いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

団子

 独りぼっちのシーソーのようだと思う。私の不安感は得体のしれない軽さをもって私とは正反対に浮かんでいる。地に着いている私は、その足の裏の感触にただ満足すればいいはずなのだけれど、なぜか空に向かって伸びているシーソーの先を思い浮かべてしまって、軽ければ軽いほどそれは頭の中を占領してしまって、遠慮がちの自律神経を一層萎びさせてしまう。人混みのくもった体温の中で、だから私はうっすらと汗ばんでいる。
 太陽が黄色い光を放ちながらうずくまっていく前の渋谷駅前、一体どこから湧いたのかという人の多さで渦のように流れていて、ただ立ち止まっているのも億劫で、喫煙スペースに身を寄せる。普段は吸うのだけれど、今は他人の煙で充分な気がして、自分の煙草を出さなかった。透明な屋根のついたその部屋は天気も分からないほど煙で覆われていて、疎外されているような、集団で拒絶しているような気持ちになる。何人かの人が、煙草を出さない私を見ていた。けれどしばらくすると視線を自分の携帯や、腕時計に戻す。私のちょうど向かい側の男性はスーツ姿で、丁寧にサイドを刈り上げたツーブロックがワックスで光っていた。童顔気味の顔は、濃い眉をもう少し薄く脱色でもすれば、自分のタイプだと思った。彼の指にはリングの類は見当たらない。年齢は私と同じか、もう少し下だろうか。私は想像する。彼がついでに整理しようと取り出した名刺入れがコンクリートの床に落ちる。あ、と彼が言って私の足下に数枚、白くて四角い名刺が滑ってくる。無言で拾って目を見て渡すと、済みません、と彼は小声で言うだろう。私は、いえ、と短く返す。それからいそいそとここを出た私の背中に声がかかる。あの。ありがとうございました。これ、僕のなんですけど、今度よかったら。彼の手に名刺がある。なんて。
 そういえば自分の名刺がこんなに気軽に手軽に手に入るものだとは、就職するまで思いもしなかった。はい、と入社一年目、不意に課長から渡されたプラスチックのケースに、私の名前の入った名刺が入っていた。明朝体みたいな字体で書かれた名前の下にブルーのラインが入っている以外は真っ白で、それは公式さを過剰なまでにアピールしているように見えた。
 公式さってなに、とその晩、欣吾に名刺を見せて言うと笑われた。笑って欣吾は汗をかいた缶ビールで濡れた指で名刺を触った。名刺の端っこは灰色に滲んで、私は少し怒った覚えがある。安い紙だね、と欣吾が言うのを聞きながら。そのとき欣吾はまだ大学4年だったから、名刺の重みを知らなかったのかもしれない。いや実際には重みがあると思っていたのが大したことなかったわけだから、欣吾が正しかったのかもしれないけれど。とにかくそんな感じで渡された私の名刺は使い切られることなく役目を終えた。仕事を辞めたのには深い理由はなかったけれど、退職願を出してから退職するまでに、課長に振られたという話になっていた。私は否定も肯定もしないで辞めてしまったから、その後課長の立場がどうなったのかとか、そういうことは分からない。その後、私は違う会社の事務職についたので、名刺をもらう機会はなかった。
 そんなことを回想しているうちに件の男性はいなくなっていた。そこに大柄な白人男性が入って来た。喫煙スペースの空気が少し硬くなったように思う。真っ青が日焼けして色褪せたような良い水色のリュックを背負って、白いシャツを着ている彼と目が合った。目も青い。口の両側には強くほうれい線が刻まれている。男性は空いた私の隣に立った。190センチはありそうに見えた。
「タバコ吸わないの?」
 彼の第一声はそれだった。綺麗な発音の日本語。短く白い煙草をつまむ指は関節ががっちりしていて、第二関節まで毛が生えている。煙草の匂いとは別に、汗の匂いが漂った。
「要る?」続けて訊かれる。大丈夫、と答えるとなぜだか微笑んで、彼は自分の煙草に火をつけた。
アリゾナじゃね」男性は深く息を吐いてから言った。
「タバコを断る奴はワニに喰われるって言うよ」
アリゾナから日本に?」
「いやデトロイト
「へぇ」と応えながら、私の頭の中にはアリゾナデトロイトアメリカのどこにあるのか浮かんできてはいなかった。
「どんなところですか」
「ん、赤羽?」
「え、赤羽?」
「あぁ、今住んでるのがね」
「あぁ。そうじゃなくて、デトロイト
 私が笑うと男性も笑った。それから遠い目をして、デトロイトはね、工業の町でしたね。車、車。でもダメになって、今はゴーストタウンですよと言った。私はなんて返事していいのか分からなくて、中途半端に首を傾げた。こっちで英会話教室をやっている、と男性は付け加える。薬指に金のリングを見つける。きっと彼には日本人の妻がいて、子供が二人いると想像する。ショートカットに黒目がちな目をした細面の奥さんと青い目に黒い眉毛の兄弟。兄はサッカークラブに所属していて、弟は読書好き。週末はよく家族でキャンプに行く。それでもこのまま、食事にでも誘われて、一晩だけ一緒に過ごす。体毛の濃さに驚かされ、丸太のような腕に抱かれて。私の想像がそこまで届いたとき、彼が口を開いた。
「君は結婚してるの?」
「してないです」
「恋人は?」
「あぁ」私は彼の煙草の灰が落ちそうだと思いながら見つめている。「いますよ、たぶん」
「日本人は多いね。『たぶん』『~かも』『可能性がある』」
 可能性がある。それが一番近いかもしれない。いる可能性がある。まだ今は。
「それでも、たぶん恋人がいるって答えたのは初めて聞くよ」
「そうかも」私は言う。彼が煙草の先を灰皿で潰す。
「日本人は面白いね」
「おじさんは」
「おじさん。君、外国人に遠慮がないね」
 そうかもしれない。大学時代、欣吾と出会う前、一時期エリックというアメリカ人と付き合っていた。同じ学部の留学生で、日本語を教えてあげているうちに惚れられた。そのうちに私も惚れた。大学で陸上部に入っていて、足が速かった。震災の直後、アメリカに帰ったまま戻ってこなかった。だからもう六年も前のことか、と思う。今でも走っているのだろうか。
「僕、意外と若いよ。50歳」
「それは意外」妥当だと心の内では納得した。
「奥さんは日本人ですか」
「イエス」なぜか急に英語になる。
「美しいよ。うちの嫁さんは」
 なんとなく、本当にそうだろうなと思った。
「写真を見せたいけど、そろそろ行かなきゃ」
 そう言って、彼はリュックを持ち上げ、じゃあねと言って立ち去った。私は手を軽く振って見送った。頭一つ分大きい彼は人混みになかなか消えていかなかった。
 喫煙スペースを出る。晴れがうす曇りになって、街は黄ばんだ白い天井の下にある。気が紛れたのか、さっきまでの不安定な気持ちは少し落ち着いていた。左手の携帯で昨晩起こったという東北の森林火災の続報を調べていたら、メッセージが届いた。
『ハッピー!』
『バースデー!』
 山城理美からだった。今日届いた二人目のお祝いメッセージに私は口元に力を入れながら『なんで途中で分けるの』と返事をする。
『ちょっと面白いと思った』
 理美の返信の早さ。
『ちょっと面白い』私も同じリズムで返して、今渋谷と添えると、理美は品川で映画を見終わったところだというので、五反田で会うことになった。
 JRの改札に向かおうとすると、なんだか歓声に似た声が聞こえ、すれ違おうとした誰かが「人いるよ」と言った。ざわっと、人いるよ、は伝播し、皆がなんとなく不穏を感じて、同じ方向を向く。私も後ろを振り向いた。
 それはスクランブル交差点に面したビルの屋上だった。人影があった。
 何してんだろうと誰かが言い、誰かが飛び降りだろうと言い、誰かは無言で通り抜けて、いつの間にか多くの人が足を止めている。通報通報、いやそこに交番あるからそっちの方が早い、あ、もう来てるじゃん警察。さざ波はもはや大きなうねりになって押し寄せ、その癖誰も彼のことを見ている気がしないのは何故だろう。ぴいっと警笛の音が響いて警察官がぐるぐると腕を回しながら出てくる、何人も出てきた制服警官に車は誘導され、スクランブルはあっという間に整理される。その様子をビルの上、男は覗き込むようにして眺める。その仕草は、まるで他人事みたいに見えた。
 その内に携帯が次々取り出され、空にかざされる。まるで視覚で認識しているものを、カメラの色素を通してしか現実と捉えられないかのように。たとえばあのカメラの中に女子高生のスカートの中身が沢山入っていたり、不倫相手のあられもない姿や、かと思えば並列に夫婦で行った熱海旅行のツーショットが入っていたりして、どうしてか世界はいつも多層的で多面的で、不安定な顔を見せる。どうせ飛び降りる気なんか、と誰かが言い、わたしも同感だと思うが振り向いてもそこに人はいなかった。救急車とパトカーがまた増えていってオレンジのマットが用意されて、もう後は飛び降りるだけとなった路上は飽きた人やそもそも興味のない人、飽かず見上げる人に色分けされた。でも次々に人はあのビルからあの坂道から流れ出し流れ落ちてくるから皆身動きできず、怒りの矛先はすべてビルの飛び降り男に集約されていき、いっそ早く落ちろよなんて思う人も出てくるだろう。なんでかこう、集団心理というのは抑制を欠いて、露わで、見苦しい。すべては私の想像でしかないのにそこまで断定して、私は自分の感情が揺さぶられてしまっているのを感じる。こんな時、家であればフローリングの床にトカゲか何かのように張り付いたまま動かなかったり、ソファに上下さかさまに座って薄い小説を読んだりするのだけれど、ここではそうもいかない。
 私はもう一度携帯を取り出す。それはカメラのためではなく、欣吾からのメッセージが来ていないか確認するためだ。でもそれは確認する前から結果が分かっていることで、当然私の期待するものは届いていない。
 どうして人は飛び降りられもしないのに屋上に登るのだろう。そこに他者が存在するからか。そこに何か期待されているものを受け取るのだろうか。だとすれば屋上に登るのも私を始め、ここに集う人達のせいで、ここにこうしている間彼は身動きも出来ない。
 私は背を向けて歩き出し、駅の改札を抜けて緑の電車を待つ。空の色はいよいよ真っ白で、色の無いことが私の不安を再燃させる。

 エリックと別れ、というか物理的にアメリカと日本に分かたれた私は、当時それなりにエリックのことを引きずっていた。一緒にアメリカに行こうと誘われたのを断っていた。彼のいない生活を甘く見ていたのだろう。一人でいた経験と独りになることはまるで違って、空間は空白になり、記憶は思い出になって私の居場所を苦しくさせた。
 選択の間違いを打ち消すように理美やサークルの友人、いつ友人になったのかも分からない友人たちと毎晩のように飲み歩いた。アルコールは私の現実感を麻痺させるための道具だった。ここにいる自分を否定するための道具。私は実在の私を置いてけぼりにして、何か別の存在になりたかった。遠ざかって遠ざかって別の存在になって、いつの間にか忘れて眠って朝を迎える。そんな夜が続けば良いと思っていた。
ミサトさん、そういうんじゃないでしょ」
 そう言ったのが欣吾だった。サークルの後輩で、飲み友達のうちの一人だった。
「え、なにが」
 私はとぼけた風に聞き返す。顔は笑いながらも強張っていたように思う。
ミサトさんミサトさんでしかないよ」
 欣吾は真面目な顔だった。通いなれたバーの端っこで、私たちはいつの間にか向き合っていた。いつの間にか二人きりだった。どんな脈絡で、そんな話になったのかはまるで覚えがない。私はこの局面を逃がれる言葉を考えていた。たとえば、ちょっと下品なジョークみたいなもので。
「どれだけ飲んでも、起きたらリセットされるんだよ。他の何かにはなれない」
 私は驚いて、口を開けた。そんな話、誰にも、理美にさえしたことがなかった。それなのに、どうして欣吾がそんな核心つくの。
 それまで欣吾は、仲間内でも特におちゃらけた存在に見えた。彼のする話は煙草の煙やアルコールの匂いとともに空間に消え去ってしまうような他愛もない話で、事実を知るものからすれば、かなりウソが多かったりもするらしいがなぜか聞けてしまって、笑わされてしまう。それは今思えば、話の内容ではなくて、私が彼自身に感じていた魅力だったのだろう。女性関係もそれなりに派手だったと聞いていた。
 とにかくそんな欣吾に言われたことは、私自身薄々感じ始めていたことだったから、ぐうの音も出なかった。どれだけ飲んでも何者にもなれない。ただ哀れな女がそこにいて、私はいつの頃からか、それを俯瞰で見ていたのだった。
「分かってるよそんなこと」
 私は、だから、怒気を込めて言った。
「じゃあどうしたらいいの」
 欣吾はちょっと困った顔をして、自分のビールを飲んだ。
「もっと普通のことした方がいい」
「普通のことってどういうの」
「普通の人がするようなことだよ」
「普通の人なんていないでしょ世の中に」
「屁理屈だなぁ。だから、普通に遊園地行くとか」
「遊園地?」
「昼間、俺と遊園地で遊ぶとか」
 私は吹き出しそうになるのをこらえた。似つかわしくなかった。私にも欣吾にも。
「明日とか」
「いいよ」
 私は応えていた。俯瞰だった自分が、自分の中に戻ってきたような感じがして、お帰りと言いたいような気分だった。
「遊園地と言えば、俺地元の遊園地のジェットコースター乗りながら不良グループと闘ったことあったなぁ」
「絶対ウソ」
 私は笑った。笑いすぎて涙が出たふりをした。そんなウケるか? と不思議そうな欣吾を尻目に。
 そうして私は欣吾と付き合い始めた。

 五反田で理美と合流した。学生時代からここで遊ぶことが多かった。久しぶりに来た街は全体として大して変わりはないけれど、当時行っていたいくつかの居酒屋やバーは姿を消していたりするらしい。
「どうなの」
 腰を落ち着けるとすぐに、理美は切り出した。理美の言葉は率直だ。彼女の故郷、沖縄の陽気のように。私たちは、ステーキ&ワインと書かれたレストランバーにいる。室内をハワイアンミュージックが充たし、ブリキのナンバープレートや洋画のポスターが壁に掛けられている。
「うん」
 私は短く、答えにならない答えを返して、指のささくれを見る。ささくれを剥く痛みはどこか心に直接繋がっているように、鋭く、刹那的だ。私の恋は、そんな瞬間の連続と言えるかもしれない。
「私、ヒトのこととやかく言うのって好きじゃないんだけど」
 リミはフォークで突き刺したサイコロステーキを頬張る。肉汁と脂がまだ小さく鉄板の上を跳ねていた。
「ミサトのことは本当に、友達だと思ってるからさ」
 理美は決して親友という言葉を使わない。それだけで、私は信用できると思う。言葉は常に断定的で、怖さをはらんでいることを彼女は知っている。純粋さと暴力的な強固さを併せ持つことを知っている。
 あの日の欣吾の言葉を、俺好きな人できた、という言葉を、だから私の脳は忘れないだろう。目の前に突然壁が降りてきたみたいにすべてを遮断されたあの瞬間を。ベッドの脇にはまだ温もりの残った洋服が散らばっていて、名もなき生き物が息を潜めて私を嗤っているみたいだった、あの光景を。
「え、なにが」
 聞き返した私は、よくよく思い出せば、あの日バーで言ったのと同じ言葉を発していた。
「ごめん」
 欣吾は何か別のものに向けて謝るように、そう言った。
「あ、そう」と呟くまでに随分と長い沈黙を要した。体中の力がそれぞれ別の方向へ働き掛けて、ばらばらに崩れそうだった。ばらばらに崩れてしまってゲームオーバー。いっそそうなりたかった。ゲームオーバーに先はない。けれど私は続いていくのだと思うと、悲しさよりも震える思いだった。
「引っ越し先、決めた?」
 理美が赤ワインを飲みながら私に目を向ける。大きな目は、少しずつ充血してきている。
「まだだよ」
「え、じゃあうちの近くおいでよ、商店街もコンビニも近いし、いい町だよ」
「パン屋はある?」
「商店街にあるある。そんな流行ってないけど、クルミパンとカレーパンが旨いの」
 パン屋の匂いほど卑怯なものはないよ、という欣吾の顔がちらつく。なんだろうあれは、細胞レベルで人間を揺さぶる何かがあるな。パンといえば静岡にはね、こんなでっかいコッペパンがあるよ。いやマジでマジで。ほんとにこんななんだって。
「新しめのアパートも結構建ってるし、比較的穴場だと思うんだよね」
「そうなんだ」
 私は笑いながら、ワインを空にする。空になったグラスにゆがんだ景色が映る。その中に私もいる。
 理美は何か言いたそうな顔で私を見ていた。それに誘われるように言葉が出た。
「大丈夫だよ私は」
「うん」
「もう昔みたいにはならないし」
 それはならないというよりなれないと言う方が正しいのかもしれない。寂しさの深さを正確に知ってしまった今では、もう溺れることはできない。ただ冷静に歩きながら、掴まれるものを探すのだ。
「欣吾だと思ってた」
 理美が呟くように言った。
「ミサトには欣吾だって」
 理美の目から涙がひとすじ頬をつたった。どうしてだろう、私の大切な人は、いつもちゃんと私に必要な言葉をくれる。
「ごめんこんなこと言って」
「ありがとう」私は言った。正確な言葉を返してから、自分の火照った頬をさわった。涙は流れていなかった。
 
「そういえば今日渋谷にいたんだよね」と理美が聞いたのは国道沿いの道を、駅に向かって歩いている途中だった。
 飲んだ。久しぶりに心ゆくまで。どっちがどっちを支えているのか分からないくらいに、私たちの重心はぐらぐらとしていて、密着した体を通して骨伝導のように声は響いてきた。
「いたよ」
「じゃあ見た? 飛び降り男」
「え、飛び降りたのあれ」
 私は思わずひっくり返った声で言った。
「見たんだ。飛び降りなかったって」
 私はへぇ、と言いながら心のどこかで、飛び降りてしまえばよかったのにと思っていた。けれど何が、飛び降りないのであれば何が彼をあそこに登らせたのかが知りたくなった。そしてどうして思いとどまったのか。私の脳は右に左にゆっくりと傾きながら、夜の隙間に思考の枝を伸ばしていく。
 たとえば、家に帰り、食卓の真ん中に離婚届が置かれている。新しく花瓶に生けられた赤いブーゲンビリアと一緒に。ブーゲンビリア花言葉は情熱で、その場にはふさわしくないけれど、そんなこと妻も彼も知らない。
 たとえば、一人暮らしの彼は仕事のストレスからうつを発症している。生ごみの匂いがとれない部屋をスウェットのまま出て、電車に乗る。人々に奇異の目で見られながら、彼は真剣な表情で渋谷を目指す。改札を抜け、誰もが忙しそうに歩くスクランブルでスーツ姿の会社員と肩がぶつかる。会社員は謝罪もなく立ち去って、彼だけが取り残される。誰にも必要とされてない、誰にも存在を認められない、自分は何のために生きているんだろう。
 想像した。どれも安易な想像ばかりで、使い物にならないと思った。けれど想像しているうちは楽だった。どこまでいっても答えにたどり着くはずはないけれど、そうしていれば欣吾のことを束の間忘れていられそうな気がした。
 駅の改札を入ったところで、理美が立ち止まり、ゆっくりと私を支えていた手を離した。相手に頼っていたように思えた体は離れてみると意外に自立しているものだなと思えた。視界は少し揺れているけれど、歩ける。
「うち来る?」理美が言った。
「大丈夫」
「大丈夫なわけないよ」理美が口の端をぐっと下げる。美人が、愛嬌のあるシーサーみたいな顔になる。
「欣吾のいる家に帰るくらいならうち来なよ、来てよ」
 ほとんど泣きそうな顔で理美は言う。
 今日は欣吾が自分の荷物をまとめているところだ。二人で借りた部屋で、一人で。帰りたいわけじゃないかもしれない。けれど帰って、欣吾にただいまと言っている自分がもう浮かんでいる。お帰り、という欣吾の声も。
 私は理美を抱きしめる。ありがとうを心の中で唱え続ける。涙腺が膨らんでいる気配がする。何も言えなかった。理美の肩から力が抜けていくのが分かった。ワインの匂いを含んだ理美の息遣いが伝わってくる。生きているのだということをなぜか強く自覚する。
 体を離したとき、理美も私も笑っていた。
「頑固」理美が言った。
「うん」私は小さくうなずく。
「最低だよ欣吾は」
「うん」私は自分の靴を見た。オフホワイトのパンプスの先は、いつの間に汚れたのだろう。

 近所の小学校前を欣吾と二人で歩いていた。すずめが石垣に生えた苔をついばんでいる。
「すずめって、苔食べるんだ」
「すずめは雑食だよ、虫も食べれば苔も食べるよ」
 欣吾は鳥が好きだ。というより空が好きなんだな、俺は。スカイダイビングに三回も挑戦している。
「カラスだって意外とかわいいよね」
「おお、分かる?」
 欣吾がカラスの身内みたいに言うので、おかしくなる。
「鳴く前にさ、体をぷうっと膨らませるの」
「そうそう。目も丸いし」目は大抵丸いものだとは、言わなかった。
「スカイダイビングって、どうなの」
「どうなのって?」
「いいの」
「いいよ。ミサトもやろうよ」
「でも、もしパラシュート開かなかったらとかって思わないの?」
「分かってない」欣吾が憎たらしい口調で言う。
「たとえパラシュートが開かなくてもいいやって思えるくらいの快感があるから飛ぶんだよ、人は」
 本気で言っているのか冗談なのか分からない。
「想像してみなよ。ミサト得意でしょ想像」
 想像している。さっきからずっと。なぜか私はウェディングドレスを着ている。空に飛び出す。全身を重力と風が包んで、青と緑が視界に広がる。タキシードを着た欣吾がいる。手をつなぐ。くるくると回る私たちは、一羽の鳥のようだ。
「なににやけてんの」欣吾に言われた。
「こういう顔なの」私は言う。スーパーの買い物袋を持っている、欣吾の二の腕をたたいた。いってぇ、と欣吾が言う。子供の笑い声が、私たちを追い抜いていく。

 理美を乗せた電車が駅を離れていった。遠ざかる音がこっちのホームに入って来た電車の音でかき消された。窓際に立って、景色を見ていた。なんでもない家の明かり一つ一つに意味があって、世界があるのだとぼんやり考える。草が繁る暗い斜面を通り抜けて住宅街が見えてきて、自転車に乗った誰かが横切って、駅に着いた。
 改札を抜けて駅前のロータリーを横切り、コンビニエンスストアを通り過ぎ、橋を渡る。低いヒールの靴音が鈍く響く。長い間隔で街灯がある。不意に背後から明るく照らされ、車が後ろから走り抜けて去っていく。家の表札を照らす明かりを追いかけるように見つめながら、歩く。鈴の音が微かに響いて、どこかで犬が鳴いた。夜は精一杯の圧力で、私の足を重くしていた。
 アパートの前まで来た。白い外装は月明かりの下、銀色に見えた。二階の私の部屋の廊下沿いの小窓に明かりが灯っている。欣吾がいる。
 部屋をここに決めたのはなぜだったかを思い出そうとしていた。日当たりだろうか。私は洗濯物のよく乾くベランダが欲しくて、それ以外は多くを望まなかった。駐車場だったろうか。欣吾の乗る中古の軽自動車。水色で丸っこい雨粒のような車。
 
 海に行こう、と欣吾が言うことがあった。窓の外は雨だった。雲はどんよりと首を垂れていた。それでも窓の外を見ながら、欣吾はそう言った。
 だって雨だよ、と私は言った。私はテーブルを拭いていた。消毒して洗濯した真っ白な布巾で頑固な油染みを落とそうとしていた。
 雨でもいいから。欣吾は振り向かなかった。私は手を止めて、その背中を見た。何か、石のかたまりのような背中があった。不穏な気配が目の端を、す、と通り過ぎた気がした。何かあったの。そう言おうとして、言えなかった。明日晴れるから。明日行こうよ。私はそう言った。テーブルを拭く。油染みはいつまでも消えなかった。 
 
 私はうろうろと、裏手の駐車場に回って自分の部屋を眺めたり、また階段の前に戻って立ち止まったりした。躊躇して後ずさったときに石ころを蹴飛ばした。石はアパートの敷地を飛び出し、道路の真ん中で止まった。しばらく石を眺めて、いつの間にか私は住宅の続く上り坂を、石を蹴りながら上り始めていた。右も左も静かに建物が佇んでいて、自動販売機がジジジと鳴く音が聞こえた。月を電線が二つに割る。また犬の鳴き声が聞こえてくる。
 坂をさらに上ると、右側に大きく曲がって、両側は繁みになっていく。小石はいつの間にか無くなっていたが、私は歩き続けた。下が急に砂利道になる。平坦な道になる。びゅう、びゅう、と車の音がする。月明かりはすべて繁みに吸い込まれたように、道は暗い。心細さは私の酔いを少しずつ醒ました。
 飛び降りなかった男のことや理美のこと、欣吾のことを考えながら歩いていると、どこまでも先細りに思えた道が開けた。
 そこは橋だった。高速道路に架かる橋。私は思い出した。いつだったか昼間に二人であてもなく散歩してここにたどり着いたことを。両側を柵に覆われ、その上に有刺鉄線が張られている。高速道路までは数十メートルの高さがあった。
「有刺鉄線まで張ってるのは、誰かここから飛び降りたのかもね」欣吾が言った。
「やだ、気味悪い」私が顔をしかめても、欣吾は続けた。
「でもさ、有刺鉄線くらいなら、行っちゃうよな。本当に死のうと思ったら」
 私は手を伸ばす。柵の一番上に手が届く。
「本当に死のうと思えるのがどれくらいの辛さなのか全然分からないけどさ」
 足を柵の間に引っ掛ける。滑らなかった。有刺鉄線の棘と棘の間に手を伸ばす。掴めた。
ワンピースの裾が風ではためく。下着が見えているだろうなと思った。けれど私には体を止める理由がなくて、そのまま柵を越えようとしている。何をしているのかと思いながらも、汗をかいて体に力を入れて、越えようとしている。左手が有刺鉄線を掴んだとき、ピッと痛みが走った。手の位置を変えて、両手でぶら下がる。足を上げたい。柵の一番上まで上げたい。全力だった。私の体がすべて、この柵を越えることに向かっている。心はどうだろうか。どこか冷えて穏やかな、この気持ちが死へと向かう人間のそれなのだろうか。
 目一杯の力を込めて足を振り上げた。届かなくて、手が滑った。私はコンクリートの上にお尻から落ちた。コンクリートは思ったよりも冷たかった。

「一緒に暮らすってどういうことなのかな」
 私は欣吾に訊いたことがある。一緒に暮らし始める一週間ほど前のことだ。テーブルの上には団子があった。スーパーで買ったみたらし団子だ。パックを開けて、先に一本取る。
「どういうことって、うーん」
 欣吾も考えながら団子を取る。串には三つの団子がついていて、先の方から一個ずつ食べていく。
 私が三つ目を食べようとしたとき欣吾が、あ、と言った。
「え?」
「それだよ」
「なにが」
「その顔」
 私は三つ目の団子をかじろうとしている。その顔はあごを突き出して、なんだか深海魚のようだと欣吾が言った。
「そういう顔を見せるってことなんじゃないの」
 そう言うと、欣吾も三つ目の団子に取り掛かった。あごを突き出して、深海魚のように食べた。私は笑った。
「そういう顔を見るってことなんだよ、ずっと」

 私は肩で息をしながら、しばらくその場で動けずにいた。何も考えていなかった。ただ動かずにいた。
 横に置いていたバッグの中で携帯の着信音が鳴ったのが分かった。少し間を置いてから、取り出した。
『誕生日おめでとう』
 欣吾からだった。
 私は震える手で文字を眺めた。文字からはそれ以上何の意味も読み取れないのに、何往復もそれを読み返した。ぐるぐると頭の中を記憶がめぐる。それはまだかろうじて「記憶」で、思い出ではないと思った。口を押さえる。嗚咽が漏れた。文字はもう読めなかった。うずくまって少し鉄っぽいコンクリートの匂いを嗅ぎながら泣いた。
 そのとき、私は寂しさの底なんてまだまだ知らなかったのだと思った。また空白を生きるのだと思った。そこに酸素はしっかりあるだろうか。溺れないだろうか私は。それでも他に進む道のない体と心が、ここで震えながら待っている。何かを待っている。
 ただいま。お帰り。無意味な言葉を頭が反復する。
 下の道路を車が通るたび、橋は小さく揺れた。左手の痛みが、私のことを見ている。静かに見守っている。