはんを食べなくて」と返事があった。
「元気そうなのに……ごはんだけ食べないの」
 テーブルの上にはお茶碗に入ったごはんがそのまま残されていた。母は少し焦っているように見えた。やっぱり病院行くべきかな、とつぶやいて立ち上がり、昨日の残り物からなる私の昼食を用意した。私が食べている間も、やはり未知は食事ができなかった。
 午後を近所の市立図書館で過ごし、夕方帰宅した。玄関で靴を脱ぎながらリビングの方を見たけれど、日はだいぶ傾いているのに明かりがついていなかった。ただいま、と言いながらリビングに入る。そこには誰もいない。和室の方を見た私の視界がぐらっとゆらいだ。そこには未知と母がいた。母は上半身をあらわにして、その乳房に未知が吸いついていた。
「まつり」
 声も出ずにその場に立ち尽くしていると母が気づいて私を見た。隠しごとを見られたような硬い表情が、徐々に笑顔に変化していった。
「なにしてるの」
 私は声をしぼり出した。
「お乳を、あげてるの」
 母の優しい声音が、むしろ不気味に響いた。和室の窓から黄色い日差しが差し込み、母を後ろから照らしている。体の柔らかな輪郭を強調し、畳に薄い影を落としている。私はおそるおそる近づいた。
「お乳なんかでないよ」
 私が言うと母はゆっくり首を横に振って、
「私もね、そんなわけないと思ってたんだけど。昼間っからやけに胸が張ってたの。なにかの病気かなって思ってたら未知が触るの。そうして試しにね、やってみたら出るの」
「そんなわけないでしょ!」
 制御できない大きな声が出ていた。未知が一瞬びくっと反応したように動きを止めた。しかし母が頭をなでると再び吸い始めた。真面目な顔で一心不乱に乳を吸っている。母は顔をうつむかせ未知を見ている。和室の入り口で私は再び足を止めた。母の横顔が、異様なほど若く見えた。十歳もニ十歳も若返ったようだった。白い肌はかすかにオレンジがかっていて血色の良さを示している。首から肩にかけてのしなやかなラインが、日の光を浴びた稜線のようにみえた。
「まつり。そういうことなのかもね」
 母は横顔のまま私に話した。
「神様が私にこの子を……」
 私は言葉にできなかった。この感情に名前がつくとは思えなかった。ただの嫌悪でも憎悪でも驚きでもない、誰に向けられたものなのかも分からない、黒々とした沼のふちで近づいてくる雷鳴に耳を澄ませているような、身じろぎすらできない混乱の中にいた。
 無言で自室に上がり、ベッドの上に倒れ込んだ。壁を見つめながら、なにか考えようにももやがかかったように鮮明にはならず、かといって眠ることもできないまま、ただじっとしていた。日が陰っていき夜になった。部屋のドアがノックされ、母が顔をのぞかせた。夕食はいらないと言うと母は驚いた声で、体調悪いの? と訊いた。私はうなずき、その後の問いかけには答えずに布団をかぶった。母は去り際、未知の熱が下がってきたと言った。遠ざかる足音とともに目の前がふと重くなり、眠気がおとずれた。

 ふたたび目が覚めた。全身はうっすらと汗ばんでいる。携帯で時間を確認すると一時を過ぎていた。重たくなった体をなんとか引き起こし、床に足をつく。窓の外から虫の音が網戸越しに部屋に侵入してくる。住宅街の真ん中に一人だけ取り残されたように人の気配はなかった。部屋のドアを開けて廊下に出る。父が寝ている寝室の扉はめずらしくきちんと閉められていた。壁に触りながら廊下を伝い歩き、階段を下りた。リビングには誰もいない。この間は目立って聞こえた冷蔵庫の稼働音も、今日はそれほど強調されていなかった。すべてのものが均質に並んでいる部屋の中に、私だけが異物としてある。
 左足が椅子の足に引っかかった。椅子はガタっと音を立てた。思わず未知と母が寝ている和室の方を見る。ふすまは閉められていた。一瞬安堵してから、いつもは小さく開けられているふすまがきっちりと閉められていることに違和感を覚えた。私の足は自然と和室の方へ向かっていた。和室に母がいる、起こしてしまうかもしれないと思うとためらう気持ちはあったけれど、それ以上になにか確かめずにはいられない気持ちの不安がまさった。和室のふすまを極力ゆっくりと少しだけ開けた。入り口の近くにいつものように未知が寝ているのが見えた。未知の寝息は耳を澄ませても聞こえない。ただ小さな体がじっと動かずに横たわっている。となりに寝ているはずの母の姿がなかった。そのとき階上から、ギッとものがゆがむような、軋むような音が聞こえた気がした。音は一度だけで、いくら耳を澄ませてもそれ以上は聞こえてこなかった。気のせいだったかもしれないと思いながら、私の中でむくむくと黒いかたまりが膨らんでいくのが分かった。
 父と母は寝室にいる。そう思うと、なぜだか鳥肌が立った。その程度のこと、想像したことがなかったわけでもないのに、なにひとつ悪いわけでもないのに、怒りがぐらぐらとわいてきた。上半身裸の母の姿がよみがえる。けれど私は、なにに対して怒っているのかいまひとつ分からないでいた。怒りは放射状にあらゆる方向に向けられているようだった。私は、自分が怒りそのもの、憎しみそのものになったような気がして、ひどく悲しかった。自分という生物はとっくに両手足をもがれて、感情に飲み込まれていたのに、そのことに気づかずにいたことが悲しかった。いや、気づいていただろう。気づいていて見ないふりをしてきたんだ。私は血の通わない体で生き物を演じていた。触れたってその温かさを、神経の通ってない私の指先は感じることができないのに温かいふりをして。
 私は畳の上に膝を落とした。ざらっとした感触が膝にあり、視界には未知の寝顔があった。安らかすぎる寝顔があった。途端に、私の頭の中は未知のことでいっぱいになってしまった。未知はまだその手足にしっかりと血を通わせ、あらゆるものに触れ、あらゆる感情を過ぎらせて、笑い泣くだろう。そのことがただただ堪らないことに思えた。私は少し痺れているような感覚のある両手を未知の首に添えた。どこまでも沈んでいきそうな柔らかみのある感触が指を包む。不埒な悪意の前に人間は無力だと思った。まさかそんなことが起こるとは思わないことが、現実には起こり、起こった後でようやく人々は悲嘆にくれるしかない。私がこうして首に手をかけ未知を殺そうとすることを誰が察することができるだろう。人は人を信じるしかない。それは前向きな意味などではなく、ただ疑っても疑っても底がないからだ。疑いきることができないからだ。親指に力を込めようとして私は目をつむった。
「まつり」
 と声がした。
 目を開ける。そこには姉の顔があった。私は姉の首に手をかけていた。姉は私を見据えていた。その顔には心のゆらぎは一切見えなかった。「まつり」と姉がふたたび呼びかけた。私の手は震えていた。
「ずっと嫌いだった」私は声に出した。
「私も」
 突然視界が滲んでいく。心臓がはち切れそうに膨らんでいる気がした。何度も息を吸い込み、それ以上の量を吐き出した。顔が自然とうつむき、体には力が入らなかった。
 えっえっと声が聞こえて、私は顔を上げた。そこにあるのは未知の顔だった。未知の声だった。
 未知が泣いた。あぁあぁと声を上げて泣き出した。私の両腕は未知の枕元に落ちていた。私は未知のお腹に耳をあてた。泣き声がくぐもって聞こえて、一瞬けものの咆哮のようだった。私は未知の両肩に手をやり、ただそこにいた。

教室の井戸

 教室の隅には井戸がある。石造りの、丸く古びた井戸だ。上には杉でできた、ささくれの目立つ蓋が乗せられている。井戸の奥を覗き込んでも暗闇で何も見えない。光で照らしてみるとその光さえ吸い込まれそうに暗いが、小石を投げ入れると、数秒の後にぽちゅんと音がするので深くに水を湛えていることだけは分かる。その存在は私にとってやや不便な存在だった。というのはそれが私のロッカーの前にあるということで、ロッカーの扉が井戸にあたり、半分も開けず、教科書などの出し入れに酷く骨が折れた。
 立っとけ、と吉弘はいつもの口調で私に命令し、私は井戸の横に直立不動に立たされた。
吉弘は一番私に近い席に座っており、私のことをじっと監視している。
「脱げ」
 吉弘が、更に命令口調でそう言った。室脇先生の授業は始まっていた。教科書120頁から、と先生は言い、黒板にチョークで何かを書きつける音がカッカッカと聞こえてくる。生徒たちは私に背を向け、教科書やノートを開き始める。びゃびゃびゃと紙の擦れる音が混ざり、響く。
「脱げ」
 もう一度吉弘が言い、立ち上がって私の学ランの肩口を両の手で掴んだ。学ランはまるで紙でできていたかのように力なく破けた。
 先日、最初に捨てられた物は教科書と資料集だった。半分も開かない扉から吉弘は私のすべての物を取り出し、指で千切り、井戸の蓋を転がし、投げ入れていった。それらの内、軽い物は音もなく落ちていき、重い物は数秒の後にどぷんとくぐもった反響音を残し、落ちていった。吉弘の指先は力強さが嘘のように、女子のような細さと、長さを持っていた。幼い頃からピアノを習っているという噂があった。本当のところは知る由もないが、その指は今にも白鍵と黒鍵の上を美しく、規則正しく踊りそうに見えた。
 破けた学ランを更に引き裂き、それもまた吉弘は井戸に投げ入れる。びらびらと風を切りながら、学ランだった布は落ちていく。先生は黒板に「ポツダム宣言」と大きく書く。その文字は右肩上がりで美しいとは言えず、先生自身も気に入らないようで、何度か書き直した。
 制服を買いに行ったのは商店街にあるミズハシ洋服だった。母から貰った三万円を握りしめ、赤錆びた自転車を走らせた。ミズハシ制服の店主は濡れた鼠のような男で、背が当時12歳だった私と同じくらい低かった。背と同じように小さく鋭い目で、新聞から目を上げ、私を見て立ち上がった。制服を、と私は言った。どこの中学とは言わなかったが店主が持ってきたのは私の学校の物で間違いなかった。Lを着てみるか、と店主は風体と違いどこか楽しげに言い、試着室はこっち、と促した。染みのついたカーテンで仕切られた小さな空間に入ると、そこはタクシーの中のような匂いがした。
 タクシーに乗った記憶が甦った。それはまだ私が小学生だった頃、母と私と、恰幅の良い男と三人、銀座で母の服を買っていた時だった。母は浮かれていた。銀座で買い物できるなんて、と口に出して女学生のようにはしゃいでいた。街を歩く人々は、スーツを着たサラリーマンも、派手に着飾った若い女性も、落ち着いた老婆も、皆胸を張って堂々と歩くように見え、少し背を丸め、恥ずかしそうにする母はまるで溶け込んでおらず、私は幼心にみっともなく感じた。目を背ける。百貨店が伸びた先に中庭のように空があり、黒い雲が張っていると思った瞬間、私の目の中に水滴が飛び込んできた。
 突然の雨に、ある男は顔をしかめて茶革の鞄を頭に乗せ、走り去り、長髪パーマの女性はバッグから折り畳まれた水色の傘を広げ、優雅に歩いていく。天気の急変に驚く人々はそれぞれが操り人形のように演技をして見えた。土砂降りの雨に路上は濃く色を変え、水たまりは雲を突き抜けたわずかな太陽光を跳ね返し、鏡のようになる。私は男がタクシーを止めるまでの間、その水たまりを覗き込んでいた。そこには空があり、私がいた。空に向かって落ちていかないことがやはり不思議だった。男がタクシーを捕まえ、母を先に乗せ、次に私、そして最後に自分が乗り込んだ。
 タクシーの車窓から見る街は、まるで幻のように、靄がかかっていて、その中をゆっくりとタクシーは進んだ。タクシーに乗るのは初めて、と私は言う。恰幅の良い男はこれからは何度でも乗れるよといい、私の前を通り過ぎ、母の手を握った。母は静かに笑んでいる。男の顔を、私は思い出せない。
 Lはちょっと大きすぎるかな。服屋の店主は笑った。鏡に映った私は2本足のカカシのように袖を垂らしていた。Mサイズの物を着てみると、それでも少し大きかったが、これから背も伸びる、と店主は私の頭をなぜだか軽く触り、親しげに頷いた。
 教室には40人の生徒がおり、皆一様に黒板の方を向いている。先生は黒板に「玉音放送」と書く。黄色いチョークで書く。私は皆の後頭部をぼうっと眺めた。水野の頭が見えた。
「シャツも」
 吉弘が言い、私のシャツは事も無げに引き裂かれる。ボタンが弾け飛んで、そのいくつかは生徒の足下に転がった。しかし生徒たちは見ることもなく、上履きの黒ずんだ裏側だけをこちらに見せて座っている。シャツを引き裂き、吉弘は井戸に投げ入れる。音はせず、無音の空気が耳を圧した。私は既に肌着一枚で、皮膚を粟立たせ、乳首も硬くなっていた。
 私は母の下着を盗んだことがある。とある梅雨の帰り道、もうすぐアパートに着こうかというところで細い路地から手が伸び、私の鞄を掴んだかと思うとぐいと引かれた。私の体は無抵抗に引きずられ数メートル奥で止まった。雨上がりの路地は湿った空気で澱んでいて、壁をなめくじが這うのが見えていた。私は誰かに背中を向ける形で立たされていた。その誰かが言った。お前の母親の下着を盗ってこい。声で男と分かった。背中には何か尖った形状の物があてられている気がした。私は自然と震えていた。パンツですか、と訊いた。何でもいい、と怒ったような口調で男は言った。私はその間、壁のなめくじをじっと見ていた。あるいは、なめくじが人間の姿を借りて喋っているのかもしれないと思った。
 私は家に帰ると無言で寝室に入った。母は仕事で居ないのは分かっていたが心臓の鼓動が大きく聞こえた。母のタンスを開けると、自分の物と同じ洗剤の香りがした。湿気のため、タンスの中には新聞紙が敷かれていた。その上に並んだ折り畳まれた物の中から、パンツを一枚取り出した。やはり自分の物と同じ匂いがした。途端に気分が悪くなった。何故か母に対して怒りが湧いた。
 先ほどの路地へ行くと男は後ろを向いて待っていた。その手にはビニール袋が握られていた。中には先ほどの尖った何かが入っているようだった。男はその袋に下着を詰めろといい、その通りにした。男の顔は覗こうと思えば覗けた。しかし私はさっきのなめくじを探していた。しかし不思議なことに、あれほど止まっているかのようだったなめくじは、既にどこかに消えていた。
「下も」
 吉弘は無表情にそう言う。その声に、教室の連中が耳をそばだてているのを感じた。先生は振り向きもせず、「人間宣言」と黒板に書く。
 私は真っ直ぐに吉弘を見る。吉弘は、早く、とぶっきらぼうな口調で続け、拳を握る。その拳で私は幾度となく殴られていて、見るだけで従うしかないと悟らされる、丸い拳。
 がちゃかちゃと私はベルトを引っ張り、それを吉弘が井戸に捨てる。ズボンを脱がされた拍子に、私は床に転がる。どこからか、ちっ、と舌打ちが聞こえた。吉弘は一層荒々しくズボンを掴むと井戸に投げ入れる。私は、下着姿でリノリウムの床に転がっていた。冷たい感触がある。立ち入り禁止の屋上へと続く、4階の踊り場に寝転がり眠っていた頃のことを思う。吉弘と二人、寝転がっていた頃のことを。屋上の扉の曇りガラスから差し込む、僅かな光が、均一に産毛を生やした、吉弘の白い肌に当たり、金色に光らせる光景を。
 90度回転した教室が視界に入る。皆、奇妙に落ち着いている。落ち着いているように見える。群れをなして、自分はその群れの真ん中で安心しきっているように見える。水野のふくらはぎが見える。スカートの下、ややぷっくりとしたふくらはぎが見える。視線を上げる。水野がこちらを見ていた。
 ある日の保健体育の授業で、女子ばかり体育館に集められ、男子と別に授業を受ける日があり、どうも女子は月経や妊娠について講義を受けるらしいという情報が広まった。吉弘は私に命じた。ちょっと体育館行ってこい。
 私は体育館の重い扉を開ける。扉はいつも以上のぎこちなさでやかましく開いた。そこには女子が皆体育座りをさせられ、先頭には保健の川端先生と、奇妙な壺のような形のイラストが貼られたホワイトボードがある。女子たちから一斉に悲鳴と非難の声があがる。きゃんきゃんと子犬のような声が木造の体育館に反響する。川端先生はそれを制しながら、私に歩み寄ってくる。あんたは何をしてるの、と先生は努めて冷静な口調でそう訊く。僕も受けたいです、この授業。それは吉弘に命令された言葉だった。男子は教室、と先生は続ける。あれ、なんですか、先生。教室に戻れ。あれ、子宮ですか。僕もあそこから生まれてきたんです、聞く権利あるんじゃないですか。それとも避妊ですか。男子は避妊のことを授業で教えてくれるんですか。先生は子供いますか。
 張り手が飛んできた。先生は、頬を紅潮させ、もう一度告げる。教室に戻れ。私を非難する声が高まる。変態、死ね、最悪、気色悪い、死ね。その中に、水野の顔があった。やや吊目でショートカットの彼女は柔らかそうな頬を持ち、私を見つめていた。そこにどのような感情があるのか、推し量れない不思議な目だった。私は今までになくいたたまれない気持ちになったのを覚えている。
 あの時と同じ目が私を見ている。私はその時、自分の感情が体のどこにあるのか、知った気がした。先生は「GHQ」と書き、消す。床に倒れたままの私の髪を掴み、吉弘が引き上げた。そうして井戸の縁へ私の頭を持ってくる。井戸の中が見えた。そこには教室の照明があるにも関わらず、網膜に貼り付くような闇がある。すぐにでも手が届きそうで、どこまでも終わりがなさそうな穴。こおおおと音だけが反響し、脳の中へと侵入してくる。
「お前なんて要らない」
 吉弘の声が聞こえる。その声は森の静寂に紛れるくらいの自然な声だ。それでいて、根源的な邪悪を感じさせる声だ。
「僕なんて要らない」
 私は応じる。その反応に、吉弘は少し驚いたようにも見えた。
「君は要るのか?」
 私は言った。吉弘の顔が紅潮するのが分かった。
「君の願望を叶えてきたのは僕なんだよ」
 私と吉弘が、学校外で初めて出会ったのは、スナックやバーの立ち並ぶ、どぶの臭いのする路地だった。私の母の勤めるスナックの前に、彼は座っていた。月明かりが容赦なくこの路地の薄汚れた細部を照らしていた。先に声を掛けたのは、私の方だった。どうしてこんな所に。吉弘は顔を上げた。うちの母も働いている、吉弘はそう答えた。私は頷き、黙って座る他無かった。私たちは、母たちの仕事が終わるまでここに居るわけではない。ただ、まだ長く続く予感のする夜の端っこで、出来る限り近くに居たい夜があったのだ。そうやって吉弘と何度か会う内に、川へ行かないか、と誘ったのは吉弘だった。
 やはり月の出た晩だった。川は月の光を写していた。吉弘と川べりに座り、時々、何か魚が跳ねるのを見届けた。川の流れは絶えず一定で、流動しているにも関わらず静止しているようにも思えた。お前のうちは片親なんだよな。ぽつりと吉弘が言った。私は頷いた。うちには父が居るんだ、と彼は続けた。何もしない父親が。私は黙った。すると彼は笑った。お前は黙ってばっかりだな、と。けれどそれがいい、とでもいう風に。私は答えようとして黙った。なるようにしかならないから、という言葉をそっと呑み込んだ。
 それから私たちは行動を共にするようになった。吉弘は学校内において、絶対的な力を持っていた。それは彼の端正な容姿や、単純な喧嘩の強さもあったが、悪魔的と言っていい、謎めいた魅力によるものだっただろう。それでも大勢を侍らすことを彼は嫌った。ただ、私だけが側に居た。
 吉弘の母親が亡くなった。夫からの暴力が日常的に奮われていたことが明らかになった。私たち二人の関係がねじれたのはそれからだった。悪魔が、本性を見せた。それでも私は思う。
 私と吉弘は表裏一体でしかないのだと。背中を縫い合わせた一対の人形のように。
「何なんだお前は」
吉弘の声。水野が席を立ったのを視界の端に捉えた。連合軍の占領下となる。
「僕は君と一緒だ」
日本国憲法。ガタガタと椅子と机が動く音。私は井戸に飛び込んだ。
 私の母は豆腐屋で働いている。しんと冷える水の中に雪のように白く四角い塊が沈んでいる。汗を拭う。青いホースが引っ切りなしに水を運ぶ。ホースはとぐろを巻き、ゴムの長靴の側でどくどくと音を立てる。
 夜はスナックで男に買われる。値段を聞いたことはない。くたくたになって帰ってくる母を、私は眠った振りで迎える。私の寝顔を後ろから覗く母の顔を意識する。その顔は微笑んでいる。
 夜は長く長く引き延ばされる。私が増幅し、後頭部から先が伸び、街中を浮遊し、何も見つからぬまま戻ってきた頃、何の保証も無い朝がやって来る。根拠の無い朝がやって来る。無邪気にカラスが鳴く。
 今もまた伸びていく、無重力に近い時間の中で、上から覗く吉弘と水野を見る。水野は笑っている。吉弘は茫然と見つめている。どぶんと水に包まれる。泡が目前で沸き立つ。視界が薄く濁って、何か言おうとした口から水が浸入する。耳にはもうもうと奇妙な音が反響する。体が重くなる。水は肺に達し、手足の感覚は途切れ途切れになり、信号はやがて完全に途切れる。温かい水が目から流れ、その瞬間私の意識は教室を俯瞰で眺めている。
 水野が腕を回し二人は抱き合う。チャイムが鳴る。先生が板書をやめる。教科書は閉じられる。水野の膨らみがある。私の膨張がある。吉弘がこちらを見る。
 私は膨らんでいく。水野を取り込む。吉弘を取り込む。40人の生徒を取り込み、教室を取り込む。学校を取り込み、あの路地を取り込み、川を、家々を、この街を取り込んでいく。
 この速度では、いずれ太陽も月も取り込むだろう。
 そう思った瞬間、私は突然に収縮を始める。収縮の果てにぽっかりとした空洞に宿る。そこは誰かの子宮であるかもしれない。不意にそう思い、瞬間意識は途切れた。蓋を閉じられた井戸のように。
 その教室に井戸はあった。今もなおそこにあるのかどうか、私には知る術も無い。

団子

 独りぼっちのシーソーのようだと思う。私の不安感は得体のしれない軽さをもって私とは正反対に浮かんでいる。地に着いている私は、その足の裏の感触にただ満足すればいいはずなのだけれど、なぜか空に向かって伸びているシーソーの先を思い浮かべてしまって、軽ければ軽いほどそれは頭の中を占領してしまって、遠慮がちの自律神経を一層萎びさせてしまう。人混みのくもった体温の中で、だから私はうっすらと汗ばんでいる。
 太陽が黄色い光を放ちながらうずくまっていく前の渋谷駅前、一体どこから湧いたのかという人の多さで渦のように流れていて、ただ立ち止まっているのも億劫で、喫煙スペースに身を寄せる。普段は吸うのだけれど、今は他人の煙で充分な気がして、自分の煙草を出さなかった。透明な屋根のついたその部屋は天気も分からないほど煙で覆われていて、疎外されているような、集団で拒絶しているような気持ちになる。何人かの人が、煙草を出さない私を見ていた。けれどしばらくすると視線を自分の携帯や、腕時計に戻す。私のちょうど向かい側の男性はスーツ姿で、丁寧にサイドを刈り上げたツーブロックがワックスで光っていた。童顔気味の顔は、濃い眉をもう少し薄く脱色でもすれば、自分のタイプだと思った。彼の指にはリングの類は見当たらない。年齢は私と同じか、もう少し下だろうか。私は想像する。彼がついでに整理しようと取り出した名刺入れがコンクリートの床に落ちる。あ、と彼が言って私の足下に数枚、白くて四角い名刺が滑ってくる。無言で拾って目を見て渡すと、済みません、と彼は小声で言うだろう。私は、いえ、と短く返す。それからいそいそとここを出た私の背中に声がかかる。あの。ありがとうございました。これ、僕のなんですけど、今度よかったら。彼の手に名刺がある。なんて。
 そういえば自分の名刺がこんなに気軽に手軽に手に入るものだとは、就職するまで思いもしなかった。はい、と入社一年目、不意に課長から渡されたプラスチックのケースに、私の名前の入った名刺が入っていた。明朝体みたいな字体で書かれた名前の下にブルーのラインが入っている以外は真っ白で、それは公式さを過剰なまでにアピールしているように見えた。
 公式さってなに、とその晩、欣吾に名刺を見せて言うと笑われた。笑って欣吾は汗をかいた缶ビールで濡れた指で名刺を触った。名刺の端っこは灰色に滲んで、私は少し怒った覚えがある。安い紙だね、と欣吾が言うのを聞きながら。そのとき欣吾はまだ大学4年だったから、名刺の重みを知らなかったのかもしれない。いや実際には重みがあると思っていたのが大したことなかったわけだから、欣吾が正しかったのかもしれないけれど。とにかくそんな感じで渡された私の名刺は使い切られることなく役目を終えた。仕事を辞めたのには深い理由はなかったけれど、退職願を出してから退職するまでに、課長に振られたという話になっていた。私は否定も肯定もしないで辞めてしまったから、その後課長の立場がどうなったのかとか、そういうことは分からない。その後、私は違う会社の事務職についたので、名刺をもらう機会はなかった。
 そんなことを回想しているうちに件の男性はいなくなっていた。そこに大柄な白人男性が入って来た。喫煙スペースの空気が少し硬くなったように思う。真っ青が日焼けして色褪せたような良い水色のリュックを背負って、白いシャツを着ている彼と目が合った。目も青い。口の両側には強くほうれい線が刻まれている。男性は空いた私の隣に立った。190センチはありそうに見えた。
「タバコ吸わないの?」
 彼の第一声はそれだった。綺麗な発音の日本語。短く白い煙草をつまむ指は関節ががっちりしていて、第二関節まで毛が生えている。煙草の匂いとは別に、汗の匂いが漂った。
「要る?」続けて訊かれる。大丈夫、と答えるとなぜだか微笑んで、彼は自分の煙草に火をつけた。
アリゾナじゃね」男性は深く息を吐いてから言った。
「タバコを断る奴はワニに喰われるって言うよ」
アリゾナから日本に?」
「いやデトロイト
「へぇ」と応えながら、私の頭の中にはアリゾナデトロイトアメリカのどこにあるのか浮かんできてはいなかった。
「どんなところですか」
「ん、赤羽?」
「え、赤羽?」
「あぁ、今住んでるのがね」
「あぁ。そうじゃなくて、デトロイト
 私が笑うと男性も笑った。それから遠い目をして、デトロイトはね、工業の町でしたね。車、車。でもダメになって、今はゴーストタウンですよと言った。私はなんて返事していいのか分からなくて、中途半端に首を傾げた。こっちで英会話教室をやっている、と男性は付け加える。薬指に金のリングを見つける。きっと彼には日本人の妻がいて、子供が二人いると想像する。ショートカットに黒目がちな目をした細面の奥さんと青い目に黒い眉毛の兄弟。兄はサッカークラブに所属していて、弟は読書好き。週末はよく家族でキャンプに行く。それでもこのまま、食事にでも誘われて、一晩だけ一緒に過ごす。体毛の濃さに驚かされ、丸太のような腕に抱かれて。私の想像がそこまで届いたとき、彼が口を開いた。
「君は結婚してるの?」
「してないです」
「恋人は?」
「あぁ」私は彼の煙草の灰が落ちそうだと思いながら見つめている。「いますよ、たぶん」
「日本人は多いね。『たぶん』『~かも』『可能性がある』」
 可能性がある。それが一番近いかもしれない。いる可能性がある。まだ今は。
「それでも、たぶん恋人がいるって答えたのは初めて聞くよ」
「そうかも」私は言う。彼が煙草の先を灰皿で潰す。
「日本人は面白いね」
「おじさんは」
「おじさん。君、外国人に遠慮がないね」
 そうかもしれない。大学時代、欣吾と出会う前、一時期エリックというアメリカ人と付き合っていた。同じ学部の留学生で、日本語を教えてあげているうちに惚れられた。そのうちに私も惚れた。大学で陸上部に入っていて、足が速かった。震災の直後、アメリカに帰ったまま戻ってこなかった。だからもう六年も前のことか、と思う。今でも走っているのだろうか。
「僕、意外と若いよ。50歳」
「それは意外」妥当だと心の内では納得した。
「奥さんは日本人ですか」
「イエス」なぜか急に英語になる。
「美しいよ。うちの嫁さんは」
 なんとなく、本当にそうだろうなと思った。
「写真を見せたいけど、そろそろ行かなきゃ」
 そう言って、彼はリュックを持ち上げ、じゃあねと言って立ち去った。私は手を軽く振って見送った。頭一つ分大きい彼は人混みになかなか消えていかなかった。
 喫煙スペースを出る。晴れがうす曇りになって、街は黄ばんだ白い天井の下にある。気が紛れたのか、さっきまでの不安定な気持ちは少し落ち着いていた。左手の携帯で昨晩起こったという東北の森林火災の続報を調べていたら、メッセージが届いた。
『ハッピー!』
『バースデー!』
 山城理美からだった。今日届いた二人目のお祝いメッセージに私は口元に力を入れながら『なんで途中で分けるの』と返事をする。
『ちょっと面白いと思った』
 理美の返信の早さ。
『ちょっと面白い』私も同じリズムで返して、今渋谷と添えると、理美は品川で映画を見終わったところだというので、五反田で会うことになった。
 JRの改札に向かおうとすると、なんだか歓声に似た声が聞こえ、すれ違おうとした誰かが「人いるよ」と言った。ざわっと、人いるよ、は伝播し、皆がなんとなく不穏を感じて、同じ方向を向く。私も後ろを振り向いた。
 それはスクランブル交差点に面したビルの屋上だった。人影があった。
 何してんだろうと誰かが言い、誰かが飛び降りだろうと言い、誰かは無言で通り抜けて、いつの間にか多くの人が足を止めている。通報通報、いやそこに交番あるからそっちの方が早い、あ、もう来てるじゃん警察。さざ波はもはや大きなうねりになって押し寄せ、その癖誰も彼のことを見ている気がしないのは何故だろう。ぴいっと警笛の音が響いて警察官がぐるぐると腕を回しながら出てくる、何人も出てきた制服警官に車は誘導され、スクランブルはあっという間に整理される。その様子をビルの上、男は覗き込むようにして眺める。その仕草は、まるで他人事みたいに見えた。
 その内に携帯が次々取り出され、空にかざされる。まるで視覚で認識しているものを、カメラの色素を通してしか現実と捉えられないかのように。たとえばあのカメラの中に女子高生のスカートの中身が沢山入っていたり、不倫相手のあられもない姿や、かと思えば並列に夫婦で行った熱海旅行のツーショットが入っていたりして、どうしてか世界はいつも多層的で多面的で、不安定な顔を見せる。どうせ飛び降りる気なんか、と誰かが言い、わたしも同感だと思うが振り向いてもそこに人はいなかった。救急車とパトカーがまた増えていってオレンジのマットが用意されて、もう後は飛び降りるだけとなった路上は飽きた人やそもそも興味のない人、飽かず見上げる人に色分けされた。でも次々に人はあのビルからあの坂道から流れ出し流れ落ちてくるから皆身動きできず、怒りの矛先はすべてビルの飛び降り男に集約されていき、いっそ早く落ちろよなんて思う人も出てくるだろう。なんでかこう、集団心理というのは抑制を欠いて、露わで、見苦しい。すべては私の想像でしかないのにそこまで断定して、私は自分の感情が揺さぶられてしまっているのを感じる。こんな時、家であればフローリングの床にトカゲか何かのように張り付いたまま動かなかったり、ソファに上下さかさまに座って薄い小説を読んだりするのだけれど、ここではそうもいかない。
 私はもう一度携帯を取り出す。それはカメラのためではなく、欣吾からのメッセージが来ていないか確認するためだ。でもそれは確認する前から結果が分かっていることで、当然私の期待するものは届いていない。
 どうして人は飛び降りられもしないのに屋上に登るのだろう。そこに他者が存在するからか。そこに何か期待されているものを受け取るのだろうか。だとすれば屋上に登るのも私を始め、ここに集う人達のせいで、ここにこうしている間彼は身動きも出来ない。
 私は背を向けて歩き出し、駅の改札を抜けて緑の電車を待つ。空の色はいよいよ真っ白で、色の無いことが私の不安を再燃させる。

 エリックと別れ、というか物理的にアメリカと日本に分かたれた私は、当時それなりにエリックのことを引きずっていた。一緒にアメリカに行こうと誘われたのを断っていた。彼のいない生活を甘く見ていたのだろう。一人でいた経験と独りになることはまるで違って、空間は空白になり、記憶は思い出になって私の居場所を苦しくさせた。
 選択の間違いを打ち消すように理美やサークルの友人、いつ友人になったのかも分からない友人たちと毎晩のように飲み歩いた。アルコールは私の現実感を麻痺させるための道具だった。ここにいる自分を否定するための道具。私は実在の私を置いてけぼりにして、何か別の存在になりたかった。遠ざかって遠ざかって別の存在になって、いつの間にか忘れて眠って朝を迎える。そんな夜が続けば良いと思っていた。
ミサトさん、そういうんじゃないでしょ」
 そう言ったのが欣吾だった。サークルの後輩で、飲み友達のうちの一人だった。
「え、なにが」
 私はとぼけた風に聞き返す。顔は笑いながらも強張っていたように思う。
ミサトさんミサトさんでしかないよ」
 欣吾は真面目な顔だった。通いなれたバーの端っこで、私たちはいつの間にか向き合っていた。いつの間にか二人きりだった。どんな脈絡で、そんな話になったのかはまるで覚えがない。私はこの局面を逃がれる言葉を考えていた。たとえば、ちょっと下品なジョークみたいなもので。
「どれだけ飲んでも、起きたらリセットされるんだよ。他の何かにはなれない」
 私は驚いて、口を開けた。そんな話、誰にも、理美にさえしたことがなかった。それなのに、どうして欣吾がそんな核心つくの。
 それまで欣吾は、仲間内でも特におちゃらけた存在に見えた。彼のする話は煙草の煙やアルコールの匂いとともに空間に消え去ってしまうような他愛もない話で、事実を知るものからすれば、かなりウソが多かったりもするらしいがなぜか聞けてしまって、笑わされてしまう。それは今思えば、話の内容ではなくて、私が彼自身に感じていた魅力だったのだろう。女性関係もそれなりに派手だったと聞いていた。
 とにかくそんな欣吾に言われたことは、私自身薄々感じ始めていたことだったから、ぐうの音も出なかった。どれだけ飲んでも何者にもなれない。ただ哀れな女がそこにいて、私はいつの頃からか、それを俯瞰で見ていたのだった。
「分かってるよそんなこと」
 私は、だから、怒気を込めて言った。
「じゃあどうしたらいいの」
 欣吾はちょっと困った顔をして、自分のビールを飲んだ。
「もっと普通のことした方がいい」
「普通のことってどういうの」
「普通の人がするようなことだよ」
「普通の人なんていないでしょ世の中に」
「屁理屈だなぁ。だから、普通に遊園地行くとか」
「遊園地?」
「昼間、俺と遊園地で遊ぶとか」
 私は吹き出しそうになるのをこらえた。似つかわしくなかった。私にも欣吾にも。
「明日とか」
「いいよ」
 私は応えていた。俯瞰だった自分が、自分の中に戻ってきたような感じがして、お帰りと言いたいような気分だった。
「遊園地と言えば、俺地元の遊園地のジェットコースター乗りながら不良グループと闘ったことあったなぁ」
「絶対ウソ」
 私は笑った。笑いすぎて涙が出たふりをした。そんなウケるか? と不思議そうな欣吾を尻目に。
 そうして私は欣吾と付き合い始めた。

 五反田で理美と合流した。学生時代からここで遊ぶことが多かった。久しぶりに来た街は全体として大して変わりはないけれど、当時行っていたいくつかの居酒屋やバーは姿を消していたりするらしい。
「どうなの」
 腰を落ち着けるとすぐに、理美は切り出した。理美の言葉は率直だ。彼女の故郷、沖縄の陽気のように。私たちは、ステーキ&ワインと書かれたレストランバーにいる。室内をハワイアンミュージックが充たし、ブリキのナンバープレートや洋画のポスターが壁に掛けられている。
「うん」
 私は短く、答えにならない答えを返して、指のささくれを見る。ささくれを剥く痛みはどこか心に直接繋がっているように、鋭く、刹那的だ。私の恋は、そんな瞬間の連続と言えるかもしれない。
「私、ヒトのこととやかく言うのって好きじゃないんだけど」
 リミはフォークで突き刺したサイコロステーキを頬張る。肉汁と脂がまだ小さく鉄板の上を跳ねていた。
「ミサトのことは本当に、友達だと思ってるからさ」
 理美は決して親友という言葉を使わない。それだけで、私は信用できると思う。言葉は常に断定的で、怖さをはらんでいることを彼女は知っている。純粋さと暴力的な強固さを併せ持つことを知っている。
 あの日の欣吾の言葉を、俺好きな人できた、という言葉を、だから私の脳は忘れないだろう。目の前に突然壁が降りてきたみたいにすべてを遮断されたあの瞬間を。ベッドの脇にはまだ温もりの残った洋服が散らばっていて、名もなき生き物が息を潜めて私を嗤っているみたいだった、あの光景を。
「え、なにが」
 聞き返した私は、よくよく思い出せば、あの日バーで言ったのと同じ言葉を発していた。
「ごめん」
 欣吾は何か別のものに向けて謝るように、そう言った。
「あ、そう」と呟くまでに随分と長い沈黙を要した。体中の力がそれぞれ別の方向へ働き掛けて、ばらばらに崩れそうだった。ばらばらに崩れてしまってゲームオーバー。いっそそうなりたかった。ゲームオーバーに先はない。けれど私は続いていくのだと思うと、悲しさよりも震える思いだった。
「引っ越し先、決めた?」
 理美が赤ワインを飲みながら私に目を向ける。大きな目は、少しずつ充血してきている。
「まだだよ」
「え、じゃあうちの近くおいでよ、商店街もコンビニも近いし、いい町だよ」
「パン屋はある?」
「商店街にあるある。そんな流行ってないけど、クルミパンとカレーパンが旨いの」
 パン屋の匂いほど卑怯なものはないよ、という欣吾の顔がちらつく。なんだろうあれは、細胞レベルで人間を揺さぶる何かがあるな。パンといえば静岡にはね、こんなでっかいコッペパンがあるよ。いやマジでマジで。ほんとにこんななんだって。
「新しめのアパートも結構建ってるし、比較的穴場だと思うんだよね」
「そうなんだ」
 私は笑いながら、ワインを空にする。空になったグラスにゆがんだ景色が映る。その中に私もいる。
 理美は何か言いたそうな顔で私を見ていた。それに誘われるように言葉が出た。
「大丈夫だよ私は」
「うん」
「もう昔みたいにはならないし」
 それはならないというよりなれないと言う方が正しいのかもしれない。寂しさの深さを正確に知ってしまった今では、もう溺れることはできない。ただ冷静に歩きながら、掴まれるものを探すのだ。
「欣吾だと思ってた」
 理美が呟くように言った。
「ミサトには欣吾だって」
 理美の目から涙がひとすじ頬をつたった。どうしてだろう、私の大切な人は、いつもちゃんと私に必要な言葉をくれる。
「ごめんこんなこと言って」
「ありがとう」私は言った。正確な言葉を返してから、自分の火照った頬をさわった。涙は流れていなかった。
 
「そういえば今日渋谷にいたんだよね」と理美が聞いたのは国道沿いの道を、駅に向かって歩いている途中だった。
 飲んだ。久しぶりに心ゆくまで。どっちがどっちを支えているのか分からないくらいに、私たちの重心はぐらぐらとしていて、密着した体を通して骨伝導のように声は響いてきた。
「いたよ」
「じゃあ見た? 飛び降り男」
「え、飛び降りたのあれ」
 私は思わずひっくり返った声で言った。
「見たんだ。飛び降りなかったって」
 私はへぇ、と言いながら心のどこかで、飛び降りてしまえばよかったのにと思っていた。けれど何が、飛び降りないのであれば何が彼をあそこに登らせたのかが知りたくなった。そしてどうして思いとどまったのか。私の脳は右に左にゆっくりと傾きながら、夜の隙間に思考の枝を伸ばしていく。
 たとえば、家に帰り、食卓の真ん中に離婚届が置かれている。新しく花瓶に生けられた赤いブーゲンビリアと一緒に。ブーゲンビリア花言葉は情熱で、その場にはふさわしくないけれど、そんなこと妻も彼も知らない。
 たとえば、一人暮らしの彼は仕事のストレスからうつを発症している。生ごみの匂いがとれない部屋をスウェットのまま出て、電車に乗る。人々に奇異の目で見られながら、彼は真剣な表情で渋谷を目指す。改札を抜け、誰もが忙しそうに歩くスクランブルでスーツ姿の会社員と肩がぶつかる。会社員は謝罪もなく立ち去って、彼だけが取り残される。誰にも必要とされてない、誰にも存在を認められない、自分は何のために生きているんだろう。
 想像した。どれも安易な想像ばかりで、使い物にならないと思った。けれど想像しているうちは楽だった。どこまでいっても答えにたどり着くはずはないけれど、そうしていれば欣吾のことを束の間忘れていられそうな気がした。
 駅の改札を入ったところで、理美が立ち止まり、ゆっくりと私を支えていた手を離した。相手に頼っていたように思えた体は離れてみると意外に自立しているものだなと思えた。視界は少し揺れているけれど、歩ける。
「うち来る?」理美が言った。
「大丈夫」
「大丈夫なわけないよ」理美が口の端をぐっと下げる。美人が、愛嬌のあるシーサーみたいな顔になる。
「欣吾のいる家に帰るくらいならうち来なよ、来てよ」
 ほとんど泣きそうな顔で理美は言う。
 今日は欣吾が自分の荷物をまとめているところだ。二人で借りた部屋で、一人で。帰りたいわけじゃないかもしれない。けれど帰って、欣吾にただいまと言っている自分がもう浮かんでいる。お帰り、という欣吾の声も。
 私は理美を抱きしめる。ありがとうを心の中で唱え続ける。涙腺が膨らんでいる気配がする。何も言えなかった。理美の肩から力が抜けていくのが分かった。ワインの匂いを含んだ理美の息遣いが伝わってくる。生きているのだということをなぜか強く自覚する。
 体を離したとき、理美も私も笑っていた。
「頑固」理美が言った。
「うん」私は小さくうなずく。
「最低だよ欣吾は」
「うん」私は自分の靴を見た。オフホワイトのパンプスの先は、いつの間に汚れたのだろう。

 近所の小学校前を欣吾と二人で歩いていた。すずめが石垣に生えた苔をついばんでいる。
「すずめって、苔食べるんだ」
「すずめは雑食だよ、虫も食べれば苔も食べるよ」
 欣吾は鳥が好きだ。というより空が好きなんだな、俺は。スカイダイビングに三回も挑戦している。
「カラスだって意外とかわいいよね」
「おお、分かる?」
 欣吾がカラスの身内みたいに言うので、おかしくなる。
「鳴く前にさ、体をぷうっと膨らませるの」
「そうそう。目も丸いし」目は大抵丸いものだとは、言わなかった。
「スカイダイビングって、どうなの」
「どうなのって?」
「いいの」
「いいよ。ミサトもやろうよ」
「でも、もしパラシュート開かなかったらとかって思わないの?」
「分かってない」欣吾が憎たらしい口調で言う。
「たとえパラシュートが開かなくてもいいやって思えるくらいの快感があるから飛ぶんだよ、人は」
 本気で言っているのか冗談なのか分からない。
「想像してみなよ。ミサト得意でしょ想像」
 想像している。さっきからずっと。なぜか私はウェディングドレスを着ている。空に飛び出す。全身を重力と風が包んで、青と緑が視界に広がる。タキシードを着た欣吾がいる。手をつなぐ。くるくると回る私たちは、一羽の鳥のようだ。
「なににやけてんの」欣吾に言われた。
「こういう顔なの」私は言う。スーパーの買い物袋を持っている、欣吾の二の腕をたたいた。いってぇ、と欣吾が言う。子供の笑い声が、私たちを追い抜いていく。

 理美を乗せた電車が駅を離れていった。遠ざかる音がこっちのホームに入って来た電車の音でかき消された。窓際に立って、景色を見ていた。なんでもない家の明かり一つ一つに意味があって、世界があるのだとぼんやり考える。草が繁る暗い斜面を通り抜けて住宅街が見えてきて、自転車に乗った誰かが横切って、駅に着いた。
 改札を抜けて駅前のロータリーを横切り、コンビニエンスストアを通り過ぎ、橋を渡る。低いヒールの靴音が鈍く響く。長い間隔で街灯がある。不意に背後から明るく照らされ、車が後ろから走り抜けて去っていく。家の表札を照らす明かりを追いかけるように見つめながら、歩く。鈴の音が微かに響いて、どこかで犬が鳴いた。夜は精一杯の圧力で、私の足を重くしていた。
 アパートの前まで来た。白い外装は月明かりの下、銀色に見えた。二階の私の部屋の廊下沿いの小窓に明かりが灯っている。欣吾がいる。
 部屋をここに決めたのはなぜだったかを思い出そうとしていた。日当たりだろうか。私は洗濯物のよく乾くベランダが欲しくて、それ以外は多くを望まなかった。駐車場だったろうか。欣吾の乗る中古の軽自動車。水色で丸っこい雨粒のような車。
 
 海に行こう、と欣吾が言うことがあった。窓の外は雨だった。雲はどんよりと首を垂れていた。それでも窓の外を見ながら、欣吾はそう言った。
 だって雨だよ、と私は言った。私はテーブルを拭いていた。消毒して洗濯した真っ白な布巾で頑固な油染みを落とそうとしていた。
 雨でもいいから。欣吾は振り向かなかった。私は手を止めて、その背中を見た。何か、石のかたまりのような背中があった。不穏な気配が目の端を、す、と通り過ぎた気がした。何かあったの。そう言おうとして、言えなかった。明日晴れるから。明日行こうよ。私はそう言った。テーブルを拭く。油染みはいつまでも消えなかった。 
 
 私はうろうろと、裏手の駐車場に回って自分の部屋を眺めたり、また階段の前に戻って立ち止まったりした。躊躇して後ずさったときに石ころを蹴飛ばした。石はアパートの敷地を飛び出し、道路の真ん中で止まった。しばらく石を眺めて、いつの間にか私は住宅の続く上り坂を、石を蹴りながら上り始めていた。右も左も静かに建物が佇んでいて、自動販売機がジジジと鳴く音が聞こえた。月を電線が二つに割る。また犬の鳴き声が聞こえてくる。
 坂をさらに上ると、右側に大きく曲がって、両側は繁みになっていく。小石はいつの間にか無くなっていたが、私は歩き続けた。下が急に砂利道になる。平坦な道になる。びゅう、びゅう、と車の音がする。月明かりはすべて繁みに吸い込まれたように、道は暗い。心細さは私の酔いを少しずつ醒ました。
 飛び降りなかった男のことや理美のこと、欣吾のことを考えながら歩いていると、どこまでも先細りに思えた道が開けた。
 そこは橋だった。高速道路に架かる橋。私は思い出した。いつだったか昼間に二人であてもなく散歩してここにたどり着いたことを。両側を柵に覆われ、その上に有刺鉄線が張られている。高速道路までは数十メートルの高さがあった。
「有刺鉄線まで張ってるのは、誰かここから飛び降りたのかもね」欣吾が言った。
「やだ、気味悪い」私が顔をしかめても、欣吾は続けた。
「でもさ、有刺鉄線くらいなら、行っちゃうよな。本当に死のうと思ったら」
 私は手を伸ばす。柵の一番上に手が届く。
「本当に死のうと思えるのがどれくらいの辛さなのか全然分からないけどさ」
 足を柵の間に引っ掛ける。滑らなかった。有刺鉄線の棘と棘の間に手を伸ばす。掴めた。
ワンピースの裾が風ではためく。下着が見えているだろうなと思った。けれど私には体を止める理由がなくて、そのまま柵を越えようとしている。何をしているのかと思いながらも、汗をかいて体に力を入れて、越えようとしている。左手が有刺鉄線を掴んだとき、ピッと痛みが走った。手の位置を変えて、両手でぶら下がる。足を上げたい。柵の一番上まで上げたい。全力だった。私の体がすべて、この柵を越えることに向かっている。心はどうだろうか。どこか冷えて穏やかな、この気持ちが死へと向かう人間のそれなのだろうか。
 目一杯の力を込めて足を振り上げた。届かなくて、手が滑った。私はコンクリートの上にお尻から落ちた。コンクリートは思ったよりも冷たかった。

「一緒に暮らすってどういうことなのかな」
 私は欣吾に訊いたことがある。一緒に暮らし始める一週間ほど前のことだ。テーブルの上には団子があった。スーパーで買ったみたらし団子だ。パックを開けて、先に一本取る。
「どういうことって、うーん」
 欣吾も考えながら団子を取る。串には三つの団子がついていて、先の方から一個ずつ食べていく。
 私が三つ目を食べようとしたとき欣吾が、あ、と言った。
「え?」
「それだよ」
「なにが」
「その顔」
 私は三つ目の団子をかじろうとしている。その顔はあごを突き出して、なんだか深海魚のようだと欣吾が言った。
「そういう顔を見せるってことなんじゃないの」
 そう言うと、欣吾も三つ目の団子に取り掛かった。あごを突き出して、深海魚のように食べた。私は笑った。
「そういう顔を見るってことなんだよ、ずっと」

 私は肩で息をしながら、しばらくその場で動けずにいた。何も考えていなかった。ただ動かずにいた。
 横に置いていたバッグの中で携帯の着信音が鳴ったのが分かった。少し間を置いてから、取り出した。
『誕生日おめでとう』
 欣吾からだった。
 私は震える手で文字を眺めた。文字からはそれ以上何の意味も読み取れないのに、何往復もそれを読み返した。ぐるぐると頭の中を記憶がめぐる。それはまだかろうじて「記憶」で、思い出ではないと思った。口を押さえる。嗚咽が漏れた。文字はもう読めなかった。うずくまって少し鉄っぽいコンクリートの匂いを嗅ぎながら泣いた。
 そのとき、私は寂しさの底なんてまだまだ知らなかったのだと思った。また空白を生きるのだと思った。そこに酸素はしっかりあるだろうか。溺れないだろうか私は。それでも他に進む道のない体と心が、ここで震えながら待っている。何かを待っている。
 ただいま。お帰り。無意味な言葉を頭が反復する。
 下の道路を車が通るたび、橋は小さく揺れた。左手の痛みが、私のことを見ている。静かに見守っている。 

不在

銀色の柵が太ももに直接触れるとびいっと電気が走るように冷たかった。はぁっ、と声が出てしまい、口を閉じて辺りを見回す。四階だ、そこの路地を人が通りでもしたらすぐに見つかってしまうだろう。向かいのアパートのベランダもこちらに向いている。そこから覗かれていたらそれもまたアウトだろう。
 幸いに、人の視線は感じられなかった。路地には街灯は無く、黒い影となった電柱と、サントリーの自販機が一つ、アパートの横で煌々と光を放つだけだ。夜中ガションと音がして目を覚ますことがよくあるのは、あの自販機のせいだ。
 私自身は買ったことがないが、体感的に、夜中になるとそれなりにあの自販機で人は歩みを止める。酔い覚ましに炭酸水でも買うのだろうか、他に光の無い路地で虫のように吸い寄せられてしまうのだろうか。
 目を覚ますといえば子供のさわぐ声も私の睡眠を阻害する。夜の十時をとうに過ぎたような時間にである。子供が悪いわけではない。そんな時間まで子供を起こしておく、しかも騒がせておく親が悪いと私は思う。
 柵にそろそろとお尻を乗せる。左手で非常用の隔て板を掴み、右手はお尻の横の柵を掴む。体の後ろ半分が緊張する。宵闇の中にふわっと浮かんでいる感覚だ。風が吹く。大して強い風でもないが、何者かが私を邪魔しているみたいなタイミングに思えてしまう。隣人のベランダに忍び込もうとする厄介者を。
 カナコさんと初めて話したのは、マンションの回覧板を回した時だから、ここに来てすぐのことだ。隣に引っ越してきました、よろしくお願いします、の挨拶を怠ったっていた私は、なるべくなら顔を合わせずに済まそうと思っていた。というのも、以前のアパートに引っ越したとき、隣人に引っ越し蕎麦まで持って挨拶に伺った結果、
「はぁ」と怪訝な顔をしたすっぴんの女性が現れ、私が挨拶してる間、私が手に持った蕎麦をじっと不思議そうに眺め、挨拶が終わるか終わらないかのタイミングで、
「引っ越し蕎麦って自分で食べるんじゃないの?」
 と言われドアを閉じられたのが原因である。その隣人の名は井上さんといった。そんな態度の割には、しっかりとドアの上に手書きで井上と書いた札が入れられていた。
 そんな態度だった井上さんには、たびたび迷惑を掛けられた。狭いワンルームのアパートで何人もの声がするなと思ったら、夜中までどんちゃんさわぎが続いたり、ある時は酔っぱらった赤ら顔の男性が、おそらく井上さんの部屋と間違えて上がり込もうとしてきたこともあった。私の顔を見て、
「あんた誰?」
 なんて言われた、その屈辱感や苛立ちよりも恐怖心が勝って、
「葛西あかねです」
 とフルネームを答えてしまったことを、今でも悔しく思っている。
 またある夏の日には、ガラの悪いお兄さんたちと井上さんがアパートの前で流しそうめんを始めた。井上さんは髪を金髪に染め、暑いのにスカジャンを着て、片手には泡の消えたビールを持って上機嫌だった。上機嫌なのは顎が外れそうなくらい口を縦に開けるその笑い方でなんとなく分かった。
 運悪く、買い物から帰ってきた私と井上さんの目が合った。
「あ、アカネちゃん」
 そう言われたとき、私は総毛立っていた。なんで名前を知っているのだろうと怖く思ったけれど、今思えばあの時、知らないおじさんにフルネームで答えたのが伝わったのかもしれない。
「アカネちゃん、流しそうめんやってんの」
 見れば分かると思った。しっかりと竹を組んで作られた本格的な流しそうめん台の下端からは、じょぼじょぼと水が流れ続けていた。
「風流ですね」
 私が言うと、その場がどっと沸いた。井上さんもまた口を縦に開けて笑った。
「アカネちゃん面白いわ。最初のときはごめんねー」
 覚えているのか、という意外さと、そんなこといいから放っといて、という思いが交錯した。
「いえ全然」
 と引きつった笑顔でその場を立ち去ろうとしたとき、井上さんが、
「食べていきなよ」
 と言った。私は振り向いた。井上さんの目は、あの日のすっぴんから倍くらいに大きくなっていてアイシャドウが濃い目の黒で、笑っていなかった。
「一口。ちょっとさすがに飽きてきちゃってさ」
 男たちはにやにやとしている。私は、断れないと思った。
「麺類好きそうだし」
 それは、あの日の蕎麦のことを言っているのだろうか。どうしてか、井上さんからは私に対する悪意がどばどばと放たれているように感じた。何もした覚えは無いのに。
 私はめんつゆの入ったプラスチックコップと割り箸を持たされて、流しそうめん台の真ん中あたりに立たされた。買い物袋がひじの内側に食い込む。血が止まっている気がした。足も手も少し震えていた。
「じゃあいくよ」
 と言って井上さんがざるの中のそうめんを一つまみ流す。私は慌てて箸を出す。そうめんの玉は微かに左右に揺れながら流れてきて、私の箸から逃げるように過ぎていって、掴めたのはほんの一、二本だった。
「オーノー!」
 井上さんが大げさに空に向かって声を出す。お兄さんたちがガハハと笑う。掴めなかった麵たちは、下でざるに受け止められている。そこは粗末にしないのかと意外に思った。
「もう一回ね」
 井上さんがもう一度そうめんを流した。私は箸の間隔を少し広げ、掴むというより受け止めるという感覚で臨んだ。白いかたまりが、私の箸でほとんど受け止められた。
「大成功ー!拍手!」
 井上さんが叫ぶ。なんでそんな声が、近所に丸聞こえの声が出せるのか、さっぱり理解できなかった。男たちの拍手が響く中、私はめんつゆにそれをつけて食べた。薄味で、不味かった。
 そういった理由で隣人と顔を合わせることを避けていた私だったが、回覧板には大きく『お隣に回す際には必ず一声かけて、お渡しください』と書かれていた。なんでこういうことをするのだろうと思う。このマンションには『人とすれ違う時には挨拶しましょう』なんて貼り紙も、集合ポスト脇の掲示板に留められている。それが犯罪抑止の意味があるとか、そういうことは分かっても、なぜ強制されなければならないのかが分からなかった。
 何も言わず、ドアノブに掛けておこうと決めて玄関を出た。そこに宅配業者の相手をするカナコさんが立っていた。
 横顔だけで、美人だ、と思った。ちょうどよい高さの鼻筋と優しそうで大きな目が宅配のお兄さんに向けられていた。ぼうっと見とれていたのだろうか、宅配のお兄さんが先に私を見た。それにつられるようにカナコさんがこちらを向いた。目と目が合って、カナコさんが会釈をした。私は慌ててお辞儀する。
「こんにちは」
 宅配便を受け取り終えたカナコさんが言った。それはとても自然な言葉で、私のように、強制されてぎこちないものではなかった。
「済みません、初めまして」
 と私は言った。顔は赤かったと思う。鼻の奥が詰まったように顔の中心がかっと熱くなった。
「あ、そうですね、引っ越してらっしゃったんですよね。石室です」
 カナコさんが笑った顔で言う。
「済みません、挨拶もせずに。葛西です」
「そんなそんな」
 顔の前でカナコさんが手を振る。よくよく見てもやっぱり美人だった。あか抜けていて、落ち着いていて、年齢は私より少しだけ上に見える。
「これ回覧板です」
 緊張しながら手を前に出すと、はい、と言って両手でカナコさんが受け取る。ハンドクリームだろうか、なにか、植物系のいい匂いがした。
 では、と戻ろうとした私に、あ、と声がかかった。振り向くとドアが開いたまま、カナコさんの姿が消えていた。しばらくそのまま突っ立っていると、またカナコさんが現れて
その両手にはじゃがいもが握られていた。
「実家から送られてきたんだけど、要りません?」
「いいんですか」
 私は訊きながら少しずつ玄関に近づいた。
「北海道から送ってくれるのはいいんだけど、量がね。うち一人だから」
「あ、お一人なんですか」
 思わず声に出してから、失礼だったか、と考えたが、カナコさんは目を見て笑っただけだった。
「葛西さんは?」
「一人です」
「一緒ですね」
「そうですね」
 私も笑った。緊張の糸が少しほぐれているのを感じた。
 このマンションは全室1DKの賃貸で、単身者が多いようだが、夫婦の入居者もそれなりにいる。築年数は浅いが、地盤があまりよくないのと駅から徒歩二十分という距離で相殺されて手ごろな家賃になっていると不動産屋さんが言っていた。
 地盤があまりよくないのは気になったが、具体的にどうよくないのかは不動産屋も知らず、建物自体の耐震性とかは問題ないんで、などという文句でごまかされたまま借りることになった。
「じゃがいもと、たまねぎ、にんじん……カレーでも作るか」
 カナコさんが少し上を見ながら呟いた。
「うちもそうします」
 私が相槌を打つと、カナコさんの目がぱっと輝いた。
「じゃあ……どうせならうちで一緒に食べません?」
 えっ、と私は言ったが、その後には、いいんですか、と続けていた。
 着替えのために自室に戻り、どんな格好をしていこうかと悩んだ。お隣さんとして気軽にお付き合いしたいから、あんまりお洒落してもおかしいし、かといって気を抜きすぎるのも失礼だと思った。白いブラウスを着ようとして、カレーを食べることを思い出し、黒のブラウスに代えた。下はグレーのパラッツォパンツを履いた。
 改めてカナコさんの家の前に立つと、また少し緊張したが、慌てずインターホンを押す。
「はーい」とカナコさんの声が響き、「どうぞ」と続いた。
 玄関を開けると、早くもサラダ油と野菜の甘い匂いが漂い始めていた。
「ごめん、作り始めちゃってる」
 とキッチンから声がする。
 玄関には靴ひとつ置かれていない。すべて脇の白い靴棚に整頓して入れられているのだろう。靴棚の上には薄い青の皿が置かれ、その上に木片が載っている。顔を近づけるとそこから爽やかで甘い香りが漂い、鼻孔をくすぐった。
「お邪魔します」
 と声をかけ、靴を脱いだ。廊下の途中にトイレと洗面所があり、奥にダイニングキッチン、フローリングの八畳間へと続く造りは私の部屋と同じである。それでもたとえば洗面台の黒光りする石鹸入れや、リビングの真ん中に置かれた、木を縦に割ったような木目の鮮やかな一枚板のテーブル。写真立てに飾られた、イタリアかどこか暖色の屋根が並ぶ街並みのフィルム調の写真、檜の匂いがするシンプルなブロックカレンダーなど、何風とも評せない趣味の一つ一つに良い雰囲気が漂う部屋だった。
「統一感のない部屋でしょ」
 きょろきょろと部屋を見て回る私を見て、たまねぎを切りながらカナコさんは笑った。
「そんなことないです」
 私は本心から言った。北欧風だとかアジア風だとかにまとめられた友人や知人の家にお邪魔したこともあって、それは素敵だと思ったけれど、家主ではない何かに支配された空間であるような気がして、落ち着かなかったことを覚えている。ここはたしかに家具の統一感はそれほどなくて、でもカナコさんがいることで統一されている部屋のように思えた。同時に、それは単に私がカナコさんに好感を抱いているだけかもしれないと思うと、少し気恥ずかしくもなった。
 勧められて、青い腰高の椅子に座る。
「そのテーブルいいでしょう。琉球松っていう木を使ってるんだって」
「素敵です」
 答えながら私は正面のカウンターキッチンで、ジャッジャッと野菜を炒めるカナコさんを見る。
「うちのカレーね、カレー粉からちゃんと作ってるんだよスパイス入れて。まぁホールスパイス使いたいとこなんだけどパウダーだから、なんちゃって本格派だけど」
「ホールスパイスってなんですか」
「スパイスの原型そのままの物のこと」
「はぁ」
 私は料理をするにはするが、カレーは当然ルーを使うし、だしはだしの素だ。好きというより、それしか手段がないから料理しているという感じで、そのあたりもカナコさんと違うだろうと思った。
 それをふと口に出すとカナコさんはうなずいて、
「それが普通だよ」
 と言った。
「うちは母親が料理教室やってて、その名残というか、ね」
 それからしばらく無言で、カレーを作るカナコさんを見ていた。時々額の汗を軽く拭きながら、カナコさんは料理に没頭している。飴色になっていくたまねぎの香りや、スパイスカレーの複雑な香りがぶつかり合い、混ざり合って部屋を充たしていく。
 私は初対面の人の家で、勝手に眠くなっていた。なんて失礼なやつだろうと思いながらも、ここはなぜだか居心地がいいから、と言い訳をして脳がまぶたを重くしていく。目の前の世界が船上にいるように揺らいで視線がテーブルに落ちたころ、そっとカレーの入ったお皿が置かれた。
「お待たせしました」
 とカナコさんの小声。私はびくっと全身で反応し、済みません済みません、と謝った。まさかよだれ垂らしてないだろうか。慌てて口に手をやる。その様子を見てカナコさんは笑う。
「そういえばちゃんと自己紹介もしてないね私たち。私は石室カナコです」
「葛西あかねです」

「カナコさん」
 私はベランダの柵から上半身だけカナコさんちのベランダに乗り出して、小声で名前を呼んでみる。そんなの届かないし、返事もないと分かっているくせに、そうすることでなにか許されると思っている。
 部屋の電気はやっぱり消えている。なのにカーテンだけは開いていた。しばらくそうして覗き込みながら逡巡していたら、また風が吹いた。さっきより強い風は、アルコールを含んだ私の思考を後押ししているように思えて、覚悟を決めた。もう一度、下を見下ろす。高さは、死ぬには充分あるように見えた。緊張する。左手にぐっと力を込め直してから、左足を持ち上げて、カナコさんちのベランダ側に差し入れる。柵の上の右手とお尻をゆっくりと動かす。体の真ん中に隔て板が来た。そこからまたゆっくりと宙ぶらりんの左足の方に体重をかけながら体を時計回りにひねっていく。左足はまだ着地しないまま、窓に背を向ける形になった。静まり返った住宅街と正対する。寝静まっているというより、じっと息をつめて私を監視しているように思えた。
 手の位置を変えながら右足を外側からくるっと回してベランダの中に入れ、ゆっくり腕を畳んで着地した。足の裏に、コンクリートのひやりとした温度と、ざらざらの肌触りがある。
 ふう、と息を吐いた。それから掃き出し窓の方にそろりと近づく。もし、中にカナコさんがいて、この光景を、私を見たら悲鳴をあげるだろう。それでも、不安感の方が勝って、私をここまでさせてしまった。けれど、私にできるのはどうせここまでだ。この窓の外から、中を覗くだけだ。
 目を凝らす。カナコさんの白いベッドが見えた。そこに人の姿は無い。リビングはどうか。掃き出し窓にくっついて覗き込んでいるとき、気がついた。
 窓に鍵がかかっていない。

 カレーを一緒に食べてから、私たちは頻繁に顔を合わせるようになった。
 カナコさんはお菓子メーカーの宣伝部で働いていることが分かった。それで休日は時々、都内のケーキ屋や、デパ地下のお菓子コーナーや、行列のパンケーキ屋に行くというので、ご一緒させてもらうことになった。
「本当は開発部に異動願を毎年出してるんだけどね」
 とカナコさんは言っていた。カナコさんならきっと美味しいお菓子をつくるだろうけれど、宣伝部にとっても大事な人材であろうことは容易に想像がついた。
 食べながら、カナコさんは熱心にメモを取り、ケーキならケーキのイラストを添えた。
 彼氏の存在について知ったのは、そんな風にメモを取るカナコさんの手元を私がぼうっと見ていた時だったと思う。
「あかねちゃん、あんまり見られてると恥ずかしいよ」
「いや、でも、字も絵も上手だなぁって思って」
「字は男っぽいってよく言われるよ」
「誰にですか?」
「……職場の人とかに」
 答えに一瞬の躊躇があって、私はにんまりした。
「本当に? 職場の人?」
「……あと、彼氏とか」
 恥ずかしそうにカナコさんは答えた。
「彼氏さん。きゃあ、ですね」
「きゃあ、ですよ」
 彼氏さんは音響機器メーカーに勤めているのだと、カナコさんは喋った。甘いものは苦手で、カレーが好きだということも。
「え、じゃああのカレー、食べに来るんですか?」
「たまぁにね」
 私は想像する。あの部屋で、カナコさんと二人静かにカレーを食べる彼の姿を。そして彼にだけ見せるカナコさんの特別な笑顔や、たおやかな仕草を。
「いいですね」
 カナコさんはまた束の間戸惑った表情を浮かべてから、ありがとう、と言った。それから、
「あかねちゃんこそどうなの」
「どうなのもなにも」
 そう、どうなのもなにもないのだ。私の職場は小麦粉やバターなど、パン屋やケーキ屋に材料を卸す問屋の受付担当だ。卸先からの電話を受け、ファックスを受付け、在庫管理部に回す。午後は経理の仕事も兼ねる。同じ部署の社員は女性しかいない。大学からの新卒で入社したので、私が最年少で、入った当初は他の部署、特に配送部門の男の子たちに多少の人気はあったらしい。その中で、菊田くんという同い年の子に惚れられ、付き合った。
 菊田くんは高校を卒業してこの会社に入社したから私より四つ先輩にあたり、配送部ではもうベテランに近い雰囲気があった。急な配送の変更にも人員不足にも涼しい顔で対応し、常に冷静に見えた。
 顔は普通だけれど、高校までサッカーをしていたという細くて筋肉質な体はそれだけで見とれてしまうようなしなやかさを有していた。
 彼は彼で、私の穏やかなところ、細かいことを気にしない性格が好きだと言ってくれた。
 一年半ほど付き合ったはずだ。別れを切り出したのは菊田くんからだった。
 切っ掛けは特に無かったはずだ。それでも別れはやってくる。一年半ほどの間に、彼は私の本当の姿に気付いたのだろうと思う。穏やかなところも細かいことを気にしないのも見せかけに過ぎないこと、それはただ感情を表に出せない臆病者であるということを。
「なんかさ、あかねってさ、穏やかでいいんだけど、フックが無いんだよ」
 菊田くんは最後にそんなことを言った。
 菊田くんは別れてからも職場を変えたりしなかった。裸を知っている者同士、時には仕事のことで会話したりするのが、付き合っていた時よりも生々しく感じられて、不思議な感覚だった。
 私の職場での人気は、馴染むまでの一時のことだった。馴染んでしまえば私は、人がつまずいたり発見したりするような凹凸にはなり得ない。菊田くんが言うとおりに。
「職場以外でも無いの?」
「無いですね。おじいちゃんに道を訊かれることはよくあるんですけど」
 私はそう答えて、会話を終わらせた。
 カナコさんの彼氏に会うことはなかった。二人が会うことはそんなに頻繁ではないようだった。興味はあったけれど、自分から会わせてほしいというのも変だと思ったし、カナコさんはその話題をなるべく避けたがっているようにも思えた。
 カナコさんの体調に変化が訪れたのは、私たちがそんな風に過ごしていた今年の春だった。一緒に映画に行く約束が体調不良でキャンセルになったり、頭痛がすると言うようになったりした。私は心配になり、拙いながら二人分の食事を作ったり、時々様子を見に行ったりした。病院に行かないんですか、と訊くと、病院はね、と否定的な応えが返ってくることもあり、私はやきもきしていた。
「ありがとう」
 カナコさんは私が、お節介かな、と考えているときに限ってそう言ってくれた。私は自分が近づきすぎているのではないかと、心配になるところがあった。
 幼い頃から、誰かと友達になるとその子とばっかり遊び、相手に愛想を尽かされてしまう。そんな経験がたびたびあったからだ。人との距離感の分からなさ、それは私が抱える厄介な問題であるようにずっと思ってきた。
 それからしばらくして、ようやくカナコさんは病院へ行った。
 そして、妊娠していることが分かった。
 その報告をしてくれたときのカナコさんの表情は、転んだ直後の赤ん坊のように複雑に感情が混ざり合ったもので、心臓が浮き上がるようだった私の喜びの感情も、少し重たくなった。
 それでも、良かったですね、とカナコさんの両手を握った。カナコさんも、うん、と頷いて、その頬をしずくが伝った。
 カナコさんの彼氏には、家庭があることを、私はその直後に聞いた。
 彼と出会ったのは、イタリアのフィレンツェだという。あの街、と部屋に飾ってある写真を指差しながら、カナコさんは話し出した。
 カナコさんは社会人一年目の五月、イタリア旅行に出た。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂という荘厳な教会に見とれていたカナコさんは、後ろから近づいてくる二人組に気付かなかった。一人が聖堂に背を向けて写真を撮るようなポーズを見せ、その死角でリュックの中身を狙うスリの常習犯二人組だった。カナコさんは見事にすられた。と、背後で怒鳴り声がして人の悲鳴が聞こえて、ようやくカナコさんは振り向く。バックパッカー姿の男性が、すった男を組み伏せていた。もう一人の男は走って逃げていくところだった。そのスリを捕まえた男性が、彼だった。
 警察署で、カナコさんは何度も何度も頭を下げて感謝を表した。彼は恐縮したように、照れ笑いを浮かべていた。警察の取り調べが終わり、二人は解放された。なんとなく去りがたい気持ちがその時にはすでにあったという。それでも挨拶をして別れようとしたとき、彼から声がかかった。
「お金貸してくれませんか、って言われたの」
 カナコさんは何度もしてきたであろう話で、幸せそうに笑った。
「実は僕も昨日スリに遭ったんです、って」
 二人は、そこからイタリアでの行動を共にした。彼はヨーロッパ中を趣味の写真を撮りながら回っているバックパッカーだった。優しくて、明るくて、紳士的な態度に、カナコさんはもう完全に惹かれていたという。それでも、お互いの名前を知っただけで、他には何も分からないまま、カナコさんは先に帰国の途についた。23歳のときだった。
「彼の財布もイタリア滞在中に見つかって。現金以外は盗られてなかったから、貸し借り無しになっちゃって。それからしばらくは惜しいことをしたって、ずいぶん後悔したの。友達にもなんでもっと迫らないのとか怒られたりしてね」
 それでも日常に忙殺されて、いつの間にかそんなことも忘れ帰国から五年ほど経ったとき、友人の勧めでフェイスブックを始めた。知ってる人の名前を入れて検索するのだと知ったとき、頭の中に電流が流れ、あの人の名前が浮かんだ。忘れてはいなかった。
 少し緊張しながら名前を入力して検索をかける。検索候補に出てきた名前と顔写真は、たしかに彼のものだった。逡巡した挙句、友達申請をした。もう忘れられてるだろうと、自分に保険をかけながら待っていた二日後、メッセージが来た。お久しぶりです。僕も検索してたんですけど、新しく始められたんですね。
 嬉しかった。
「けれど、彼のプロフィールを見てがっかりしたの。本当に、泣きそうなくらい」
 彼はカナコさんより年齢が五つ上で、既婚者だった。
「まぁ、仕方ない、友達ってことにしようと思って。懐かしい話を時々したり、彼のその後の旅の話を聞いたりしてたの」
 インターネット上での再会から半年ほど経ったとき、彼からメッセージが来た。あのときイタリアで撮った写真を渡したいです、と書かれていた。
「迷いましたか」
 私は訊いた。カナコさんの瞳が揺らいだ。
「ちょっとだけ。私、ちょっとだけしか迷わなかった」
 都内のイタリアンレストランで、二人は本当の再開を果たす。彼は無精ひげも生やしていないし、髪型も整えられている。あの日と印象はまるで違う。それでも緊張のひもを解いて話してみれば、彼はやっぱり彼のままだった。ワインを飲み、ピザを食べ、他愛もない話に花を咲かせる。幸せだとカナコさんは思った。痺れるくらい幸せで、張り裂けるほど悲しい食事だった。
 カナコさんは、付き合ってる人とかいるの。先に訊いてきたのは彼の方だった。首を横に振り、自然と話は彼の結婚の話題になる。彼はカナコさんから視線を逸らして、ぽつぽつと話した。彼女とは大学の写真部時代からの付き合いで、ヨーロッパ旅行から帰って一年くらいして結婚した。そうなんだ。空々しい返事に彼は何を思っただろう。
 別れ際、忘れてた、と言って彼は写真を取り出す。カナコさんが笑って手を差し出したとき、また会ってくれませんか、と彼は言った。芯のある静かな声だった。カナコさんは、首を縦に振った。振ってしまった。
「二回目に会ったときに体の関係を持った。でも、怖いくらいに罪悪感は無かったの。私、ここから先地獄かもしれないのに、その入り口で笑ってた。幸せだって涙流してた」
 話を聞き終えて、私は何も言うことができなかった。それが間違ったことだと、断ずることができなかった。ただカナコさんの、力を加えればすぐにでも割れる陶器のように美しく白い手を見つめていた。
「私、産もうと思ってる」
 カナコさんは笑顔で言う。
「彼にも伝えた。やっぱり動揺してるみたいだったけど」
 まだ答えはもらえていない、これで何かが変わると期待するのは浅ましいことかもしれないけれど、それでもやっぱり彼のことが好きだから。
 カナコさんは笑顔のまま、そっと目を伏せた。

 窓を開ける瞬間、悪臭がするのではないかと身構えて、慎重に窓を開けた。そっと匂いを嗅いでみる。埃と枯れた花の濃い匂い。つんと鼻腔をついたが、思っていたような匂いではなかった。
 中に入ろうとして、窓枠に足を引っかけて転びそうになる。慎重を期していたくせにこんなところで。すでに日本酒をたっぷり飲んでいる。アルコールに強い性質ではあるが、注意力や集中力が欠けてきている。忍び込んでいる時点で、判断力も怪しい。
 カナコさんの寝室に入った。月明かりが私の姿を黒くフローリングの床に形づくり、大きな穴のように見えた。その床を埃が覆っているのが足の感触でわかる。
 瞳孔が拡がって徐々に闇に光がともる。右の壁際にベッドがある。白いシーツに白い掛布団、枕のシンプルなベッドからも湿った空気と埃の混じったような匂いがした。私は亡くなった祖母の、遺品となったベッドからも同じ匂いがした、と思う。
 ベッドの隣に置かれたサイドボードに、花の挿された花瓶と、私の部屋にあるのと同じ形のリモコンがあるのを見つけて、リモコンのスイッチを押した。二、三度の明滅のあと、照明がついた。私の影は消え、花瓶に刺さった赤い花はくたりと折れて、すっかり枯れているのが分かった。
 ベッドの隣にはもう一つ、ベビーベッドが置かれている。楕円型に柵で囲まれたベッド。カナコさんと私で、熱心に選んだベビーベッドが、埃の舞う部屋の真ん中で無表情に佇んでいる。私は柵に触れる。角の丸みをなぞって、指が滑り落ちる。
 カナコさんは帰ってきていない。主のいない家独特の、空間のゆがみというか、時流のねじれというかそういうものがあるように思えた。それもまた、死後、祖母の家を訪れた時と同じ印象だった。
「カナコさん」
 もう一度、意味もなく呟いた。心の中から空気がどんどん抜けていくような虚無が、私を襲っていた。私は力なくベッドに腰を下ろした。サイドボードの下段に、マタニティ雑誌が何冊も置かれている。一冊を手に取り、広げた。目は字を追えず、ただお腹の大きい女性の写真を見ては、ページをめくるばかりだった。ところどころのページに付箋が貼ってある。どんな思いで彼女がこの雑誌を読んでいたかを思って、胸が締めつけられる。本に顔を埋めた。涙が出た。

 ある日の夜、我が家のインターホンが突然鳴った。ドアを開けると、そこにカナコさんが立っていた。カナコさんは普段着よりもお洒落をしていた。どこか出掛けていたんですか、と訊く前にカナコさんが抱きついてきた。お腹が少し張り出してきているのがそれで分かった。
「ど、どうしたんですか」
 改めて訊くと、カナコさんは私の顔を見て、涙を堪えるように顔に力を入れたあとで口を開いた。
「一緒に暮らそうって」
「え?」
「子供が生まれて、ちゃんとけじめつけたら、一緒に暮らそうって、彼が」
 それって、と私は呟いた。全身に鳥肌が立つのが分かった。カナコさんが何度も頷く。どうしていいのか分からず、カナコさんを抱き返すのもお腹の子に悪いような気がして、拍手をした。一人で盛大に拍手をした。
 カナコさんはそれを見て泣き笑いの顔だった。ありがとう、と呟いた。
 そのあと、私はお酒を持って、カナコさんにはお酒代わりの炭酸水を用意して、カナコさんの家に集まった。
 二人で乾杯をして、とにかく喋った。どこで、どんな風に、なんと言われたか。カナコさんは泣いたのか、笑ったのか。キスはしたのか。
 なんでそんなとこまで、とカナコさんが笑うほど、私は色々と訊いた。それから子供の名前の話になった。
「二人が出会ったイタリアにちなんだ名前もいいかなって思ってる」
「マルゲリー太みたいな?」
「あかねちゃん。これ、真面目な話」
「シンプルに、パス太っていうのもあるね」
「もう。女の子だったらどうするの」
「マルコってイタリアの名前っぽい」
「……まる子か。それいいかも」
「え、本当に。やめましょうよ」
「嘘よ」
 他愛もない話は、夜が深く深く溶けていくまで続いた。そのうち、話題が尽き、ぽつりとカナコさんが言った。
「でもね、こんなの偽善だって思われるだろうけど、相手の奥さんのこと考えるときもあ る。私、確実に他人を傷つけてるんだって、思う。不幸に陥れるんだって考える。昔ドリフのコントであったでしょ、開いてる引き出しを閉めると、違う引き出しが開いちゃう、また閉めると、別のところが開いちゃう。結局私のしてることはそれなんだなって」
 私は頬杖をつきながらそれを聞いていた。
「彼女の幸福を犠牲にして、幸福を手にする。誰からも祝福されない幸福をね」
「私は祝福しますよ」
 率直な気持ちを言葉にした。私なりの覚悟を、そこに込めたつもりだった。たとえ彼女が加害者であっても、それを祝福することで私自身が加害者になるとしても。
 人間は、もともと公平な生き物ではないのだから。
 カナコさんは、膝の上で組んだ手をほどき、組み直しながら小さく微笑んだ。
 それからの数か月、カナコさんは産休を取り、お腹の子と共に順調で平穏な日々を過ごした。定期的な検診でも経過は順調だった。
 私はときどき部屋の掃除や、買い物を手伝ったりしながらそれを見守った。赤ちゃんのエコー写真を見せてもらった。人間の形をした白い生き物がたしかに写っていて、写真とカナコさんのお腹を交互に見比べ、耳をあててたしかめた。くすぐったそうにするカナコさんとは別の動きをお腹に感じ、私の体をどくんと温かいものがめぐって、守らなきゃ、なんて自分が母親にでもなったようなことを思ったりした。
 出産予定日が近づくにつれて、なんだか実感が湧かなくなってくる、とカナコさんが不安そうにすることがあって、なにかあったんですかと私が問いかけても明確な答えは返って来なかった。マタニティブルーってやつですね、と私は言って部屋の掃除を続けた。
 運動がてら、二人でウォーキングに出たこともあった。川沿いの土手を歩く。風はまだ少し冷たいけれど、季節は春に移ろおうとしている。梅の花が咲いている。名前を知らない水鳥が流木にとまっていた。
 すれ違う人たちの目が、カナコさんを見て優しくなる。がんばってね、と声を掛けてくれるお婆さんもいた。今のカナコさんは、自然と同じだと思った。居るだけで、誰かの元気になる。
 歩きながら、カナコさんが小声で言った。
「この子が不倫相手の子だなんて、みんな分からないね」
「ですね」 
 すれ違う人の人生までは分からない。私もそうやって通り過ぎて来たのかもしれない。不意に、井上さんのことを思い出した。どうして思い出したのか分からなかったけれど、彼女の顔はたぶんあの頃の本当の顔より輪郭がぼんやりしていて、どこか悲し気だったり微笑んでいたりが幾重にも重なって滲んで見えた。
 
 カナコさんが出産を迎えたのは、予定日の二日前のことだった。その日私は仕事で、職場にいる間にメールが一通、『産んできます』とだけ書かれていた。
 私は職場でおお、と声をあげてしまい、隣の福島さんが怪訝そうな顔をした。休憩してきます、と告げて、物陰で一人無事な出産を祈った。
 もどかしい日々はそれから一週間続いた。なぜなら、『病院はどこですか』とか『元気ですか』といったメールを何通も送ったのに、カナコさんからの返信はいつまでも無かったからだ。
 それでも出産を経験したことのない私からすれば、たとえ出産を終えたとしてもそのときに母体はどんな状態でいるのか、携帯に返信する余裕なんてないのかも、と思って何もできずにいた。
 ある晩仕事から帰ってきて、部屋を見上げたとき、カナコさんの部屋に明かりが点っているのが見えた。
 私は急いで階段を上り、カナコさんの部屋のドアをいきなり開けようとして考え直し、きちんとインターホンを鳴らした。
「はい」
 カナコさんの声。しかし、どこか沈んでいるように聞こえた。
「どうぞ」
 私は不安の予兆を覚えながら、ドアを開けた。
 廊下の先に見えるリビングの椅子に腰掛けた、カナコさんの足が見えた。
「カナコさんお帰りなさい」
 私は笑顔で言い、靴を脱いだ。カナコさんの反応がなかった。廊下を歩く。途中に脱ぎ捨てられた靴下があるのが、目に入った。
 リビングのカナコさんは、インターホンの前に座っていた。白いニットに、水色のロングスカートを履いて、産後のためか、痩せた印象もある。
「どうしたんですか。体調悪いんですか」
 私は眉をひそめて訊いた。それでもカナコさんはこちらを見ようとはしない。こんな反応は初めてで、異物を押し込まれたように、みぞおちの辺りがきゅうと苦しくなった。
「ベビーベッド」
 たっぷりの静寂があって、カナコさんが呟いた。
「一緒に選んでくれたベビーベッド。ごめんね」
「カナコさん、赤ちゃんは?」
 私は訊いた。カナコさんがようやく顔を上げた。
 その顔は真っ白で、目の周りだけ赤く腫れていた。そして、テーブルの上を指差す。そこには、紙切れが一枚置かれている。それを手に取ってみる。小切手だと、すぐに分かった。額面は、一千万円になっている。
 私は額面に驚き、混乱してカナコさんを見る。
「なんですか、これ」
「全部、全部嘘だったの。ごめんね」
「嘘ってなにが……」
「彼、離婚する気なんてまるでなかった」
 淀んだ空気が背中にのしかかるように、突然重くなって、私の体は床に近づいていく。そのまま膝から座り込んだ。フローリングにごつ、と鈍い音が響いた。

 陣痛を迎えたカナコさんは、事前に登録していた陣痛タクシーを呼び、病院へ向かった。タクシーが来るまでの間に彼、坂本悠樹にもメールを打てたのだから、我ながら余裕があった、とカナコさんは振り返った。
 タクシーの中でも、ストレッチャーの上でも、分娩室でも、天井ばかりを見つめていたという。そこに色々な人の顔が過ぎり、話しかけてくる。その中に彼の顔はなかった。
 経験したことのない痛みは、予想していたよりも遥かに強烈で、赤ん坊というのは地獄から狭き門を通って現世に逃げてくるようだと思い、自分もそうだったかと思うと、北海道に住む母親には申し訳ないことをしたなぁ、という気持ちすら浮かんできたという。そういえば、両親にはまだ子供のことも彼のことも話していない。どんな顔をするだろうか。彼は一発くらい父親に殴られるかもしれない、と古風な両親のことを思った。
 けれど陣痛が続き、激しくなるとそんなことも考えられなくなってくる。瞼の裏にピカソゲルニカの絵が浮かんできた、とカナコさんは言った。
「学生のときスペインで見たの。すごく怖かった。私にとっての地獄のイメージだったのかもね。あとは助産師さんの言う通り呼吸を整えて、ひたすら終わるときを待ったの」
 どれくらいの時間が経ったのか分からなかった。あと少し、と言われてから終えるまでの時間が一番長く感じもした。なにかが自分の中からごそっと抜け出た、体が軽くなったと思ったとき、目の前に血と体液にまみれた生物が差し出された。まるで未完成な生物が助産師の腕の中、頼りなく動いている。自分の右手が勝手に動いて、赤ん坊の頬を人差し指の背でさわる。目も開かない赤ん坊は、その瞬間に泣き出した。
「私の涙も、まるで共有するみたいにその瞬間出た。一緒に戦った戦友の気持ちで」
 分娩室の外から、押し入れられるようにして彼が入ってきた。カナコさんは笑顔で迎えた。彼の顔は真っ青に見えた。血がダメなのかな、と思ったという。
 彼はそれでもカナコさんの手を握った。震えているように弱々しい手を握り返した。お疲れ様、と彼の言葉にまた新しい涙が溢れ出した。

 カナコさんが不意に立ち上がった。
「コーヒーでも飲もうか」
 棚を開け、こっちに背を向けたまま、カナコさんは言った。
「いいです。それより、赤ちゃんは?」
 私はむっとした気持ちでそう言った。
「飲もうよ」
「いいです」
「飲みたいの」
 カナコさんが少し声を荒げた。私は黙った。
 そのうちに、ごりごりと豆を挽く音が部屋を包んだ。私は立ち上がって椅子に座り、深い呼吸を心掛けた。カレーを食べたあの日とは明らかに違う空気にコーヒーの新鮮な匂いは馴染まず、私の心をくつろがせもしなかった。
 そうしてカナコさんの背中を見つめていた。ほつれた髪が白いうなじに落ちていた。浮き上がった静脈のように見えた。

 カナコさんの病室は個室だった。費用のことを考え、大部屋への希望を言おうとすると彼に、費用のことは気にしなくていい、と言われた。彼の両親はたしかに資産家で、彼自身にもそれなりの貯えがあることは知っていた。
 その彼が携帯電話を片手に病室を出ていく。傍らにはようやく目の開いた息子がいる。なにかに縋るように半分閉じた手のひらに指を挟んでみる。ぐっと掴まれた握力は思っている以上に強い。
 自分が幸福の中にいるということに、疑う余地もなかった。
 部屋に戻ってきた彼の顔色が悪い。仕事の電話、と訊いてみた。彼は首を横に振る。
 ねぇ、最近物件情報をよく見てるんだけど。引っ越し先どこがいいかな。
 北海道の両親には、いつ挨拶行こうか。もちろんあなたのご両親に頭下げなくちゃいけないのも分かってる。私はもう覚悟決めて、
「彼が土下座したの。何をしてるのか、しばらくピンとこなくて。コンタクトレンズでも落としのかなって本気で思った」
 申し訳ない。
 彼の口からそんな言葉が出た。何を謝ってるんだろう、分娩室になかなか入れなかったことだろうか。いいのにそんな些細なこと。
 離婚はできないんだ。だから、君との結婚もできない。

「なんですかそれ」
 私は最後まで聞こうと思っていたのに、つい口をついて出てしまった。
「なんの話ですかそれって」
 カナコさんはコーヒーカップを両手で抱いていた。テーブルに視線を落としたまま言った。
「四年前、私と再開する前、彼は車で事故を起こしたの。彼は軽傷だったけど、助手席に乗っていた女性は腹部に強い衝撃を受けた。子供を産めない体になったんだって」 

 彼は話した。そんなことになったのは自分の責任で、だから一生を掛けて償わなければいけないんだ。なのに、君と再会して気持ちを抑えられなかった。
 許してくださいなんて言えない、けれど謝ることしかできない。
 カナコさんはなかなか彼の言葉を理解することができなかった。ただ声が届いた鼓膜の向こう、そのずっと先で、心の内壁が崩れていく音がしていた。
 妻に、君とのことをすべて話した、と彼は言った。そして、言い淀んだ。彼の手元が震えているのが分かった。
 僕は妻に償わなくちゃいけない。そのためならどんなことだってすると決めた。
 そして、彼は小切手を取り出した。額面に一千万とあった。
 こんなことを言う僕のことをどれだけ恨んでくれてもいい。一つだけお願いがある。

「君の産んだ子供を、養子として譲ってほしい」
 カナコさんが言った。一音一音を無機質に吐き出すように言った。
 私は、言葉を発することができなかった。冷めたコーヒーを一口飲んだ。喉の入り口で感じた苦みがそのまま広がりながら胸に下りてくるようだった。
「泣いてたの、彼」
 カナコさんが無表情に呟いた。
「私の目の前で、私以外の人のために泣いてた」
「だから?」 
 私の声はとがっていた。
「そんなの、誰のための涙でもないよ」
「分かってる」
「ただ自分のための」
「分かってる」
 カナコさんが私の言葉を遮った。
「でも私、そのとき思ったの。罪があれば罰があるって単純なこと。それで、その罰を彼も受けているんだとしたら、同じ罰を受けられるんだとしたら」
「それさえ幸せだ、なんてこと?」
 足下がぐらぐら揺れているような気がした。私は自分の中から自分を突き破って出てくる衝動のままに喋った。
「なにそれ。そんなの、そんなこと、全然幸せじゃないよ。ただ酔ってるだけだよ。そういうかわいそうな自分に。大体、そんなの背負うのは自分ばっかりでしょ。相手は、すぐに忘れるよ。忘れさせるんだよ、幸福が。幸福は何かを忘れさせるためにあって、重たく背負い続けるものなんかじゃ絶対ないよ。そんなことのために棄てるの、子供を」
「棄てるわけじゃない」
「棄ててるんだよ、子供も、その未来も。柔らかい肌とか、まどろんでる顔とか、ぐんぐん大きくなっていくなぁっていう喜びとか。私分からないけど、産んだことないし、彼氏もいないし、人付き合いも苦手だから分からないけど! 子供を産むってすごいことでしょ、すごいことのはずでしょ? その全部を棄ててしまえるその自己陶酔がこれっぽっちも理解できない!」
 左頬が音を立てた。痛みは後から熱とともにやってきて、私は平手打ちされたことを知った。カナコさんは私を殴った右手をテーブルの下に引っ込めた。
「あなたに分かるわけない」
 カナコさんの声は震えていた。
「勝手なことばかり言わないでよ。あなたは自分が持ってないものを持ってる私に理想を押しつけたいだけじゃない。あなたの思うとおりに生きさせたいだけでしょ。私にとっての幸せがなにかなんて、あなたが決めないでよ!」
「そんな風に思ってたんですか」
 私は言葉と同時に立ち上がった。カナコさんが一瞬引いて、ぐっと私を睨み返す。その目に溜まっていくものがあって、私は泣きそうになる自分の太ももをぎゅっとつねった。何も言わず、廊下に向かった。靴のかかとを踏んで、ドアを開け、後ろ手に閉める。
 マンションの廊下は蛍光灯の光だけがちりちりと前を照らしていた。
 自分の部屋へ入り、玄関に座り込んだ。体が自分のものでなくなったように重い。浅い呼吸が続き、胸が苦しくなって、涙が出た。ヒールのついた靴を脱ぎ捨て、ジャケットを脱ぎ捨てた。後頭部に金属製のドアの冷たい感触がある。ごん、と頭をぶつけた。振動が体を走り抜けて、暗いばかりの部屋に溶けていって、私はいっそう泣いた。

「あれ」
 隣の席の福島さんが呟いて、私の方を見る。
「これ、昨日計算してたのって、葛西さんですよね」
「あ、はい」
「桁違ってますよ、これじゃ帳簿、合わないです」
 福島さんが具体的にページを開いて教えてくれる。
「あ……済みません」
 私は謝ってうつむいた。
「大丈夫です、直しときますから」
「済みません」
 私は、ふっと息を吐く。午前中は、いつも必ず発注が来る卸先からのファックスが届いていないのに、確認の電話をし忘れた。案の定、相手の送り忘れだった。課長が気付いたからよかったが、もしもこちらが気づいていなかったら、双方のミスとはいえ、そのケーキ屋は仕事にならないところだった。
「何かありましたか」
 一瞬、自分に話しかけているとは気づかず、無視しかけて、慌てて福島さんを見た。
「はい、え?」
「葛西さんにしては珍しいというか。普段、そんなミスしない感じだったので」
 福島さんはパソコンを打ちながらそう言った。福島さんは私より十は年上で、ここでの勤務歴も長い先輩だ。けれどプライベートな会話をしたことは、ほとんどなかった。
「何かありましたか」
「えぇ、まぁ」
「男性関係ですか」
「いえ」
 あの日以来、カナコさんとは一度も顔を合わせていない。もう、二週間になる。
 というより、あの部屋から人の気配を感じない。彼女はもうあそこにはいないのではないかと私は思っていた。
「まぁ、色々ありますね」
 福島さんが言った。しみじみとした口調が、なんだか意味ありげだった。
「福島さんも色々あるんですか」
 福島さんが黒縁眼鏡の上の眉毛をぴくっと動かした。
「それはまぁ……いや、なんにもないです」
 表情には出さないが、何かを隠したと私は思った。
「色々あるんですね」
「仕事中です」
「仕事後ならいいですか?」
 私は自分の発言に驚いていた。私が人を誘っている。福島さんも驚いた表情で、こちらを見た。そしてゆっくりとうなずいた。

 職場の近くにある福島さん行きつけのお店は、赤提灯の似合う、渋くて小さな居酒屋だった。
 福島さんおすすめの焼き鳥や、巾着たまごを食べながら、日本酒を呑んだ。日本酒はじんわりと、体の芯にぽたぽた落ちていった。
 私たちの話は、会社の経営状態や、課長、部長の話から始まって、最近の若手社員の話へと続いていった。それから、福島さんの家族の話。夫と娘が一人だという。
 福島さんが結婚していることさえ、私はこの場で初めて知った。
「指輪とかしないんですね」
「指輪。買ったことない」
「結婚指輪買わなかったんですか」
「指輪になんらかの拘束力があるなら買ったかもしれませんね。浮気したら指が吹っ飛ぶとか感電死させるとか」
 福島さんは話してみると、なかなか面白い人なのだった。
「娘さんは今いくつですか」
「6歳です。私の細胞から培養したクローンだって夫は恐れてます」
「似てるんですか」
「中身が特にね。保育園じゃ『園長』ってあだ名らしいです」
 私はあの日以来、久しぶりに笑っている、と思った。それで、と日本酒を煽った福島さんが身を乗り出した。
「葛西さんは何があったんですか」
 私は迷った末、不倫や子供のことは話さずに、女友達とけんかしまして、と伝えた。
「はぁ、なるほど」
 福島さんは、日本酒をあらためて注文した。
「価値観の違いっていうか、まさかその人がそんな風に思ってるなんてっていう感じで」
「価値観がまるっきり一緒なんてことはあり得ないですからね」
 福島さんがきっぱりと言う。それから、あくまでも私の経験上ですけど、と前置きして話し始めた。
「女同士の友情なんて、特にそんなものというか。たまたま波長が合う時期にたまたま一緒にいるような、そんな感覚を私は持ってます」
「波長ですか」
「女の波長なんてすぐ変わりますからね。だから女同士の友情はその場その場の指向性の問題でしかないって気がします。向く方向が変われば、簡単に崩壊する。崩壊なんて大げさなものじゃなくて単に枝分かれしていくという感じですかね」
 そうなのだろうか。私はカナコさんの顔を思い浮かべる。
「私と葛西さんだってそうじゃないですか。今日たまたま波長が合うからこうして一緒に呑んでる。無数の枝分かれの先で私たちが出会った。ずっと隣の席にはいたんですけどね」
「じゃあ私たちもいずれ枝分かれしていく?」
「そうでしょうね」
「なんだか……寂しいですね」
「それを寂しいと捉えるかは、その人次第だと思いますよ。私はむしろ清々しいと思います。女の友情は」
 私は寂しいと思う。枝分かれなんてしなくていいと思う。単調でもいい、円環の中でぐるぐると同じ時を過ごしたいと思う。けれど、それは無理なのかもしれない。気持ち悪いのかもしれない。
「葛西さん、私は『信用はしても信頼はしない』というのがモットーです」
 福島さんが唐突に言った。
「それって、どう違うんですか」
「私の定義ですけど。信用はその人の過去、実績を見てするもの。でも信頼はまだ何もない未来に対してするものです。未来がどうなるかなんて分からないのに、信頼はできません」
 店員さんがやって来て日本酒を置いていく。
「たとえば三秒後、私はこの日本酒をあなたに浴びせかけるかもしれない」
「え、やめてください」
「たとえばです。あらゆる可能性があるってことです。信頼はその可能性を誰かに依り頼むってことじゃないでしょうか」
「でも、福島さんは日本酒を浴びせかけませんよ」
「どうしてですか」
「日本酒が好きだからです」
 福島さんが笑った。

 福島さんと駅で別れ、私は電車に乗った。五駅先で電車を降りて、歩き始める。昼間は暖かかった空気も太陽が沈むとまだまだ寒い四月の夜を、私はカナコさんのことを考えながら歩く。やはり考えてしまう、私は福島さんのように達観はできない、と思う。
 公園脇の路地を通る。月が見えた。ぼんやりと濃霧のように雲がかかっている。明日は雨だろうか。ドラッグストアのシャッターの前を通り過ぎ、信号を渡ると私のマンションが見えてくる。
 四階を見上げる。やはり、カナコさんの部屋には明かりがともっていない。
 エレベーターで上がり、自室のドアを開け、靴を脱いでリビングの明かりをつける。テーブルの上に、外したネックレスを置き仕事着のまま、ソファに腰掛ける。
 ひとりだ、と思う。
 福島さんと呑んできたばかりなのに、そんなことを思う自分が嫌だった。けれど、私の吐息以外なにも響かないこの部屋で、私はひとりであることを思ってしまう。
 立ち上がって冷蔵庫を開ける。ビールや缶チューハイが入っている。缶チューハイのレモンを取って、ふたを開ける。一口飲む。炭酸が喉をくすぐって落ちていく。
 気づいた時には三本目のお酒を空けていた。さすがに頭が少しぼーっとし、ソファにもう一度座る。
 なぜこんなにも寂しいのだろう。今までだって長い時間をひとりで過ごしてきたのに。
 本当はひとりじゃないことを知ってしまったからだろうか。自分がただ知らぬ顔をして、ひとりみたいな顔をして、通り過ぎてきてしまっていたことに気づいてしまったから。
 そのときから、ひとりである時間はひとりでは存在できず、他人がいて初めてひとりとして存在できるのだと気づいてしまったから。  
 菊田くんの顔が浮かぶ。井上さんの顔が浮かぶ、福島さんが、そして、カナコさんが浮かぶ。
 私は立ち上がって、隣室とを隔てている壁に耳をあてる。音はしない。
 どきどきと心臓が脈打っている。居ても立っても居られない気持ちは、視覚に乗り移り、部屋の中をぐるぐるとさまよって、奥の八畳間を抜けて、カーテンを閉め切った掃き出し窓にたどり着いた。
 私はゆっくりカーテンを開けた。月明かりが差し込んで来た。
 そして、心の整理もつかないまま、窓を開けた。

 マタニティ雑誌から顔を上げた。ページは湿って、裏面が透けて見えた。両目を袖で拭う。雑誌を閉じて元の棚にしまった。
 リビングへ続く扉を開けると、また暗闇に目が慣れるまで時間がかかった。徐々に琉球松の一枚板のテーブルが浮かび上がる。写真立てが、小物類が見えてくる。壁際のスイッチが見えたところで、電気をつけた。
 カナコさんの部屋だ、と当たり前のことを思った。くしゃみが出た。埃っぽい。
 椅子に座り、テーブルの上にすうっと指で線を引く。指の腹が灰色に汚れて、テーブルには筋が残った。
 掃除をしなきゃ、と思った。
 台所に掛かっているテーブル用の布巾を湿らして、拭うと、すぐに真っ黒になった。何度か流しで洗いながら、テーブルを拭き終える。
 寝室のクローゼットの下段から、掃除機を取り出して、コンセントを繋ぐ。ブイーンと音がする。こんな時間にはた迷惑だと頭の片隅で思いながら、寝室の床の隅々まで掃除機をかける。ベッドの下、サイドボードを移動して、その下も。枯れた花の挿された花瓶は一旦流しに移動する。
 そしてリビングに取り掛かる。まずテレビの脇に置かれたハンディワイパーでテレビ台、写真立てや小物の置かれた棚、コンセント周りの埃を落とす。それから再び掃除機をかけた。
 廊下まで掃除機が終わると、洗面所の流しの下から雑巾を取り出して、床や椅子の足を拭く。台所周りは花瓶の花を捨て、冷蔵庫の中の傷んだものを捨て、花瓶をすすぐと、後は台布巾で軽く水拭きした。
 そのとき、目の前に置かれたスパイス類が目に入った。
 最初に会った日のカレーを思い出す。あの日のカナコさんを思い出す。
 お米を洗い、炊飯器をセットした。炊けるまでの間にお風呂場とトイレを軽く掃除して、手をよく洗う。
 スパイスからカレーを作ることなど初めてだった。インターネットでレシピを見ながら、スパイスをフライパンにに入れていく。クミン、カルダモン、シナモン、クローブ、ローレル、オールスパイスコリアンダー、ガーリック、ターメリック、チリペッパー、ジンジャー、ブラックペッパー。クミンをやや多めに入れる。
 それらを弱火でじっくりと煎る。香りが鼻を通り抜ける。台所からリビングへ広がっていく。そこで火を止める。
 使えそうなじゃがいもと玉ねぎが、かろうじて残っていた。玉ねぎをみじん切りにして甘い香りがするまで炒めた。ジャガイモを入れ、炒めたところに水とコンソメを入れ煮立たせた。
 その間にフライパンでサラダ油、薄力粉を入れ弱火で焦がさないように炒めていく。火を止めフライパンを冷ましてからスパイスを加えていく。ルーが出来上がる。
 煮込み終わり、火を止めた鍋に、ルーを入れる。そしてまた火にかける。塩、胡椒をふる。
 食欲をそそる匂いに、お腹がぎゅうと音を立てた。
 しばらくして、炊飯器のアラームが鳴る。炊き立てのご飯をかき混ぜ、またふたをする。
 時間が経つのを待って、食器の準備をした。ひとり分の器にご飯を盛り、カレーをかける。テーブルに置いて、自分も座る。
 手を合わせ、食べてみた。辛い。適当に目分量で入れたスパイスが舌の奥を刺激する。美味しい。でも、あの日のようにはうまくいかない。
 うまくいかない。でも、食べられる。がつがつがつと、子供のように食べた。水を用意するのを忘れたと途中で気付いた。汗が出てくる。口の中をやけどしている。それでも構わず、食べた。
 食べ終えた。肩で息をしていた。毛穴という毛穴が開いて、水分を放出しているように感じた。
 そのとき、ガチャッと音がした。玄関が開いた。私は立ち上がる。
 カナコさんが立っていた。肩で息をしながら、赤ん坊を抱いて。

 カナコさんの目が丸くなる。お互い体が硬直したように動けなかった。
「……なにしてるの」
 カナコさんが声を発した。
「……カレー食べてました」
「それは、分かるけど、匂いで」
「カナコさんは」
「え?」
「その子」
「……あぁ」
 少しの沈黙があって、
「私の子」
 とカナコさんは言った。
「だって……」
「なんでカレー食べてるの?」
「いや、それよりその子」
 らちが明かないと気づいたのか、カナコさんは私の正面に座った。左腕に抱えたバッグを下ろして、赤ん坊は抱いたままだった。
「お水欲しい」
 カナコさんが言った。衝かれたように私は台所へ行き、コップに水を注いだ。
「ありがとう」
 カナコさんがいる。私はまだその事態をうまく呑み込めていなかった。カナコさんは水を一気に飲み干した。そしてテーブルに置くと、うつむいて長く細く息を吐いた。それは今までの一切合切を吐き出すような、長い時間だった。
 私はもう一度向かいに座った。
「うまく説明できる気はしないけど」
 カナコさんが話し出した。
 私と言い争いになったあと、カナコさんの苛立ちは収まらなかった。今までどこにこんな自分がいたのか、というくらいに頭に血が上り、涙が止まらなくなり、ご飯も何も食べずに眠ったという。
 翌朝、昼前になってようやく起きた。苛立ちは冷めてしこりとなり、胸の奥に残っていた。
「ここにはいられない、と思った。あなたに合わせる顔がないと思った。そのときはまだ、自分の非を認めたわけじゃなかったけどね」
 カナコさんは少し離れた街のビジネスホテルでしばらく寝泊りすることにした。そして、そこにいながらあの家を引っ越して、北海道に帰ろうと思っていた。
 胸が痛くなったのはその夜だった。乳房がぱんぱんに張っていた。飲む者のいない母乳が、溜まっているのだ。仕方なく、ホテルのコップに搾り出した。少し黄色っぽい母乳がコップに溜まり、捨てられていく。
 最初のうちは仕方ない、と自分に言い聞かせていた。自分が選んだ道だ。
 産後の出血も当然続いていた。どろっとした液体と生臭い匂いを嗅ぐと、分娩室の、あの台の上にいた自分を思い出した。あの痛みを、視界を過ぎったたくさんの顔を思い出した。
 痛かったなぁ、あれは、と思いながらパッドを替え、下着を自分で洗った。
 昼間はできるだけ外出した。彼と行った場所を巡った。美術館や映画館、プラネタリウム。外出中にも出血はある。胸は痛くなる。何かに責められているように。
「子供をたくさん見かけた。私の子供はどんな風に育つんだろうって考えると、余計に胸が痛むの」
 母乳を搾っては捨てる毎日。カナコさんは捨てるたびに、自分の体を削っているような、心のどこかが空白になっていくような感覚に襲われた。
 気がつくと彼の家の近くに行っている自分がいた。けれど、姿を見せることは絶対にできない。それでもわが子をもう一度だけ見たい。二つの思いがせめぎあって、いつまでも決着がつかなかった。
 
 産後の出血が、通常の生理程度の量になった。
 母親としての期間の終わりを告げられているような気がした。
 ぼうっとした頭で、母乳を搾る。いつの間にか、コップも使わずそのままトイレに流すようになっていた。
 よく見ていなかったせいで、便器から母乳がこぼれた。緑色のカーペットの上に白い点ができたと思うと、みるみるうちに浸みて、消えていく。
「こうやって消えていくのかなって思った。あかねちゃんが言ってたみたいに」
 声が漏れた。うずくまって泣いた。
「母乳は血と一緒だから。私は毎日、血を流しながら捨ててた。血を流して、生きるか死ぬかを分かち合った子供を、毎日棄ててたの」
 そのまま荷物をまとめてホテルを出た。タクシーを拾い、彼の家の住所を告げた。
 彼の家の少し手前で降ろしてもらった。まだためらいがあった。彼の家までの、ほんのわずかな距離を、長い時間をかけて歩いた。
 彼の家の前に着いたが、インターホンが押せなかった。ドアを直接ノックした。反応が無かった。何度も何度も叩いた。彼を叩いているような気持だった。けれど、彼が悪いのか、自分が悪いのか考えても分からなかった。
 ドアが開いた。彼が立っていた。
「カナコ……」
 頬を叩いた。私を叩いたときよりももっと強く叩いた。呆気にとられる彼を尻目に押し入った。彼が何か叫んでいるが言葉になっていなかった。
 リビングに、彼の妻がいた。立って、赤ん坊を抱いていた。カナコの顔を見て、驚きの表情のまま止まった。持っていた哺乳瓶が床に落ちた。
「お願い、って言った。それしか声にならなかった。お願いって」
 彼女が唾を飲む音が聞こえた。彼女の肩がだらっと垂れ下がった。
 無言で赤ん坊を、カナコさんに渡した。
 それから頬を叩いた。後ろにいた、彼のことも叩いた。
 馬鹿にしないでよ、と呟いた。
 カナコさんはポケットから小切手を取り出して、机に置いた。彼の顔も彼女の顔も二度と見ないと決めた。
 走って道路に出た。追ってくる気配はない。風が冷たい。赤ん坊を守るように抱いて、その温もりが逆にカナコさんを温めた。タクシーが通りかかった。

「それで今、ここ」
 カナコさんが心底疲れたという表情で、しばらく目を瞑った。
「それで、あかねちゃんはここで何をしてるの」
 私は。私は。
「私はね、カナコさん。あなたの言った通りだったの。あなたになりたかったんだよ」
 カナコさんはきょとんとした顔をした。そして、笑った。
「説明になってないよ」
「ごめんなさい」
「ごめんね」
「ごめんなさい」
「ごめんね」
 泣いていた。ぐしょぐしょの顔で、カナコさんが泣いていた。私も同じような顔をしているだろうと思った。赤ん坊を抱えたままのカナコさんに抱きついた。汗の匂いと、よだれの匂いと、ベビーパウダーの匂いが混ざり合っていた。
 私たちは枝分かれしていく。だとしても、この数秒を繋ぎ止めたい。抱きしめていたい。
 不意に赤ん坊が声を発した。と思ったら、瞬く間に泣き出した。
「お腹空いたのかな」
 カナコさんは呟いて、コートを脱いだ。薄手のニットをたくし上げて、胸を出した。
 赤ん坊に乳首を近づけると、泣き止み、小さな口で乳首を挟んだ。ちゅうと吸う音が聞こえた。
「お母さんだ」
 私が呟くと、カナコさんが目を細めた。
 私はその様子を眺めて、次第に視線が落ちていく。初めてこの部屋に来た時のような安心感が私を包んでいた。目の前にテーブルの木目があった。木目は川の流れのようにゆらゆらとゆれて、やがて暗闇になった。

 がくんと穴に落ちる夢を見て、私は目を開けた。
 椅子からずり落ちそうな下半身を見て、はっと首を上げる。リビングで私はいつの間にか眠っていたらしい。瞼にどんよりした重力を感じながら首を回す。カナコさんの姿はない。目の中を滑っていくのはすっかり見慣れた調度品ばかりで、それらは静けさを守りながら、私をじっと見つめている気がした。
 じわじわと、長時間座っていたお尻の痛みが感じられてくる。立ち上がり、キッチンに入る。
 カレーの匂いと芳香剤のようなフローラルな香りが混じっている。流しには野菜の皮が捨てられた三角コーナーと一人分の皿が置いてあり、ルウが入ったコンロの上の白い寸胴鍋は、触るとまだほんのり熱を持っていた。
 蛇口をひねると水が出たので、皿を洗うことにした。洗剤をつけすぎてスポンジが見えないほど泡だらけになった手を動かす。体全体が道具になったみたいに、ただそれだけに没頭した。皿を洗い終え、寸胴鍋に残ったルウをどうするか少し考えて、捨てることにした。また作ればいいと思った。うちもスパイスを揃えようか。どぼっとルウが流れ出る。寸胴鍋が軽くなるとともに、胸もすうっと澄んでいく。
 鍋を洗い終えたスポンジで流しをごしごし洗った。黄色いスポンジに茶色が滲んだ。後ろにあったごみ箱にそれを放って、キッチンを出た。
 開けっ放しの寝室のドアが、微かに動いた。手を腰にあててその先のベッドとはためくカーテンを見つめている内に、どこかに行っていた自分が自分の中に帰って来たような気がして、寝室に向かった。
 陽光が線を引いたようにまっすぐ伸びて、埃の道を作っている。
 ベビーベッドのシーツに顔を寄せる。埃が舞って鼻がむずむずした。自分の部屋で、シャワーでも浴びよう、と思った。