いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

名もなき母

日の暮れかけた公園でひとり遊んでいると、母が迎えにきた。母は100メートル手前でもすぐに母だとわかった。銀色の羽根が光をぐしゃぐしゃに乱反射するからだ。僕は母が公園に着くまでに水道で手を洗い、公園の入口で母を待った。やって来た母は「タイちゃん…

小花

駐輪場で千夏と出会う。お互い、放課後に未練なんてない。まだ誰もいないこのトタン屋根の下で私たちは雑に置かれた自転車を引っ張りだし、またがる。早くも汗がにじみ出てくる。シャーシャーと蝉。梅雨明けたての空はまだ曇っている。「いつもんとこ?」「…

私たちは呼吸している

私にはまだ名前がなく、あるのは仮の呼び名と借り物のようなこの体だけだ、と深瀬のぞみは思っている。仮の名前、希望と書いてのぞみと読むそれは商品名のようなもので、彼女にとって本当の名前とは製造番号のアルファベットと数字が入り混じったあの無機質…

君はスター

五年一組の朝の会はとつぜん裁判になった。ほかになんかありますかー、といつも鼻をほじっているサエグサが、めずらしく鼻をほじらないで日直をやっていた。ここで「なんかある」と言い出すやつはなかなかいない。それは前の、東京の小学校でもそうだったし…

夏の獣

姉が未知をおいて家を出てから三日が経つ。ふらっと訪れた実家である我が家で、姉はそうめんを少しだけ食べた。ほとんどの時間をリビングに座って過ごした。私は数学の期末試験の成績がすこぶる悪く、夏休みの補習を課せられていて、暴力的な暑さの中を学校…

教室の井戸

教室の隅には井戸がある。石造りの、丸く古びた井戸だ。上には杉でできた、ささくれの目立つ蓋が乗せられている。井戸の奥を覗き込んでも暗闇で何も見えない。光で照らしてみるとその光さえ吸い込まれそうに暗いが、小石を投げ入れると、数秒の後にぽちゅん…

団子

独りぼっちのシーソーのようだと思う。私の不安感は得体のしれない軽さをもって私とは正反対に浮かんでいる。地に着いている私は、その足の裏の感触にただ満足すればいいはずなのだけれど、なぜか空に向かって伸びているシーソーの先を思い浮かべてしまって…

不在

銀色の柵が太ももに直接触れるとびいっと電気が走るように冷たかった。はぁっ、と声が出てしまい、口を閉じて辺りを見回す。四階だ、そこの路地を人が通りでもしたらすぐに見つかってしまうだろう。向かいのアパートのベランダもこちらに向いている。そこか…