いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

不在

銀色の柵が太ももに直接触れるとびいっと電気が走るように冷たかった。はぁっ、と声が出てしまい、口を閉じて辺りを見回す。四階だ、そこの路地を人が通りでもしたらすぐに見つかってしまうだろう。向かいのアパートのベランダもこちらに向いている。そこから覗かれていたらそれもまたアウトだろう。
 幸いに、人の視線は感じられなかった。路地には街灯は無く、黒い影となった電柱と、サントリーの自販機が一つ、アパートの横で煌々と光を放つだけだ。夜中ガションと音がして目を覚ますことがよくあるのは、あの自販機のせいだ。
 私自身は買ったことがないが、体感的に、夜中になるとそれなりにあの自販機で人は歩みを止める。酔い覚ましに炭酸水でも買うのだろうか、他に光の無い路地で虫のように吸い寄せられてしまうのだろうか。
 目を覚ますといえば子供のさわぐ声も私の睡眠を阻害する。夜の十時をとうに過ぎたような時間にである。子供が悪いわけではない。そんな時間まで子供を起こしておく、しかも騒がせておく親が悪いと私は思う。
 柵にそろそろとお尻を乗せる。左手で非常用の隔て板を掴み、右手はお尻の横の柵を掴む。体の後ろ半分が緊張する。宵闇の中にふわっと浮かんでいる感覚だ。風が吹く。大して強い風でもないが、何者かが私を邪魔しているみたいなタイミングに思えてしまう。隣人のベランダに忍び込もうとする厄介者を。
 カナコさんと初めて話したのは、マンションの回覧板を回した時だから、ここに来てすぐのことだ。隣に引っ越してきました、よろしくお願いします、の挨拶を怠ったっていた私は、なるべくなら顔を合わせずに済まそうと思っていた。というのも、以前のアパートに引っ越したとき、隣人に引っ越し蕎麦まで持って挨拶に伺った結果、
「はぁ」と怪訝な顔をしたすっぴんの女性が現れ、私が挨拶してる間、私が手に持った蕎麦をじっと不思議そうに眺め、挨拶が終わるか終わらないかのタイミングで、
「引っ越し蕎麦って自分で食べるんじゃないの?」
 と言われドアを閉じられたのが原因である。その隣人の名は井上さんといった。そんな態度の割には、しっかりとドアの上に手書きで井上と書いた札が入れられていた。
 そんな態度だった井上さんには、たびたび迷惑を掛けられた。狭いワンルームのアパートで何人もの声がするなと思ったら、夜中までどんちゃんさわぎが続いたり、ある時は酔っぱらった赤ら顔の男性が、おそらく井上さんの部屋と間違えて上がり込もうとしてきたこともあった。私の顔を見て、
「あんた誰?」
 なんて言われた、その屈辱感や苛立ちよりも恐怖心が勝って、
「葛西あかねです」
 とフルネームを答えてしまったことを、今でも悔しく思っている。
 またある夏の日には、ガラの悪いお兄さんたちと井上さんがアパートの前で流しそうめんを始めた。井上さんは髪を金髪に染め、暑いのにスカジャンを着て、片手には泡の消えたビールを持って上機嫌だった。上機嫌なのは顎が外れそうなくらい口を縦に開けるその笑い方でなんとなく分かった。
 運悪く、買い物から帰ってきた私と井上さんの目が合った。
「あ、アカネちゃん」
 そう言われたとき、私は総毛立っていた。なんで名前を知っているのだろうと怖く思ったけれど、今思えばあの時、知らないおじさんにフルネームで答えたのが伝わったのかもしれない。
「アカネちゃん、流しそうめんやってんの」
 見れば分かると思った。しっかりと竹を組んで作られた本格的な流しそうめん台の下端からは、じょぼじょぼと水が流れ続けていた。
「風流ですね」
 私が言うと、その場がどっと沸いた。井上さんもまた口を縦に開けて笑った。
「アカネちゃん面白いわ。最初のときはごめんねー」
 覚えているのか、という意外さと、そんなこといいから放っといて、という思いが交錯した。
「いえ全然」
 と引きつった笑顔でその場を立ち去ろうとしたとき、井上さんが、
「食べていきなよ」
 と言った。私は振り向いた。井上さんの目は、あの日のすっぴんから倍くらいに大きくなっていてアイシャドウが濃い目の黒で、笑っていなかった。
「一口。ちょっとさすがに飽きてきちゃってさ」
 男たちはにやにやとしている。私は、断れないと思った。
「麺類好きそうだし」
 それは、あの日の蕎麦のことを言っているのだろうか。どうしてか、井上さんからは私に対する悪意がどばどばと放たれているように感じた。何もした覚えは無いのに。
 私はめんつゆの入ったプラスチックコップと割り箸を持たされて、流しそうめん台の真ん中あたりに立たされた。買い物袋がひじの内側に食い込む。血が止まっている気がした。足も手も少し震えていた。
「じゃあいくよ」
 と言って井上さんがざるの中のそうめんを一つまみ流す。私は慌てて箸を出す。そうめんの玉は微かに左右に揺れながら流れてきて、私の箸から逃げるように過ぎていって、掴めたのはほんの一、二本だった。
「オーノー!」
 井上さんが大げさに空に向かって声を出す。お兄さんたちがガハハと笑う。掴めなかった麵たちは、下でざるに受け止められている。そこは粗末にしないのかと意外に思った。
「もう一回ね」
 井上さんがもう一度そうめんを流した。私は箸の間隔を少し広げ、掴むというより受け止めるという感覚で臨んだ。白いかたまりが、私の箸でほとんど受け止められた。
「大成功ー!拍手!」
 井上さんが叫ぶ。なんでそんな声が、近所に丸聞こえの声が出せるのか、さっぱり理解できなかった。男たちの拍手が響く中、私はめんつゆにそれをつけて食べた。薄味で、不味かった。
 そういった理由で隣人と顔を合わせることを避けていた私だったが、回覧板には大きく『お隣に回す際には必ず一声かけて、お渡しください』と書かれていた。なんでこういうことをするのだろうと思う。このマンションには『人とすれ違う時には挨拶しましょう』なんて貼り紙も、集合ポスト脇の掲示板に留められている。それが犯罪抑止の意味があるとか、そういうことは分かっても、なぜ強制されなければならないのかが分からなかった。
 何も言わず、ドアノブに掛けておこうと決めて玄関を出た。そこに宅配業者の相手をするカナコさんが立っていた。
 横顔だけで、美人だ、と思った。ちょうどよい高さの鼻筋と優しそうで大きな目が宅配のお兄さんに向けられていた。ぼうっと見とれていたのだろうか、宅配のお兄さんが先に私を見た。それにつられるようにカナコさんがこちらを向いた。目と目が合って、カナコさんが会釈をした。私は慌ててお辞儀する。
「こんにちは」
 宅配便を受け取り終えたカナコさんが言った。それはとても自然な言葉で、私のように、強制されてぎこちないものではなかった。
「済みません、初めまして」
 と私は言った。顔は赤かったと思う。鼻の奥が詰まったように顔の中心がかっと熱くなった。
「あ、そうですね、引っ越してらっしゃったんですよね。石室です」
 カナコさんが笑った顔で言う。
「済みません、挨拶もせずに。葛西です」
「そんなそんな」
 顔の前でカナコさんが手を振る。よくよく見てもやっぱり美人だった。あか抜けていて、落ち着いていて、年齢は私より少しだけ上に見える。
「これ回覧板です」
 緊張しながら手を前に出すと、はい、と言って両手でカナコさんが受け取る。ハンドクリームだろうか、なにか、植物系のいい匂いがした。
 では、と戻ろうとした私に、あ、と声がかかった。振り向くとドアが開いたまま、カナコさんの姿が消えていた。しばらくそのまま突っ立っていると、またカナコさんが現れて
その両手にはじゃがいもが握られていた。
「実家から送られてきたんだけど、要りません?」
「いいんですか」
 私は訊きながら少しずつ玄関に近づいた。
「北海道から送ってくれるのはいいんだけど、量がね。うち一人だから」
「あ、お一人なんですか」
 思わず声に出してから、失礼だったか、と考えたが、カナコさんは目を見て笑っただけだった。
「葛西さんは?」
「一人です」
「一緒ですね」
「そうですね」
 私も笑った。緊張の糸が少しほぐれているのを感じた。
 このマンションは全室1DKの賃貸で、単身者が多いようだが、夫婦の入居者もそれなりにいる。築年数は浅いが、地盤があまりよくないのと駅から徒歩二十分という距離で相殺されて手ごろな家賃になっていると不動産屋さんが言っていた。
 地盤があまりよくないのは気になったが、具体的にどうよくないのかは不動産屋も知らず、建物自体の耐震性とかは問題ないんで、などという文句でごまかされたまま借りることになった。
「じゃがいもと、たまねぎ、にんじん……カレーでも作るか」
 カナコさんが少し上を見ながら呟いた。
「うちもそうします」
 私が相槌を打つと、カナコさんの目がぱっと輝いた。
「じゃあ……どうせならうちで一緒に食べません?」
 えっ、と私は言ったが、その後には、いいんですか、と続けていた。
 着替えのために自室に戻り、どんな格好をしていこうかと悩んだ。お隣さんとして気軽にお付き合いしたいから、あんまりお洒落してもおかしいし、かといって気を抜きすぎるのも失礼だと思った。白いブラウスを着ようとして、カレーを食べることを思い出し、黒のブラウスに代えた。下はグレーのパラッツォパンツを履いた。
 改めてカナコさんの家の前に立つと、また少し緊張したが、慌てずインターホンを押す。
「はーい」とカナコさんの声が響き、「どうぞ」と続いた。
 玄関を開けると、早くもサラダ油と野菜の甘い匂いが漂い始めていた。
「ごめん、作り始めちゃってる」
 とキッチンから声がする。
 玄関には靴ひとつ置かれていない。すべて脇の白い靴棚に整頓して入れられているのだろう。靴棚の上には薄い青の皿が置かれ、その上に木片が載っている。顔を近づけるとそこから爽やかで甘い香りが漂い、鼻孔をくすぐった。
「お邪魔します」
 と声をかけ、靴を脱いだ。廊下の途中にトイレと洗面所があり、奥にダイニングキッチン、フローリングの八畳間へと続く造りは私の部屋と同じである。それでもたとえば洗面台の黒光りする石鹸入れや、リビングの真ん中に置かれた、木を縦に割ったような木目の鮮やかな一枚板のテーブル。写真立てに飾られた、イタリアかどこか暖色の屋根が並ぶ街並みのフィルム調の写真、檜の匂いがするシンプルなブロックカレンダーなど、何風とも評せない趣味の一つ一つに良い雰囲気が漂う部屋だった。
「統一感のない部屋でしょ」
 きょろきょろと部屋を見て回る私を見て、たまねぎを切りながらカナコさんは笑った。
「そんなことないです」
 私は本心から言った。北欧風だとかアジア風だとかにまとめられた友人や知人の家にお邪魔したこともあって、それは素敵だと思ったけれど、家主ではない何かに支配された空間であるような気がして、落ち着かなかったことを覚えている。ここはたしかに家具の統一感はそれほどなくて、でもカナコさんがいることで統一されている部屋のように思えた。同時に、それは単に私がカナコさんに好感を抱いているだけかもしれないと思うと、少し気恥ずかしくもなった。
 勧められて、青い腰高の椅子に座る。
「そのテーブルいいでしょう。琉球松っていう木を使ってるんだって」
「素敵です」
 答えながら私は正面のカウンターキッチンで、ジャッジャッと野菜を炒めるカナコさんを見る。
「うちのカレーね、カレー粉からちゃんと作ってるんだよスパイス入れて。まぁホールスパイス使いたいとこなんだけどパウダーだから、なんちゃって本格派だけど」
「ホールスパイスってなんですか」
「スパイスの原型そのままの物のこと」
「はぁ」
 私は料理をするにはするが、カレーは当然ルーを使うし、だしはだしの素だ。好きというより、それしか手段がないから料理しているという感じで、そのあたりもカナコさんと違うだろうと思った。
 それをふと口に出すとカナコさんはうなずいて、
「それが普通だよ」
 と言った。
「うちは母親が料理教室やってて、その名残というか、ね」
 それからしばらく無言で、カレーを作るカナコさんを見ていた。時々額の汗を軽く拭きながら、カナコさんは料理に没頭している。飴色になっていくたまねぎの香りや、スパイスカレーの複雑な香りがぶつかり合い、混ざり合って部屋を充たしていく。
 私は初対面の人の家で、勝手に眠くなっていた。なんて失礼なやつだろうと思いながらも、ここはなぜだか居心地がいいから、と言い訳をして脳がまぶたを重くしていく。目の前の世界が船上にいるように揺らいで視線がテーブルに落ちたころ、そっとカレーの入ったお皿が置かれた。
「お待たせしました」
 とカナコさんの小声。私はびくっと全身で反応し、済みません済みません、と謝った。まさかよだれ垂らしてないだろうか。慌てて口に手をやる。その様子を見てカナコさんは笑う。
「そういえばちゃんと自己紹介もしてないね私たち。私は石室カナコです」
「葛西あかねです」

「カナコさん」
 私はベランダの柵から上半身だけカナコさんちのベランダに乗り出して、小声で名前を呼んでみる。そんなの届かないし、返事もないと分かっているくせに、そうすることでなにか許されると思っている。
 部屋の電気はやっぱり消えている。なのにカーテンだけは開いていた。しばらくそうして覗き込みながら逡巡していたら、また風が吹いた。さっきより強い風は、アルコールを含んだ私の思考を後押ししているように思えて、覚悟を決めた。もう一度、下を見下ろす。高さは、死ぬには充分あるように見えた。緊張する。左手にぐっと力を込め直してから、左足を持ち上げて、カナコさんちのベランダ側に差し入れる。柵の上の右手とお尻をゆっくりと動かす。体の真ん中に隔て板が来た。そこからまたゆっくりと宙ぶらりんの左足の方に体重をかけながら体を時計回りにひねっていく。左足はまだ着地しないまま、窓に背を向ける形になった。静まり返った住宅街と正対する。寝静まっているというより、じっと息をつめて私を監視しているように思えた。
 手の位置を変えながら右足を外側からくるっと回してベランダの中に入れ、ゆっくり腕を畳んで着地した。足の裏に、コンクリートのひやりとした温度と、ざらざらの肌触りがある。
 ふう、と息を吐いた。それから掃き出し窓の方にそろりと近づく。もし、中にカナコさんがいて、この光景を、私を見たら悲鳴をあげるだろう。それでも、不安感の方が勝って、私をここまでさせてしまった。けれど、私にできるのはどうせここまでだ。この窓の外から、中を覗くだけだ。
 目を凝らす。カナコさんの白いベッドが見えた。そこに人の姿は無い。リビングはどうか。掃き出し窓にくっついて覗き込んでいるとき、気がついた。
 窓に鍵がかかっていない。

 カレーを一緒に食べてから、私たちは頻繁に顔を合わせるようになった。
 カナコさんはお菓子メーカーの宣伝部で働いていることが分かった。それで休日は時々、都内のケーキ屋や、デパ地下のお菓子コーナーや、行列のパンケーキ屋に行くというので、ご一緒させてもらうことになった。
「本当は開発部に異動願を毎年出してるんだけどね」
 とカナコさんは言っていた。カナコさんならきっと美味しいお菓子をつくるだろうけれど、宣伝部にとっても大事な人材であろうことは容易に想像がついた。
 食べながら、カナコさんは熱心にメモを取り、ケーキならケーキのイラストを添えた。
 彼氏の存在について知ったのは、そんな風にメモを取るカナコさんの手元を私がぼうっと見ていた時だったと思う。
「あかねちゃん、あんまり見られてると恥ずかしいよ」
「いや、でも、字も絵も上手だなぁって思って」
「字は男っぽいってよく言われるよ」
「誰にですか?」
「……職場の人とかに」
 答えに一瞬の躊躇があって、私はにんまりした。
「本当に? 職場の人?」
「……あと、彼氏とか」
 恥ずかしそうにカナコさんは答えた。
「彼氏さん。きゃあ、ですね」
「きゃあ、ですよ」
 彼氏さんは音響機器メーカーに勤めているのだと、カナコさんは喋った。甘いものは苦手で、カレーが好きだということも。
「え、じゃああのカレー、食べに来るんですか?」
「たまぁにね」
 私は想像する。あの部屋で、カナコさんと二人静かにカレーを食べる彼の姿を。そして彼にだけ見せるカナコさんの特別な笑顔や、たおやかな仕草を。
「いいですね」
 カナコさんはまた束の間戸惑った表情を浮かべてから、ありがとう、と言った。それから、
「あかねちゃんこそどうなの」
「どうなのもなにも」
 そう、どうなのもなにもないのだ。私の職場は小麦粉やバターなど、パン屋やケーキ屋に材料を卸す問屋の受付担当だ。卸先からの電話を受け、ファックスを受付け、在庫管理部に回す。午後は経理の仕事も兼ねる。同じ部署の社員は女性しかいない。大学からの新卒で入社したので、私が最年少で、入った当初は他の部署、特に配送部門の男の子たちに多少の人気はあったらしい。その中で、菊田くんという同い年の子に惚れられ、付き合った。
 菊田くんは高校を卒業してこの会社に入社したから私より四つ先輩にあたり、配送部ではもうベテランに近い雰囲気があった。急な配送の変更にも人員不足にも涼しい顔で対応し、常に冷静に見えた。
 顔は普通だけれど、高校までサッカーをしていたという細くて筋肉質な体はそれだけで見とれてしまうようなしなやかさを有していた。
 彼は彼で、私の穏やかなところ、細かいことを気にしない性格が好きだと言ってくれた。
 一年半ほど付き合ったはずだ。別れを切り出したのは菊田くんからだった。
 切っ掛けは特に無かったはずだ。それでも別れはやってくる。一年半ほどの間に、彼は私の本当の姿に気付いたのだろうと思う。穏やかなところも細かいことを気にしないのも見せかけに過ぎないこと、それはただ感情を表に出せない臆病者であるということを。
「なんかさ、あかねってさ、穏やかでいいんだけど、フックが無いんだよ」
 菊田くんは最後にそんなことを言った。
 菊田くんは別れてからも職場を変えたりしなかった。裸を知っている者同士、時には仕事のことで会話したりするのが、付き合っていた時よりも生々しく感じられて、不思議な感覚だった。
 私の職場での人気は、馴染むまでの一時のことだった。馴染んでしまえば私は、人がつまずいたり発見したりするような凹凸にはなり得ない。菊田くんが言うとおりに。
「職場以外でも無いの?」
「無いですね。おじいちゃんに道を訊かれることはよくあるんですけど」
 私はそう答えて、会話を終わらせた。
 カナコさんの彼氏に会うことはなかった。二人が会うことはそんなに頻繁ではないようだった。興味はあったけれど、自分から会わせてほしいというのも変だと思ったし、カナコさんはその話題をなるべく避けたがっているようにも思えた。
 カナコさんの体調に変化が訪れたのは、私たちがそんな風に過ごしていた今年の春だった。一緒に映画に行く約束が体調不良でキャンセルになったり、頭痛がすると言うようになったりした。私は心配になり、拙いながら二人分の食事を作ったり、時々様子を見に行ったりした。病院に行かないんですか、と訊くと、病院はね、と否定的な応えが返ってくることもあり、私はやきもきしていた。
「ありがとう」
 カナコさんは私が、お節介かな、と考えているときに限ってそう言ってくれた。私は自分が近づきすぎているのではないかと、心配になるところがあった。
 幼い頃から、誰かと友達になるとその子とばっかり遊び、相手に愛想を尽かされてしまう。そんな経験がたびたびあったからだ。人との距離感の分からなさ、それは私が抱える厄介な問題であるようにずっと思ってきた。
 それからしばらくして、ようやくカナコさんは病院へ行った。
 そして、妊娠していることが分かった。
 その報告をしてくれたときのカナコさんの表情は、転んだ直後の赤ん坊のように複雑に感情が混ざり合ったもので、心臓が浮き上がるようだった私の喜びの感情も、少し重たくなった。
 それでも、良かったですね、とカナコさんの両手を握った。カナコさんも、うん、と頷いて、その頬をしずくが伝った。
 カナコさんの彼氏には、家庭があることを、私はその直後に聞いた。
 彼と出会ったのは、イタリアのフィレンツェだという。あの街、と部屋に飾ってある写真を指差しながら、カナコさんは話し出した。
 カナコさんは社会人一年目の五月、イタリア旅行に出た。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂という荘厳な教会に見とれていたカナコさんは、後ろから近づいてくる二人組に気付かなかった。一人が聖堂に背を向けて写真を撮るようなポーズを見せ、その死角でリュックの中身を狙うスリの常習犯二人組だった。カナコさんは見事にすられた。と、背後で怒鳴り声がして人の悲鳴が聞こえて、ようやくカナコさんは振り向く。バックパッカー姿の男性が、すった男を組み伏せていた。もう一人の男は走って逃げていくところだった。そのスリを捕まえた男性が、彼だった。
 警察署で、カナコさんは何度も何度も頭を下げて感謝を表した。彼は恐縮したように、照れ笑いを浮かべていた。警察の取り調べが終わり、二人は解放された。なんとなく去りがたい気持ちがその時にはすでにあったという。それでも挨拶をして別れようとしたとき、彼から声がかかった。
「お金貸してくれませんか、って言われたの」
 カナコさんは何度もしてきたであろう話で、幸せそうに笑った。
「実は僕も昨日スリに遭ったんです、って」
 二人は、そこからイタリアでの行動を共にした。彼はヨーロッパ中を趣味の写真を撮りながら回っているバックパッカーだった。優しくて、明るくて、紳士的な態度に、カナコさんはもう完全に惹かれていたという。それでも、お互いの名前を知っただけで、他には何も分からないまま、カナコさんは先に帰国の途についた。23歳のときだった。
「彼の財布もイタリア滞在中に見つかって。現金以外は盗られてなかったから、貸し借り無しになっちゃって。それからしばらくは惜しいことをしたって、ずいぶん後悔したの。友達にもなんでもっと迫らないのとか怒られたりしてね」
 それでも日常に忙殺されて、いつの間にかそんなことも忘れ帰国から五年ほど経ったとき、友人の勧めでフェイスブックを始めた。知ってる人の名前を入れて検索するのだと知ったとき、頭の中に電流が流れ、あの人の名前が浮かんだ。忘れてはいなかった。
 少し緊張しながら名前を入力して検索をかける。検索候補に出てきた名前と顔写真は、たしかに彼のものだった。逡巡した挙句、友達申請をした。もう忘れられてるだろうと、自分に保険をかけながら待っていた二日後、メッセージが来た。お久しぶりです。僕も検索してたんですけど、新しく始められたんですね。
 嬉しかった。
「けれど、彼のプロフィールを見てがっかりしたの。本当に、泣きそうなくらい」
 彼はカナコさんより年齢が五つ上で、既婚者だった。
「まぁ、仕方ない、友達ってことにしようと思って。懐かしい話を時々したり、彼のその後の旅の話を聞いたりしてたの」
 インターネット上での再会から半年ほど経ったとき、彼からメッセージが来た。あのときイタリアで撮った写真を渡したいです、と書かれていた。
「迷いましたか」
 私は訊いた。カナコさんの瞳が揺らいだ。
「ちょっとだけ。私、ちょっとだけしか迷わなかった」
 都内のイタリアンレストランで、二人は本当の再開を果たす。彼は無精ひげも生やしていないし、髪型も整えられている。あの日と印象はまるで違う。それでも緊張のひもを解いて話してみれば、彼はやっぱり彼のままだった。ワインを飲み、ピザを食べ、他愛もない話に花を咲かせる。幸せだとカナコさんは思った。痺れるくらい幸せで、張り裂けるほど悲しい食事だった。
 カナコさんは、付き合ってる人とかいるの。先に訊いてきたのは彼の方だった。首を横に振り、自然と話は彼の結婚の話題になる。彼はカナコさんから視線を逸らして、ぽつぽつと話した。彼女とは大学の写真部時代からの付き合いで、ヨーロッパ旅行から帰って一年くらいして結婚した。そうなんだ。空々しい返事に彼は何を思っただろう。
 別れ際、忘れてた、と言って彼は写真を取り出す。カナコさんが笑って手を差し出したとき、また会ってくれませんか、と彼は言った。芯のある静かな声だった。カナコさんは、首を縦に振った。振ってしまった。
「二回目に会ったときに体の関係を持った。でも、怖いくらいに罪悪感は無かったの。私、ここから先地獄かもしれないのに、その入り口で笑ってた。幸せだって涙流してた」
 話を聞き終えて、私は何も言うことができなかった。それが間違ったことだと、断ずることができなかった。ただカナコさんの、力を加えればすぐにでも割れる陶器のように美しく白い手を見つめていた。
「私、産もうと思ってる」
 カナコさんは笑顔で言う。
「彼にも伝えた。やっぱり動揺してるみたいだったけど」
 まだ答えはもらえていない、これで何かが変わると期待するのは浅ましいことかもしれないけれど、それでもやっぱり彼のことが好きだから。
 カナコさんは笑顔のまま、そっと目を伏せた。

 窓を開ける瞬間、悪臭がするのではないかと身構えて、慎重に窓を開けた。そっと匂いを嗅いでみる。埃と枯れた花の濃い匂い。つんと鼻腔をついたが、思っていたような匂いではなかった。
 中に入ろうとして、窓枠に足を引っかけて転びそうになる。慎重を期していたくせにこんなところで。すでに日本酒をたっぷり飲んでいる。アルコールに強い性質ではあるが、注意力や集中力が欠けてきている。忍び込んでいる時点で、判断力も怪しい。
 カナコさんの寝室に入った。月明かりが私の姿を黒くフローリングの床に形づくり、大きな穴のように見えた。その床を埃が覆っているのが足の感触でわかる。
 瞳孔が拡がって徐々に闇に光がともる。右の壁際にベッドがある。白いシーツに白い掛布団、枕のシンプルなベッドからも湿った空気と埃の混じったような匂いがした。私は亡くなった祖母の、遺品となったベッドからも同じ匂いがした、と思う。
 ベッドの隣に置かれたサイドボードに、花の挿された花瓶と、私の部屋にあるのと同じ形のリモコンがあるのを見つけて、リモコンのスイッチを押した。二、三度の明滅のあと、照明がついた。私の影は消え、花瓶に刺さった赤い花はくたりと折れて、すっかり枯れているのが分かった。
 ベッドの隣にはもう一つ、ベビーベッドが置かれている。楕円型に柵で囲まれたベッド。カナコさんと私で、熱心に選んだベビーベッドが、埃の舞う部屋の真ん中で無表情に佇んでいる。私は柵に触れる。角の丸みをなぞって、指が滑り落ちる。
 カナコさんは帰ってきていない。主のいない家独特の、空間のゆがみというか、時流のねじれというかそういうものがあるように思えた。それもまた、死後、祖母の家を訪れた時と同じ印象だった。
「カナコさん」
 もう一度、意味もなく呟いた。心の中から空気がどんどん抜けていくような虚無が、私を襲っていた。私は力なくベッドに腰を下ろした。サイドボードの下段に、マタニティ雑誌が何冊も置かれている。一冊を手に取り、広げた。目は字を追えず、ただお腹の大きい女性の写真を見ては、ページをめくるばかりだった。ところどころのページに付箋が貼ってある。どんな思いで彼女がこの雑誌を読んでいたかを思って、胸が締めつけられる。本に顔を埋めた。涙が出た。

 ある日の夜、我が家のインターホンが突然鳴った。ドアを開けると、そこにカナコさんが立っていた。カナコさんは普段着よりもお洒落をしていた。どこか出掛けていたんですか、と訊く前にカナコさんが抱きついてきた。お腹が少し張り出してきているのがそれで分かった。
「ど、どうしたんですか」
 改めて訊くと、カナコさんは私の顔を見て、涙を堪えるように顔に力を入れたあとで口を開いた。
「一緒に暮らそうって」
「え?」
「子供が生まれて、ちゃんとけじめつけたら、一緒に暮らそうって、彼が」
 それって、と私は呟いた。全身に鳥肌が立つのが分かった。カナコさんが何度も頷く。どうしていいのか分からず、カナコさんを抱き返すのもお腹の子に悪いような気がして、拍手をした。一人で盛大に拍手をした。
 カナコさんはそれを見て泣き笑いの顔だった。ありがとう、と呟いた。
 そのあと、私はお酒を持って、カナコさんにはお酒代わりの炭酸水を用意して、カナコさんの家に集まった。
 二人で乾杯をして、とにかく喋った。どこで、どんな風に、なんと言われたか。カナコさんは泣いたのか、笑ったのか。キスはしたのか。
 なんでそんなとこまで、とカナコさんが笑うほど、私は色々と訊いた。それから子供の名前の話になった。
「二人が出会ったイタリアにちなんだ名前もいいかなって思ってる」
「マルゲリー太みたいな?」
「あかねちゃん。これ、真面目な話」
「シンプルに、パス太っていうのもあるね」
「もう。女の子だったらどうするの」
「マルコってイタリアの名前っぽい」
「……まる子か。それいいかも」
「え、本当に。やめましょうよ」
「嘘よ」
 他愛もない話は、夜が深く深く溶けていくまで続いた。そのうち、話題が尽き、ぽつりとカナコさんが言った。
「でもね、こんなの偽善だって思われるだろうけど、相手の奥さんのこと考えるときもあ る。私、確実に他人を傷つけてるんだって、思う。不幸に陥れるんだって考える。昔ドリフのコントであったでしょ、開いてる引き出しを閉めると、違う引き出しが開いちゃう、また閉めると、別のところが開いちゃう。結局私のしてることはそれなんだなって」
 私は頬杖をつきながらそれを聞いていた。
「彼女の幸福を犠牲にして、幸福を手にする。誰からも祝福されない幸福をね」
「私は祝福しますよ」
 率直な気持ちを言葉にした。私なりの覚悟を、そこに込めたつもりだった。たとえ彼女が加害者であっても、それを祝福することで私自身が加害者になるとしても。
 人間は、もともと公平な生き物ではないのだから。
 カナコさんは、膝の上で組んだ手をほどき、組み直しながら小さく微笑んだ。
 それからの数か月、カナコさんは産休を取り、お腹の子と共に順調で平穏な日々を過ごした。定期的な検診でも経過は順調だった。
 私はときどき部屋の掃除や、買い物を手伝ったりしながらそれを見守った。赤ちゃんのエコー写真を見せてもらった。人間の形をした白い生き物がたしかに写っていて、写真とカナコさんのお腹を交互に見比べ、耳をあててたしかめた。くすぐったそうにするカナコさんとは別の動きをお腹に感じ、私の体をどくんと温かいものがめぐって、守らなきゃ、なんて自分が母親にでもなったようなことを思ったりした。
 出産予定日が近づくにつれて、なんだか実感が湧かなくなってくる、とカナコさんが不安そうにすることがあって、なにかあったんですかと私が問いかけても明確な答えは返って来なかった。マタニティブルーってやつですね、と私は言って部屋の掃除を続けた。
 運動がてら、二人でウォーキングに出たこともあった。川沿いの土手を歩く。風はまだ少し冷たいけれど、季節は春に移ろおうとしている。梅の花が咲いている。名前を知らない水鳥が流木にとまっていた。
 すれ違う人たちの目が、カナコさんを見て優しくなる。がんばってね、と声を掛けてくれるお婆さんもいた。今のカナコさんは、自然と同じだと思った。居るだけで、誰かの元気になる。
 歩きながら、カナコさんが小声で言った。
「この子が不倫相手の子だなんて、みんな分からないね」
「ですね」 
 すれ違う人の人生までは分からない。私もそうやって通り過ぎて来たのかもしれない。不意に、井上さんのことを思い出した。どうして思い出したのか分からなかったけれど、彼女の顔はたぶんあの頃の本当の顔より輪郭がぼんやりしていて、どこか悲し気だったり微笑んでいたりが幾重にも重なって滲んで見えた。
 
 カナコさんが出産を迎えたのは、予定日の二日前のことだった。その日私は仕事で、職場にいる間にメールが一通、『産んできます』とだけ書かれていた。
 私は職場でおお、と声をあげてしまい、隣の福島さんが怪訝そうな顔をした。休憩してきます、と告げて、物陰で一人無事な出産を祈った。
 もどかしい日々はそれから一週間続いた。なぜなら、『病院はどこですか』とか『元気ですか』といったメールを何通も送ったのに、カナコさんからの返信はいつまでも無かったからだ。
 それでも出産を経験したことのない私からすれば、たとえ出産を終えたとしてもそのときに母体はどんな状態でいるのか、携帯に返信する余裕なんてないのかも、と思って何もできずにいた。
 ある晩仕事から帰ってきて、部屋を見上げたとき、カナコさんの部屋に明かりが点っているのが見えた。
 私は急いで階段を上り、カナコさんの部屋のドアをいきなり開けようとして考え直し、きちんとインターホンを鳴らした。
「はい」
 カナコさんの声。しかし、どこか沈んでいるように聞こえた。
「どうぞ」
 私は不安の予兆を覚えながら、ドアを開けた。
 廊下の先に見えるリビングの椅子に腰掛けた、カナコさんの足が見えた。
「カナコさんお帰りなさい」
 私は笑顔で言い、靴を脱いだ。カナコさんの反応がなかった。廊下を歩く。途中に脱ぎ捨てられた靴下があるのが、目に入った。
 リビングのカナコさんは、インターホンの前に座っていた。白いニットに、水色のロングスカートを履いて、産後のためか、痩せた印象もある。
「どうしたんですか。体調悪いんですか」
 私は眉をひそめて訊いた。それでもカナコさんはこちらを見ようとはしない。こんな反応は初めてで、異物を押し込まれたように、みぞおちの辺りがきゅうと苦しくなった。
「ベビーベッド」
 たっぷりの静寂があって、カナコさんが呟いた。
「一緒に選んでくれたベビーベッド。ごめんね」
「カナコさん、赤ちゃんは?」
 私は訊いた。カナコさんがようやく顔を上げた。
 その顔は真っ白で、目の周りだけ赤く腫れていた。そして、テーブルの上を指差す。そこには、紙切れが一枚置かれている。それを手に取ってみる。小切手だと、すぐに分かった。額面は、一千万円になっている。
 私は額面に驚き、混乱してカナコさんを見る。
「なんですか、これ」
「全部、全部嘘だったの。ごめんね」
「嘘ってなにが……」
「彼、離婚する気なんてまるでなかった」
 淀んだ空気が背中にのしかかるように、突然重くなって、私の体は床に近づいていく。そのまま膝から座り込んだ。フローリングにごつ、と鈍い音が響いた。

 陣痛を迎えたカナコさんは、事前に登録していた陣痛タクシーを呼び、病院へ向かった。タクシーが来るまでの間に彼、坂本悠樹にもメールを打てたのだから、我ながら余裕があった、とカナコさんは振り返った。
 タクシーの中でも、ストレッチャーの上でも、分娩室でも、天井ばかりを見つめていたという。そこに色々な人の顔が過ぎり、話しかけてくる。その中に彼の顔はなかった。
 経験したことのない痛みは、予想していたよりも遥かに強烈で、赤ん坊というのは地獄から狭き門を通って現世に逃げてくるようだと思い、自分もそうだったかと思うと、北海道に住む母親には申し訳ないことをしたなぁ、という気持ちすら浮かんできたという。そういえば、両親にはまだ子供のことも彼のことも話していない。どんな顔をするだろうか。彼は一発くらい父親に殴られるかもしれない、と古風な両親のことを思った。
 けれど陣痛が続き、激しくなるとそんなことも考えられなくなってくる。瞼の裏にピカソゲルニカの絵が浮かんできた、とカナコさんは言った。
「学生のときスペインで見たの。すごく怖かった。私にとっての地獄のイメージだったのかもね。あとは助産師さんの言う通り呼吸を整えて、ひたすら終わるときを待ったの」
 どれくらいの時間が経ったのか分からなかった。あと少し、と言われてから終えるまでの時間が一番長く感じもした。なにかが自分の中からごそっと抜け出た、体が軽くなったと思ったとき、目の前に血と体液にまみれた生物が差し出された。まるで未完成な生物が助産師の腕の中、頼りなく動いている。自分の右手が勝手に動いて、赤ん坊の頬を人差し指の背でさわる。目も開かない赤ん坊は、その瞬間に泣き出した。
「私の涙も、まるで共有するみたいにその瞬間出た。一緒に戦った戦友の気持ちで」
 分娩室の外から、押し入れられるようにして彼が入ってきた。カナコさんは笑顔で迎えた。彼の顔は真っ青に見えた。血がダメなのかな、と思ったという。
 彼はそれでもカナコさんの手を握った。震えているように弱々しい手を握り返した。お疲れ様、と彼の言葉にまた新しい涙が溢れ出した。

 カナコさんが不意に立ち上がった。
「コーヒーでも飲もうか」
 棚を開け、こっちに背を向けたまま、カナコさんは言った。
「いいです。それより、赤ちゃんは?」
 私はむっとした気持ちでそう言った。
「飲もうよ」
「いいです」
「飲みたいの」
 カナコさんが少し声を荒げた。私は黙った。
 そのうちに、ごりごりと豆を挽く音が部屋を包んだ。私は立ち上がって椅子に座り、深い呼吸を心掛けた。カレーを食べたあの日とは明らかに違う空気にコーヒーの新鮮な匂いは馴染まず、私の心をくつろがせもしなかった。
 そうしてカナコさんの背中を見つめていた。ほつれた髪が白いうなじに落ちていた。浮き上がった静脈のように見えた。

 カナコさんの病室は個室だった。費用のことを考え、大部屋への希望を言おうとすると彼に、費用のことは気にしなくていい、と言われた。彼の両親はたしかに資産家で、彼自身にもそれなりの貯えがあることは知っていた。
 その彼が携帯電話を片手に病室を出ていく。傍らにはようやく目の開いた息子がいる。なにかに縋るように半分閉じた手のひらに指を挟んでみる。ぐっと掴まれた握力は思っている以上に強い。
 自分が幸福の中にいるということに、疑う余地もなかった。
 部屋に戻ってきた彼の顔色が悪い。仕事の電話、と訊いてみた。彼は首を横に振る。
 ねぇ、最近物件情報をよく見てるんだけど。引っ越し先どこがいいかな。
 北海道の両親には、いつ挨拶行こうか。もちろんあなたのご両親に頭下げなくちゃいけないのも分かってる。私はもう覚悟決めて、
「彼が土下座したの。何をしてるのか、しばらくピンとこなくて。コンタクトレンズでも落としのかなって本気で思った」
 申し訳ない。
 彼の口からそんな言葉が出た。何を謝ってるんだろう、分娩室になかなか入れなかったことだろうか。いいのにそんな些細なこと。
 離婚はできないんだ。だから、君との結婚もできない。

「なんですかそれ」
 私は最後まで聞こうと思っていたのに、つい口をついて出てしまった。
「なんの話ですかそれって」
 カナコさんはコーヒーカップを両手で抱いていた。テーブルに視線を落としたまま言った。
「四年前、私と再開する前、彼は車で事故を起こしたの。彼は軽傷だったけど、助手席に乗っていた女性は腹部に強い衝撃を受けた。子供を産めない体になったんだって」 

 彼は話した。そんなことになったのは自分の責任で、だから一生を掛けて償わなければいけないんだ。なのに、君と再会して気持ちを抑えられなかった。
 許してくださいなんて言えない、けれど謝ることしかできない。
 カナコさんはなかなか彼の言葉を理解することができなかった。ただ声が届いた鼓膜の向こう、そのずっと先で、心の内壁が崩れていく音がしていた。
 妻に、君とのことをすべて話した、と彼は言った。そして、言い淀んだ。彼の手元が震えているのが分かった。
 僕は妻に償わなくちゃいけない。そのためならどんなことだってすると決めた。
 そして、彼は小切手を取り出した。額面に一千万とあった。
 こんなことを言う僕のことをどれだけ恨んでくれてもいい。一つだけお願いがある。

「君の産んだ子供を、養子として譲ってほしい」
 カナコさんが言った。一音一音を無機質に吐き出すように言った。
 私は、言葉を発することができなかった。冷めたコーヒーを一口飲んだ。喉の入り口で感じた苦みがそのまま広がりながら胸に下りてくるようだった。
「泣いてたの、彼」
 カナコさんが無表情に呟いた。
「私の目の前で、私以外の人のために泣いてた」
「だから?」 
 私の声はとがっていた。
「そんなの、誰のための涙でもないよ」
「分かってる」
「ただ自分のための」
「分かってる」
 カナコさんが私の言葉を遮った。
「でも私、そのとき思ったの。罪があれば罰があるって単純なこと。それで、その罰を彼も受けているんだとしたら、同じ罰を受けられるんだとしたら」
「それさえ幸せだ、なんてこと?」
 足下がぐらぐら揺れているような気がした。私は自分の中から自分を突き破って出てくる衝動のままに喋った。
「なにそれ。そんなの、そんなこと、全然幸せじゃないよ。ただ酔ってるだけだよ。そういうかわいそうな自分に。大体、そんなの背負うのは自分ばっかりでしょ。相手は、すぐに忘れるよ。忘れさせるんだよ、幸福が。幸福は何かを忘れさせるためにあって、重たく背負い続けるものなんかじゃ絶対ないよ。そんなことのために棄てるの、子供を」
「棄てるわけじゃない」
「棄ててるんだよ、子供も、その未来も。柔らかい肌とか、まどろんでる顔とか、ぐんぐん大きくなっていくなぁっていう喜びとか。私分からないけど、産んだことないし、彼氏もいないし、人付き合いも苦手だから分からないけど! 子供を産むってすごいことでしょ、すごいことのはずでしょ? その全部を棄ててしまえるその自己陶酔がこれっぽっちも理解できない!」
 左頬が音を立てた。痛みは後から熱とともにやってきて、私は平手打ちされたことを知った。カナコさんは私を殴った右手をテーブルの下に引っ込めた。
「あなたに分かるわけない」
 カナコさんの声は震えていた。
「勝手なことばかり言わないでよ。あなたは自分が持ってないものを持ってる私に理想を押しつけたいだけじゃない。あなたの思うとおりに生きさせたいだけでしょ。私にとっての幸せがなにかなんて、あなたが決めないでよ!」
「そんな風に思ってたんですか」
 私は言葉と同時に立ち上がった。カナコさんが一瞬引いて、ぐっと私を睨み返す。その目に溜まっていくものがあって、私は泣きそうになる自分の太ももをぎゅっとつねった。何も言わず、廊下に向かった。靴のかかとを踏んで、ドアを開け、後ろ手に閉める。
 マンションの廊下は蛍光灯の光だけがちりちりと前を照らしていた。
 自分の部屋へ入り、玄関に座り込んだ。体が自分のものでなくなったように重い。浅い呼吸が続き、胸が苦しくなって、涙が出た。ヒールのついた靴を脱ぎ捨て、ジャケットを脱ぎ捨てた。後頭部に金属製のドアの冷たい感触がある。ごん、と頭をぶつけた。振動が体を走り抜けて、暗いばかりの部屋に溶けていって、私はいっそう泣いた。

「あれ」
 隣の席の福島さんが呟いて、私の方を見る。
「これ、昨日計算してたのって、葛西さんですよね」
「あ、はい」
「桁違ってますよ、これじゃ帳簿、合わないです」
 福島さんが具体的にページを開いて教えてくれる。
「あ……済みません」
 私は謝ってうつむいた。
「大丈夫です、直しときますから」
「済みません」
 私は、ふっと息を吐く。午前中は、いつも必ず発注が来る卸先からのファックスが届いていないのに、確認の電話をし忘れた。案の定、相手の送り忘れだった。課長が気付いたからよかったが、もしもこちらが気づいていなかったら、双方のミスとはいえ、そのケーキ屋は仕事にならないところだった。
「何かありましたか」
 一瞬、自分に話しかけているとは気づかず、無視しかけて、慌てて福島さんを見た。
「はい、え?」
「葛西さんにしては珍しいというか。普段、そんなミスしない感じだったので」
 福島さんはパソコンを打ちながらそう言った。福島さんは私より十は年上で、ここでの勤務歴も長い先輩だ。けれどプライベートな会話をしたことは、ほとんどなかった。
「何かありましたか」
「えぇ、まぁ」
「男性関係ですか」
「いえ」
 あの日以来、カナコさんとは一度も顔を合わせていない。もう、二週間になる。
 というより、あの部屋から人の気配を感じない。彼女はもうあそこにはいないのではないかと私は思っていた。
「まぁ、色々ありますね」
 福島さんが言った。しみじみとした口調が、なんだか意味ありげだった。
「福島さんも色々あるんですか」
 福島さんが黒縁眼鏡の上の眉毛をぴくっと動かした。
「それはまぁ……いや、なんにもないです」
 表情には出さないが、何かを隠したと私は思った。
「色々あるんですね」
「仕事中です」
「仕事後ならいいですか?」
 私は自分の発言に驚いていた。私が人を誘っている。福島さんも驚いた表情で、こちらを見た。そしてゆっくりとうなずいた。

 職場の近くにある福島さん行きつけのお店は、赤提灯の似合う、渋くて小さな居酒屋だった。
 福島さんおすすめの焼き鳥や、巾着たまごを食べながら、日本酒を呑んだ。日本酒はじんわりと、体の芯にぽたぽた落ちていった。
 私たちの話は、会社の経営状態や、課長、部長の話から始まって、最近の若手社員の話へと続いていった。それから、福島さんの家族の話。夫と娘が一人だという。
 福島さんが結婚していることさえ、私はこの場で初めて知った。
「指輪とかしないんですね」
「指輪。買ったことない」
「結婚指輪買わなかったんですか」
「指輪になんらかの拘束力があるなら買ったかもしれませんね。浮気したら指が吹っ飛ぶとか感電死させるとか」
 福島さんは話してみると、なかなか面白い人なのだった。
「娘さんは今いくつですか」
「6歳です。私の細胞から培養したクローンだって夫は恐れてます」
「似てるんですか」
「中身が特にね。保育園じゃ『園長』ってあだ名らしいです」
 私はあの日以来、久しぶりに笑っている、と思った。それで、と日本酒を煽った福島さんが身を乗り出した。
「葛西さんは何があったんですか」
 私は迷った末、不倫や子供のことは話さずに、女友達とけんかしまして、と伝えた。
「はぁ、なるほど」
 福島さんは、日本酒をあらためて注文した。
「価値観の違いっていうか、まさかその人がそんな風に思ってるなんてっていう感じで」
「価値観がまるっきり一緒なんてことはあり得ないですからね」
 福島さんがきっぱりと言う。それから、あくまでも私の経験上ですけど、と前置きして話し始めた。
「女同士の友情なんて、特にそんなものというか。たまたま波長が合う時期にたまたま一緒にいるような、そんな感覚を私は持ってます」
「波長ですか」
「女の波長なんてすぐ変わりますからね。だから女同士の友情はその場その場の指向性の問題でしかないって気がします。向く方向が変われば、簡単に崩壊する。崩壊なんて大げさなものじゃなくて単に枝分かれしていくという感じですかね」
 そうなのだろうか。私はカナコさんの顔を思い浮かべる。
「私と葛西さんだってそうじゃないですか。今日たまたま波長が合うからこうして一緒に呑んでる。無数の枝分かれの先で私たちが出会った。ずっと隣の席にはいたんですけどね」
「じゃあ私たちもいずれ枝分かれしていく?」
「そうでしょうね」
「なんだか……寂しいですね」
「それを寂しいと捉えるかは、その人次第だと思いますよ。私はむしろ清々しいと思います。女の友情は」
 私は寂しいと思う。枝分かれなんてしなくていいと思う。単調でもいい、円環の中でぐるぐると同じ時を過ごしたいと思う。けれど、それは無理なのかもしれない。気持ち悪いのかもしれない。
「葛西さん、私は『信用はしても信頼はしない』というのがモットーです」
 福島さんが唐突に言った。
「それって、どう違うんですか」
「私の定義ですけど。信用はその人の過去、実績を見てするもの。でも信頼はまだ何もない未来に対してするものです。未来がどうなるかなんて分からないのに、信頼はできません」
 店員さんがやって来て日本酒を置いていく。
「たとえば三秒後、私はこの日本酒をあなたに浴びせかけるかもしれない」
「え、やめてください」
「たとえばです。あらゆる可能性があるってことです。信頼はその可能性を誰かに依り頼むってことじゃないでしょうか」
「でも、福島さんは日本酒を浴びせかけませんよ」
「どうしてですか」
「日本酒が好きだからです」
 福島さんが笑った。

 福島さんと駅で別れ、私は電車に乗った。五駅先で電車を降りて、歩き始める。昼間は暖かかった空気も太陽が沈むとまだまだ寒い四月の夜を、私はカナコさんのことを考えながら歩く。やはり考えてしまう、私は福島さんのように達観はできない、と思う。
 公園脇の路地を通る。月が見えた。ぼんやりと濃霧のように雲がかかっている。明日は雨だろうか。ドラッグストアのシャッターの前を通り過ぎ、信号を渡ると私のマンションが見えてくる。
 四階を見上げる。やはり、カナコさんの部屋には明かりがともっていない。
 エレベーターで上がり、自室のドアを開け、靴を脱いでリビングの明かりをつける。テーブルの上に、外したネックレスを置き仕事着のまま、ソファに腰掛ける。
 ひとりだ、と思う。
 福島さんと呑んできたばかりなのに、そんなことを思う自分が嫌だった。けれど、私の吐息以外なにも響かないこの部屋で、私はひとりであることを思ってしまう。
 立ち上がって冷蔵庫を開ける。ビールや缶チューハイが入っている。缶チューハイのレモンを取って、ふたを開ける。一口飲む。炭酸が喉をくすぐって落ちていく。
 気づいた時には三本目のお酒を空けていた。さすがに頭が少しぼーっとし、ソファにもう一度座る。
 なぜこんなにも寂しいのだろう。今までだって長い時間をひとりで過ごしてきたのに。
 本当はひとりじゃないことを知ってしまったからだろうか。自分がただ知らぬ顔をして、ひとりみたいな顔をして、通り過ぎてきてしまっていたことに気づいてしまったから。
 そのときから、ひとりである時間はひとりでは存在できず、他人がいて初めてひとりとして存在できるのだと気づいてしまったから。  
 菊田くんの顔が浮かぶ。井上さんの顔が浮かぶ、福島さんが、そして、カナコさんが浮かぶ。
 私は立ち上がって、隣室とを隔てている壁に耳をあてる。音はしない。
 どきどきと心臓が脈打っている。居ても立っても居られない気持ちは、視覚に乗り移り、部屋の中をぐるぐるとさまよって、奥の八畳間を抜けて、カーテンを閉め切った掃き出し窓にたどり着いた。
 私はゆっくりカーテンを開けた。月明かりが差し込んで来た。
 そして、心の整理もつかないまま、窓を開けた。

 マタニティ雑誌から顔を上げた。ページは湿って、裏面が透けて見えた。両目を袖で拭う。雑誌を閉じて元の棚にしまった。
 リビングへ続く扉を開けると、また暗闇に目が慣れるまで時間がかかった。徐々に琉球松の一枚板のテーブルが浮かび上がる。写真立てが、小物類が見えてくる。壁際のスイッチが見えたところで、電気をつけた。
 カナコさんの部屋だ、と当たり前のことを思った。くしゃみが出た。埃っぽい。
 椅子に座り、テーブルの上にすうっと指で線を引く。指の腹が灰色に汚れて、テーブルには筋が残った。
 掃除をしなきゃ、と思った。
 台所に掛かっているテーブル用の布巾を湿らして、拭うと、すぐに真っ黒になった。何度か流しで洗いながら、テーブルを拭き終える。
 寝室のクローゼットの下段から、掃除機を取り出して、コンセントを繋ぐ。ブイーンと音がする。こんな時間にはた迷惑だと頭の片隅で思いながら、寝室の床の隅々まで掃除機をかける。ベッドの下、サイドボードを移動して、その下も。枯れた花の挿された花瓶は一旦流しに移動する。
 そしてリビングに取り掛かる。まずテレビの脇に置かれたハンディワイパーでテレビ台、写真立てや小物の置かれた棚、コンセント周りの埃を落とす。それから再び掃除機をかけた。
 廊下まで掃除機が終わると、洗面所の流しの下から雑巾を取り出して、床や椅子の足を拭く。台所周りは花瓶の花を捨て、冷蔵庫の中の傷んだものを捨て、花瓶をすすぐと、後は台布巾で軽く水拭きした。
 そのとき、目の前に置かれたスパイス類が目に入った。
 最初に会った日のカレーを思い出す。あの日のカナコさんを思い出す。
 お米を洗い、炊飯器をセットした。炊けるまでの間にお風呂場とトイレを軽く掃除して、手をよく洗う。
 スパイスからカレーを作ることなど初めてだった。インターネットでレシピを見ながら、スパイスをフライパンにに入れていく。クミン、カルダモン、シナモン、クローブ、ローレル、オールスパイスコリアンダー、ガーリック、ターメリック、チリペッパー、ジンジャー、ブラックペッパー。クミンをやや多めに入れる。
 それらを弱火でじっくりと煎る。香りが鼻を通り抜ける。台所からリビングへ広がっていく。そこで火を止める。
 使えそうなじゃがいもと玉ねぎが、かろうじて残っていた。玉ねぎをみじん切りにして甘い香りがするまで炒めた。ジャガイモを入れ、炒めたところに水とコンソメを入れ煮立たせた。
 その間にフライパンでサラダ油、薄力粉を入れ弱火で焦がさないように炒めていく。火を止めフライパンを冷ましてからスパイスを加えていく。ルーが出来上がる。
 煮込み終わり、火を止めた鍋に、ルーを入れる。そしてまた火にかける。塩、胡椒をふる。
 食欲をそそる匂いに、お腹がぎゅうと音を立てた。
 しばらくして、炊飯器のアラームが鳴る。炊き立てのご飯をかき混ぜ、またふたをする。
 時間が経つのを待って、食器の準備をした。ひとり分の器にご飯を盛り、カレーをかける。テーブルに置いて、自分も座る。
 手を合わせ、食べてみた。辛い。適当に目分量で入れたスパイスが舌の奥を刺激する。美味しい。でも、あの日のようにはうまくいかない。
 うまくいかない。でも、食べられる。がつがつがつと、子供のように食べた。水を用意するのを忘れたと途中で気付いた。汗が出てくる。口の中をやけどしている。それでも構わず、食べた。
 食べ終えた。肩で息をしていた。毛穴という毛穴が開いて、水分を放出しているように感じた。
 そのとき、ガチャッと音がした。玄関が開いた。私は立ち上がる。
 カナコさんが立っていた。肩で息をしながら、赤ん坊を抱いて。

 カナコさんの目が丸くなる。お互い体が硬直したように動けなかった。
「……なにしてるの」
 カナコさんが声を発した。
「……カレー食べてました」
「それは、分かるけど、匂いで」
「カナコさんは」
「え?」
「その子」
「……あぁ」
 少しの沈黙があって、
「私の子」
 とカナコさんは言った。
「だって……」
「なんでカレー食べてるの?」
「いや、それよりその子」
 らちが明かないと気づいたのか、カナコさんは私の正面に座った。左腕に抱えたバッグを下ろして、赤ん坊は抱いたままだった。
「お水欲しい」
 カナコさんが言った。衝かれたように私は台所へ行き、コップに水を注いだ。
「ありがとう」
 カナコさんがいる。私はまだその事態をうまく呑み込めていなかった。カナコさんは水を一気に飲み干した。そしてテーブルに置くと、うつむいて長く細く息を吐いた。それは今までの一切合切を吐き出すような、長い時間だった。
 私はもう一度向かいに座った。
「うまく説明できる気はしないけど」
 カナコさんが話し出した。
 私と言い争いになったあと、カナコさんの苛立ちは収まらなかった。今までどこにこんな自分がいたのか、というくらいに頭に血が上り、涙が止まらなくなり、ご飯も何も食べずに眠ったという。
 翌朝、昼前になってようやく起きた。苛立ちは冷めてしこりとなり、胸の奥に残っていた。
「ここにはいられない、と思った。あなたに合わせる顔がないと思った。そのときはまだ、自分の非を認めたわけじゃなかったけどね」
 カナコさんは少し離れた街のビジネスホテルでしばらく寝泊りすることにした。そして、そこにいながらあの家を引っ越して、北海道に帰ろうと思っていた。
 胸が痛くなったのはその夜だった。乳房がぱんぱんに張っていた。飲む者のいない母乳が、溜まっているのだ。仕方なく、ホテルのコップに搾り出した。少し黄色っぽい母乳がコップに溜まり、捨てられていく。
 最初のうちは仕方ない、と自分に言い聞かせていた。自分が選んだ道だ。
 産後の出血も当然続いていた。どろっとした液体と生臭い匂いを嗅ぐと、分娩室の、あの台の上にいた自分を思い出した。あの痛みを、視界を過ぎったたくさんの顔を思い出した。
 痛かったなぁ、あれは、と思いながらパッドを替え、下着を自分で洗った。
 昼間はできるだけ外出した。彼と行った場所を巡った。美術館や映画館、プラネタリウム。外出中にも出血はある。胸は痛くなる。何かに責められているように。
「子供をたくさん見かけた。私の子供はどんな風に育つんだろうって考えると、余計に胸が痛むの」
 母乳を搾っては捨てる毎日。カナコさんは捨てるたびに、自分の体を削っているような、心のどこかが空白になっていくような感覚に襲われた。
 気がつくと彼の家の近くに行っている自分がいた。けれど、姿を見せることは絶対にできない。それでもわが子をもう一度だけ見たい。二つの思いがせめぎあって、いつまでも決着がつかなかった。
 
 産後の出血が、通常の生理程度の量になった。
 母親としての期間の終わりを告げられているような気がした。
 ぼうっとした頭で、母乳を搾る。いつの間にか、コップも使わずそのままトイレに流すようになっていた。
 よく見ていなかったせいで、便器から母乳がこぼれた。緑色のカーペットの上に白い点ができたと思うと、みるみるうちに浸みて、消えていく。
「こうやって消えていくのかなって思った。あかねちゃんが言ってたみたいに」
 声が漏れた。うずくまって泣いた。
「母乳は血と一緒だから。私は毎日、血を流しながら捨ててた。血を流して、生きるか死ぬかを分かち合った子供を、毎日棄ててたの」
 そのまま荷物をまとめてホテルを出た。タクシーを拾い、彼の家の住所を告げた。
 彼の家の少し手前で降ろしてもらった。まだためらいがあった。彼の家までの、ほんのわずかな距離を、長い時間をかけて歩いた。
 彼の家の前に着いたが、インターホンが押せなかった。ドアを直接ノックした。反応が無かった。何度も何度も叩いた。彼を叩いているような気持だった。けれど、彼が悪いのか、自分が悪いのか考えても分からなかった。
 ドアが開いた。彼が立っていた。
「カナコ……」
 頬を叩いた。私を叩いたときよりももっと強く叩いた。呆気にとられる彼を尻目に押し入った。彼が何か叫んでいるが言葉になっていなかった。
 リビングに、彼の妻がいた。立って、赤ん坊を抱いていた。カナコの顔を見て、驚きの表情のまま止まった。持っていた哺乳瓶が床に落ちた。
「お願い、って言った。それしか声にならなかった。お願いって」
 彼女が唾を飲む音が聞こえた。彼女の肩がだらっと垂れ下がった。
 無言で赤ん坊を、カナコさんに渡した。
 それから頬を叩いた。後ろにいた、彼のことも叩いた。
 馬鹿にしないでよ、と呟いた。
 カナコさんはポケットから小切手を取り出して、机に置いた。彼の顔も彼女の顔も二度と見ないと決めた。
 走って道路に出た。追ってくる気配はない。風が冷たい。赤ん坊を守るように抱いて、その温もりが逆にカナコさんを温めた。タクシーが通りかかった。

「それで今、ここ」
 カナコさんが心底疲れたという表情で、しばらく目を瞑った。
「それで、あかねちゃんはここで何をしてるの」
 私は。私は。
「私はね、カナコさん。あなたの言った通りだったの。あなたになりたかったんだよ」
 カナコさんはきょとんとした顔をした。そして、笑った。
「説明になってないよ」
「ごめんなさい」
「ごめんね」
「ごめんなさい」
「ごめんね」
 泣いていた。ぐしょぐしょの顔で、カナコさんが泣いていた。私も同じような顔をしているだろうと思った。赤ん坊を抱えたままのカナコさんに抱きついた。汗の匂いと、よだれの匂いと、ベビーパウダーの匂いが混ざり合っていた。
 私たちは枝分かれしていく。だとしても、この数秒を繋ぎ止めたい。抱きしめていたい。
 不意に赤ん坊が声を発した。と思ったら、瞬く間に泣き出した。
「お腹空いたのかな」
 カナコさんは呟いて、コートを脱いだ。薄手のニットをたくし上げて、胸を出した。
 赤ん坊に乳首を近づけると、泣き止み、小さな口で乳首を挟んだ。ちゅうと吸う音が聞こえた。
「お母さんだ」
 私が呟くと、カナコさんが目を細めた。
 私はその様子を眺めて、次第に視線が落ちていく。初めてこの部屋に来た時のような安心感が私を包んでいた。目の前にテーブルの木目があった。木目は川の流れのようにゆらゆらとゆれて、やがて暗闇になった。

 がくんと穴に落ちる夢を見て、私は目を開けた。
 椅子からずり落ちそうな下半身を見て、はっと首を上げる。リビングで私はいつの間にか眠っていたらしい。瞼にどんよりした重力を感じながら首を回す。カナコさんの姿はない。目の中を滑っていくのはすっかり見慣れた調度品ばかりで、それらは静けさを守りながら、私をじっと見つめている気がした。
 じわじわと、長時間座っていたお尻の痛みが感じられてくる。立ち上がり、キッチンに入る。
 カレーの匂いと芳香剤のようなフローラルな香りが混じっている。流しには野菜の皮が捨てられた三角コーナーと一人分の皿が置いてあり、ルウが入ったコンロの上の白い寸胴鍋は、触るとまだほんのり熱を持っていた。
 蛇口をひねると水が出たので、皿を洗うことにした。洗剤をつけすぎてスポンジが見えないほど泡だらけになった手を動かす。体全体が道具になったみたいに、ただそれだけに没頭した。皿を洗い終え、寸胴鍋に残ったルウをどうするか少し考えて、捨てることにした。また作ればいいと思った。うちもスパイスを揃えようか。どぼっとルウが流れ出る。寸胴鍋が軽くなるとともに、胸もすうっと澄んでいく。
 鍋を洗い終えたスポンジで流しをごしごし洗った。黄色いスポンジに茶色が滲んだ。後ろにあったごみ箱にそれを放って、キッチンを出た。
 開けっ放しの寝室のドアが、微かに動いた。手を腰にあててその先のベッドとはためくカーテンを見つめている内に、どこかに行っていた自分が自分の中に帰って来たような気がして、寝室に向かった。
 陽光が線を引いたようにまっすぐ伸びて、埃の道を作っている。
 ベビーベッドのシーツに顔を寄せる。埃が舞って鼻がむずむずした。自分の部屋で、シャワーでも浴びよう、と思った。