いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

なんにも言いたくない

 仕事辞めてやった。
 仕事辞めてよかったことの一番は、朝起きれるようになったこと。この後にじりじり胃を焼くだけの苦行が待っていなければ、すうっと起きれるもんなのである。そうして私はギターを買いに神保町へ。神保町の朝十時は抜群に晴れていた。
目当てのギターショップに足を踏み入れる。店員さんを見つけ、「初めてギターを買います」と言うと、店員さんは「なるほどですね、お好きなメーカーとかもない感じですか?」と言うので、「峯田くんと同じやつがいいです」と言うと「あーじゃあリッケンバッカーですね」と笑った。銀杏ですか、と言いながら店員さんの手がギターの持つとこに触れる触れる。リッケンバッカーという響きの良さすごい。
 すすめられたアコースティックギターや弦や教本やらを合わせて結構な金額になった。
 別にいいか。
 早速自宅に籠もって練習を始めた。ジャーンと鳴らしてみると思ったより複雑な音色がして鳥肌が立った。これがあの峯田くんの!しかし感動は最初の数十分、アコギの弦は固く、指の腹に食い込み、痛い。Fが押さえられないし。そもそも指の長さが足りてないような気がする。YouTubeで峯田くんの動画を見直してみる。峯田くん、男だもんな。私よりそら指長いわな、と思ってる内に映像に引き込まれ、峯田くんが歌う動画を片っ端から観ている内に一日目が終わる。
 翌日、智子がやってきて喧嘩になった。私は朝からFコードと格闘していた。
 「何してんの?」智子はマジで怒った。「なんで辞めてギター弾いてんの?」
「私、前からやってみたかったんだよ」
「そんなの趣味でしょ」
「上手くなりたいから。本気で上手くなりたい」
「上手くって……」智子が深く息を吐く。
「私たち幾つか分かってる?」
「三十五」ボローン。あれ、今澄んだ音が一瞬きこえた?
「仕事辞めてどうするの? ギターが多少上手くなって、その先に何があんの? 再就職、めちゃくちゃ難しいよ。ギター弾いてる場合じゃないよ」
「智子は何になりたかった?」
「何?」智子が返答に窮する。
「私、高校の時にゴイステに出会って銀杏ボーイズになってから聴かなくなって、就職してここまで来たけど、この間久しぶりに峯田くんの動画観て本当に心を撃ち抜かれたんだよ。なりたいものなんてずっとなかったから、私はいまやりたいことをやってみたい」
 そんなことで説得される智子ではなく、終始不機嫌だったけど、そんな貴女が好きなのよと歌ったら頭を叩かれ結構痛かった。
「世界中のあらゆる争いを私は止めることができない、私には私としての体が一つあるだけで、私の足りない脳が一つあるだけで、すべてを解決するアイデアなんて到底持っていないから、私にできることは私の肉体が、声が届く範囲の人々に優しくすること、暴力は罪だと、国家は一人一人の肉体からできていて、前線で気の触れた兵士には家族がいることや、目の前で母親を犯された子供の将来のことや、そういう悲しみに向き合えるだけ向き合うということ、向き合えるだけ向き合うということ! それ以外に、ない」
 しまった架空のロックインジャパンに出ていた!
 全然上手くならない。
 二週間ほどの練習で指にはタコができ、硬くなっていたが、技術の向上はどう考えても暗礁に乗り上げて船底がガスガス削れている。それでも一日中弾いていれば、ゴイステの曲をなんとか完奏できるようになった。でもそうしてあの頃熱狂した曲達を弾いて歌ってみても何か満たされなくて、私はやっぱり自分の口から出るのは自分の歌であってほしいようだった。
この間、私の退職を知った両親に滅茶苦茶に怒られるなどしたが、それは割愛。
「そういうキャラじゃなかったじゃん」
 智子が壁にもたれながら言う。智子は週末になると私の部屋に入り浸るようになっていた。
「人生を棒に振るようなキャラじゃさ」
「キャラとかじゃなくて、私は私を生きたくなったんだよ」
「なんか嘘くさい」
「嘘か本当かで喋ってないもん」
 曲作りは難航した。コードを弾いて言葉を待つんだけど、二束三文な、うっとり自意識な言葉ばかりで泣きそうだった。違うんだよー違うんだ、生きるってすばら、なんだけどうおーぐおーってぬらついた内臓を通ってくる声の塊がさ? なんで胸を打つかってこと考えるんだ。朝が来る。やばばばば。
 一週間後、智子が来るのを待って、「熱海行くぞ」と電車に乗った。智子はすごい勢いで戸惑っていて、ほとんど泣きそうな顔で「私の知らないみずほしかいないんだけど」と嘆いた。電車は緑の中を進み、温泉街に辿り着いた。
予約していた宿で温泉に浸かり、豪勢な夕食を食べた。暗くなって海辺では花火が上がり、私も智子もうわー、と呟きながらそれを見た。花火は網膜をきらきらと照らした。闇をスクラッチして出てきたみたいに、この世のもので何番目かに美しかった。次のが上がるまでの間に何を言おうか考えていた。
私の鞄の中にはできたばかりの歌がある。
いまここで歌おうか?