いつか聞いた話のつづき

今日も小説を書いて考える

退屈な日々にさようならを

 希望を燃やす。希望は半紙なのでよく燃える。墨のにおいがする。希望は書道の授業で書かれた希望なので、墨のにおいがする.

どうにかしようと始めた狼煙も今日で三日になる。どこかで誰かが見てやしないかと、私たちの白煙は一斗缶からくねくねと身をよじって青い空をのぼってゆく。のぼっていって、空気に溶けていくのだけれど、暴力的なまでの青のまま。なんか余計に絶望する。

 そんなことを思っていたら、手に棒のようなものを握っている鹿嶋が戻ってくる。

「なに燃してんの」

「習字のやつ」

 私は校舎の方を指さす。一年生の廊下に貼りだされてあったやつを、全部集めてきたのだ。

「いやいや、そんなの燃しても意味ないじゃん。木だよ木」

 しゃがんでいる私の頬に、立っている鹿嶋の唾がかかった。きたな。

 鹿嶋が手に持っているのはフランスパンだった。微かだけど、焼けた小麦のにおいがしている。

「給食室にあった」

 鹿嶋は言って、はしっこをちぎる。

「それ、私にくれようとしてる?」

「うん」

「いま、いい」

 私は立ち上がってスカートの裾をぱたぱたとやり、長い木の棒を鹿嶋の空いてる方の手に押しつける。

「交代して」

「トイレ?」鹿嶋が訊く。

「うるせー」

 私は校舎の方に歩く。

「うんこ?」

「ぶっとばすよ」

 

 昇降口を入ると、目が暗さに慣れなくて視界が悪くなった。しんとしている。それはもう当たり前の光景なんだけど、学校というものの喧騒を知っているから、慣れない。鼓膜の奥で勝手に鳴っている音がある。上履きが床にこすれる音とか、手を叩いて笑う女の子たちの声とか、階下で椅子が一斉に動く音とか。普段気になんかしてなかったはずの音が、しっかりと残っている。

 といって、ここは私の母校ではない。中学校なら給食室があるから、と鹿嶋が提案して、鹿嶋の母校に来たのだ。たしかに給食の食材があったのだから、鹿嶋には感謝しなくてはならない。

 静まり返った校舎内に私の足音だけが響いている。なにか歌を唄おうと思ったけれど、特に思いつかなかった。階段をのぼる。

 

 街から人が消えたとき、私と鹿嶋は警察署にいた。私たちが通う高校を管轄とする警察署で、いつもありがとうございますと花束とメッセージカードを持っていかなければならなかったのだ。応接室で私たちは黒い革張りのソファに座って、署長さんだか副署長さんだかを待っていた。私は、なんでこんなとこに鹿嶋と二人いるのだろうと、いまさら考えても仕方ないことを考えていた。それは私と鹿嶋が学級委員だからで、なぜ学級委員かというと友達がいないからだ。私たちはいわゆる「ミソっかす」同士だったのだ。

 不意にドアの向こうから人々の気配と物音が消えた。私たちは顔を見合せ、鹿嶋が扉を開けた。フロアには誰ひとりいなくなっていて、エアコンの音だけが静かに続いていた。警察署から外に出ても同じことだった。道路には無人の車やベビーカーや配られていたティッシュは残っていても、生き物はいなかった。

 私と鹿嶋以外の人間はどこかに消えてしまったのだ。

 

 四階をすぎて屋上の扉の前にたどり着いた。窓のついた扉にはカギがかかっている。私はポケットに入っていたスパナを窓に叩きつけた。がしゃんと音がして曇りガラスがなくなると、とたんに風が吹き込んでくる。秋風は少し肌寒い。慎重に手を伸ばして、屋上側のドアノブを探った。カチッとつまみを回すとドアが開いた。

 扉が風に押されて重たい。一気に開けて屋上に出た。

 屋上は風がびゅうびゅう鳴っている。校庭にいたときはそんなに感じなかったのに、遮るものがないだけでこんなにちがうか、と思う。空の青も暴力的だけど、風というのも同じだ。耳元で私を威嚇するみたいに唸っている。自然ってこわい、私は自然よりも人工が好きだ。スケールのでかいものは苦手だ。

 屋上のふちは二メートルくらいの白い柵でおおわれている。私はその柵に近寄って両手で握った。じーんとくるぐらい冷たかった。

「おー海」

 思わず声が出た。丘の上にあるこの中学校からなだらかに下っていく町並みの向こうに、コンクリート色の港が見える。コンテナを積んだタンカーかなにかが、埠頭に停泊している。水平線がくっきりと見えている。私は家族で行った夏の海を思い出していた。妹が中学生のくせに、なのか中学生だからなのか、暇なくせに行きたがらず、両親と三人で行ったのだ。お父さんもお母さんも行きの車のなかでは妹の愚痴(妹は学校の成績がすごく悪い)を言ったりして重たい雰囲気だったけれど、山がひらけて濃紺の海が見えた途端にわーすごい、となってムードが変わった。海は偉大だ、と私は思った。人工が好きなくせに、海は許してしまう。

 海岸はめちゃくちゃ混んでいたけれど、ほとんどの人が砂浜にいて、海に入ってしまうと窮屈さは感じなかった。海より砂浜の方がはるかに人口密度が高いのだ。みんななんの為に海に来てるのだろうと思った。父と母が代わりばんこに砂浜に残り、私はほとんどの時間(焼きそばを食べたとき以外)を海のなかですごした。父も母も楽しそうだった。私は海水は目が痛いので泳ぐことはせずに、浮き輪に入ってぷかぷかと浮かんでいた。なんかこういう風に、クラゲみたいに生きてたい、と呟いたのを母が聞いていて「なにおばあちゃんみたいなこと言ってんの」と笑われた。帰りに水族館のお土産コーナーに寄って、クラゲのキーホルダーを妹のお土産にした。家に帰って妹に渡すと「きもっ」と言われ、みんなで笑った。

 

 いつの間にか涙が出ていた。そりゃまあ、涙くらい出ますわな、とおどけて言ってみるものの、所詮ひとりなので恥ずかしいだけだった。

 一日目の夜、私と鹿嶋はもしかしたら家族がいるかもしれないと思い、それぞれの自宅に戻ってみた。電車もバスも動いていないから、一時間半くらい歩いた。その間、誰にも会わず、自宅にも家族の姿はなかった。いつもこの時間なら妹と母はいて、夕飯を食べているはずだった。冷蔵庫をあけると(二日目の途中まで電気は使えていた)、週末に母が作り置きしていたハンバーグが入っていて、私はそれを冷たいまま、泣きながら食べた。

 もぬけの殻になった我が家が網膜にはりついて消えない。そこはまだ全然綺麗なはずなのに、骨が透けて見えるみたいに、脆弱なあばら家同然だった。

 反対側の柵に近寄った。校庭の真ん中に鹿嶋がいた。おい、と聞こえない声で呟いた。鹿嶋はこっちを見なかった。

 

 月明かりが体育館の二階の窓から白く差し込んでいる。ステージ裏にあった毛布と体操マットで作ったベッドの上に座っていると、鹿嶋が入ってきた。

 火を消した、と言って鹿嶋は私から数メートル離れて座った。

「また明日つけるの?」

「んーどうかね。ここいても駄目そうだしなぁ」

 ぼんやりとした口調で言う。その表情はなんとなく大人っぽい。

 学校での鹿嶋は、いつもいじられ役だった。いじられてるのかいじめられてるのか、正直よく分からなかった。あまり人が寄りつかない私とはちがって彼の周りには人がいたけれど、羨ましいとは思えずなんとなく休み時間の教室で転がされたり頭を叩かれている彼を見ていた。鹿嶋の言動はどこか空気を読まないところがあったり、変な行動をして人を笑わそうとしても本人の意図とは別なところで笑われたりしているようだった。

 そういう鹿嶋を見てきたから、いまの彼はなんだか別人を見てるみたいにも思える。どっちが本来の彼なのか分からない。

「全国まわるっていうのも考えた」

「日本一周?」

「海の向こうにはいけないからな。日本のどこかには俺たちみたいな生き残りがいるかもしれない」

 生き残りという言葉が胸に刺さって私は黙った。それはつまり、私たち以外の人間の死を意味している。家族の死を意味している。

「いや、消えた人たちが死んだってわけじゃないけど」

 表情で察したのか、優しいことを言う。でも、同じなのだ。見えないということは、触れられないということは死んだのと同じことなのだ。

「さびしいね」

 私は思わず口に出してしまった。鹿嶋の前でこんなことを言うのは初めてだった。鹿嶋は口を尖らせて、言葉を探しているようだった。

「俺はあれだな。さびしいっていうか、なんか叫び出したくなる。これあれかな。発狂しそうなのかな」

 彼は無理矢理笑ったけれど、全然笑える状況じゃない。

「発狂されたら私が困る」

「たしかに。ていうかさぁ、俺思ってることあって」

「なに?」

「水野、俺のこと殺せる?」

 突然の問いに私は耳を疑った。は?と言った。

「いや、極論ていうか最終的に?そういうことできるかってこと」

 想像もできなかった。

「なんで?」

「うん?いやそれは……」鹿嶋が口ごもる。しばらく間が空いて、再び彼が口をひらいた。

ゾンビ映画であるじゃん。ゾンビになる前に殺して、みたいなの」

「ゾンビにはならないじゃん」

「ゾンビにはならない俺は。ならないけど、その、バケモノというか。つまり、人間の本能ってあるだろ。それってバケモノみたいだって俺は思ってて。だって理性で制御できない力って、それもうやばいじゃん」

 鹿嶋が頭を掻く。私はうなずきもせず先を促す。

「たとえばナチスがやったユダヤ人虐殺とか、色んな暴動とか、戦争での犯罪行為とか。そういうのってなんで起こるかって、人間は集団になることでひとりひとりの理性のブレーキが外れてしまうことがあるんだと思うのよ。個々の人間がコントロールできない大きな力に動かされてやっちゃうっていう感じなんじゃないかな。そういうの考えるとさ、人間って全然理性的で優秀な生物なんかじゃなくて、ただ少し頭の発達した動物にすぎないんだよな。だから、だからさ。俺が水野を、襲ったりしたら」

 鹿嶋の言いたいことがようやく分かった。

「いや、絶対そんなことならないように俺はする。するけど、それは理性を保ってる俺が言ってることであって、どうなるか分からないっちゃ分からないからね」

「殺すよ」

 私は言った。鹿嶋の動きが止まった。私を見ている少しつり上がった彼の目に、光が見えた。

「ちゃんと殺す」

「……そっか」

 鹿嶋がうつむいて、黙った。私は急に笑いが込み上げてきたけれど、笑わずに堪えた。

「じゃあ寝よう」と鹿嶋が立ち上がった。どこで寝るのと聞くと体育倉庫と返ってくる。

「俺が出れないように封鎖しといてもいいよ」

「そんなに本能出そうなの?」

 鹿嶋が笑った。笑ってもいいのか、と思えた。おやすみ、と倉庫の扉が閉まった。

 私も横になったけれど、しばらく眠れなかった。なにも音のしない世界で、自分の呼吸だけが聞こえていた。鹿嶋のことが少し怖くなったのは確かだったけれど、それ以上になにか信頼できるような気がした。信頼するしか生きていく手段はないのじゃないか。結局はどこかで、自分でどうにもできない領域に身を投げ出さなくてはならないのだと思った。

 

 四日目の朝になって、私たちは学校を出た。とりあえず人の多い東京の方に向かうことにした。相変わらず、風のほかにはなんの音もしない世界が続いていた。天気は少し曇っていたけれど、雨が降るほどではなさそうだった。国道らしき太い道路を何時間も歩いて、休憩してまた歩いた。東京の地下鉄の表示を見て、ああ東京だ、と感慨深くなった。数少ない友だちと浅草に遊びに行ったときのことを思い出して鹿嶋にも話した。

浅草寺の線香だけもくもく燃えてたりしてな」鹿嶋が言った。ポケットに手を突っ込んでいた彼が、あ、と声を上げて指差した先に東京タワーがあった。

「俺、東京タワーってのぼったことないんだよね」

 鹿嶋がつぶやいた。

「じゃあのぼろうか」私はほとんど無意識にそう返答した。鹿嶋は少し驚いたようだったけど、高いところから見るってのはあるよな、と言った。

 

 タワーの外階段は果てしない長さに感じられた。風が、学校の屋上の比ではないくらいつよく吹きつけてきた。寒さで指先がかじかむ。手袋してくればよかった、と言ったけれど、風のせいで鹿嶋には聞こえていないようだった。鹿嶋は後ろを振り返ることもなく、ときどき目を外に向けて、黙々とのぼっている。私も街を見る。四角い建物が不規則に並んでいる。道路が血管みたいに塊と塊をつないでいる、動かない車の列が見える。意外と多い緑が目につく。あそこにもあそこにも誰もいないのだろうか。本当に誰もいないのだろうか。

 息が切れてきた。手すりを持ちながら、ゆっくりとのぼる。頭がぼうっとしてきて、自分の呼吸を整えること、足を前に出すこと以外は考えられなくなっていた。からだが徐々に重くなっていく。視界は目の前の階段ばかりになる。

 鹿嶋が立ち止まってこちらを見た。鹿嶋の前には扉があった。着いたのだ。

 

 室内に入ると、風にさらされた皮膚の冷たさを余計に感じた。私は大きな窓の前のイスに腰掛けた。ギッと音が鳴って、なんだかそれだけで嬉しい。

 鹿嶋は私の後ろで立っていた。息づかいが荒くなっているのが分かる。なにも言わない。しばらくすると私を通り越し、ゆっくりと窓に近づいていく。

 呼吸を整えながらその後ろ姿を見ていた。やっぱりなにも喋らない。

 私はからだの機能が戻ってくるのと引き換えに、心の芯がだんだん冷えていっているような気がした。なんだろう、この感覚は。なにかおかしい。

「誰もいない」

 鹿嶋が言った。彼は窓に手を置いた。

「海が見える」

 私は気づいた。彼もまた、いまなにかの渦のなかにいる。

「大津波がくるとかなら分かるけど。なんだよこれ。二人だけって。消えるってなんだよ」

「鹿嶋」

「分かってる。なんだよって聞いたって答えは返ってこない」

 鹿嶋が横を向く。唇がかすかにふるえている。

「水野」

「ん?」

「こうなったのは俺のせいかもしれないんだ」

 鹿嶋が私を見る。

「俺な、みんな消えたらいいのにって思ってたんだ。なにもかもやかましいから消えてしまえばいいのにって。教室ではしゃいでる奴らも。先生も。親も。すれ違う人たちも全部。そうやって思ってた」

 鹿嶋がしゃがみこんだ。

「警察署で、音が消えて人が消えたとき、だから俺はちょっと喜んでたんだよ。こんな状況で、ちょっとはしゃいでた。でもそんなのは最初だけなんだ。これからずっとずっと変化のない景色が続いて、誰もいない毎日が続いて、俺たちは狂ってく」

 私は顔が熱くなるのを感じた。視界がゆっくり滲みはじめてしまう。鹿嶋の輪郭がぼやける。

「自分ひとりでは自分のことすら保てないんだ俺たちは。誰かとぶつかって反射したものを視覚として認識するのと同じに、俺たち自身もなにかとぶつからないと、反射しないと自分だってことが分からない。ひとりでは生きていくことすらできない」

「二人いるよ」

「二人しかいない。二人だから余計に駄目なんだ。水野、俺はお前のことをレイプするかもしれない。いまここで、急にそうやってしようと思えばできてしまう。裏切ろうと思えばできてしまう。そのことが堪らないんだよ。昨日だって思ってた。もしかしたらお前は嫌がらないでやらせてくれるんじゃないかって、そう思ったらぐるぐるとその考えが頭のなかをまわって。信じられないだろ? 馬鹿だと思うよな。ほんの一瞬の快感のために、一生分の裏切りをすることが、俺にはできるんだよ。昔からそうだった。目の前にいる友だちの喉元を食いちぎってやることとか、持っている鉛筆で後頭部を刺してやることとか、親を殺したらどうなるかとか考えたことがある。何度も何度も、頭のなかでその映像がリピートされるんだよ。そう思ったら俺、とっくの昔に頭おかしくなってたのかもな」

 鹿嶋は床を叩いた。音は全然ひびかなくて、どすどすと冷たい素材に吸収されていくばかりだった。

 私は窓の外を見る。曇り空はほとんど真っ白になっている。白く塗った壁がすべてを覆ってしまったようだった。

「あっ」

 私は声を出した。なにかが動いた。黒い影のようなものが視界をよぎった。

「鳥」つぶやいた。私は窓に駆け寄って、顔を張りつける。

 鳥が飛んでいる。よろよろと風に吹かれて、いまにも墜落しそうな頼りなさで、ほとんど溺れているような雰囲気で、空を泳いでいる。鹿嶋はまだ見つけられないというように視線をさまよわせている。

 現実だろうか、幻覚だろうか。どちらでもいい。生き残ったのか取り残されたのか。どちらでもいい。見えないものがないのと同じであるように、見えるものは存在するのと同じことなのだ。窓に添えた手が、外気の冷たさを感じている。

 私は鳥を見つめる。

 その向こうで、いま雲が割れてつよい光が現れた。

燃えるごみのパレード

  まったく、くそったれしかいないと思う。いまこの場にくそったれしかいない。ぼすぼすぼすと袋を踏みながら進む、進んでいるのか沈んでいるのか本当のところはわからないが、不法投棄されたごみの上を走るこの真夜中の山のなかで。
 智恵子オオオオ! と正木の声が追いかけてくる。その声は血がにじんだように掠れている。実際のところ正木の頭部からは真っ赤な血が流れている、さっき峰田がレンチで殴ったところから、どろどろと。
 臭い。なにかこれは、ガスが、なんらかのガスが発生している感じのにおいだ。踏んでいるのは固体も液体もおそらくは混じって、ぶよぶよと腐敗して融解して、この世のものでここより汚れた場所は想像がつかない。吐き気はしかし、徒労に近い動作による荒い呼吸に圧されて感じる暇もない。数メートルの距離にいる峰田が、大丈夫ですか! と声を出す。大丈夫なわけあるか! お前と関わったがために私はいまこうして息を切らし、汗を流し、ごみに埋もれているのだ、お前が、お前が目の前に財布をぶらぶらと、不相応にも高級そうな財布をぶらさげて歩いていたから私はそれを奪おうとし、奪えず、逃げようとするとお前が喫茶店に誘い、私は従った。私はあのときお前を殴ってでも財布を奪って逃げていればよかったのだ、金を欲しがる理由が正木にあるなどとお前に話さなければ。
 一緒に正木を殺そう、などとお前が言わなければ。
 ずぶ、とまた足が埋まる。濡れていた。なんの液体か。獣の死骸のその体液であってもおかしくはない。なにせここはごみ溜めだ。ごみは無意識の悪意の集合体。死ね死ね死ねと垂れ流された残骸のなかで、生きたい生きたいと足を前に運ぶ自分の憐れさよ。生きたいのか、私は? おそらく死なんて一瞬のしびれのようなもので、あとは永久に無があるだけなのに、それをおそれている。どうして? だいたい、これから先どうする? この場を逃げきって、峰田とふたり、逃げつづける? この冴えないシリコン入りシャンプーをノンシリコンと偽って売る詐欺師と。体臭のうすいことだけが取り柄のような男と。
 泥水をすするような人生を、それでも終止符を打たずにやりつづけようとするその動機はどこにある?
 小さな破裂音がふたつ。銃だ、銃を持っている。正木が、殺すぞくそがぁぁぁぁと叫んで狙っている。私はついには銃に狙われる人生になってしまったかと、半分壊死したように冷えている頭で思った。東京に出てきた日の、千住のアパートの脇に座っていた浮浪者の顔がなぜかいま鮮明に思い出されるような気がした。それがいまつくられたのか、本当に過去のことなのか誰にもわからないだろう。交差してすらいない誰かは、私の人生と関わりないという一点に支えられて存在している。知らないことがたくさんあった。いまも数かぎりなくあり、知ることはできない。知らないものが、それでも存在しているということが私を形づくっている。
 私の内側には私すらいない。それは常々そうだった。私は自分のことすら充分には語れず、行き届かず、触れられることのない場所はそのまま埃をかぶっていた。その蓄積こそが自分なのだと、掻きむしって教えてくれたのが正木だった。正木は自分のことのように私のことを語った。私がどういう人間か、正木が教えた。正木は垢まみれの私を愛した。垢まみれだからこそ愛した。私はいつの間にかあの頃のにおいを失っていて、それは誰のせいでもない。

 峰田が私に並走した。呼吸は不規則で歯の隙間から漏れ出すような音だ。私に横顔を見せながら必死にごみをかき分け、みっともなくつんのめり、また前を向く。そのとき発砲音がして、峰田が口元を歪めたかと思うと、ぷっと吹き出した。
「耳かすった! 死んでたよ俺!」
 その顔は子供のように幼く笑っていて、いまにも泣き出しそうに張りつめている。
「でもずっと死んでたからどうせ! チエコさん俺、耳が痛い! 大丈夫? って聞いてくれる人、ずっといなかったんだ!」
 私は目を逸らす。一心に膝をあげ、ぐちゃぐちゃになった足を前にやる。心もからだも別々の方を向いて、がちゃがちゃとやかましい。
 後方で正木のうめき声。思わず顔を向けた。正木がごみに腰まで浸かっていた。噴き出した血で左目はふさがっているようだ。顔半分が黒く染まっている。銃口を漠然とこちらに向けながらうつむいている。
 怖いんですよ朝は。初めて峰田とセックスした日の明け方。白みはじめた空が窓も染めていくのを見ながらコーヒーを飲んだ。なにかが始まるということをずっと恐れてる、僕は。私もそうだった。昨日を永遠に引きずりたいと思っていた。
 パァン。
 どこかにあたった気もする。痛みはないけれど、全部命中して私はとっくに死んでいるという気がする。殺意はパラレルに私たちを引き裂くのだと思った。選びとらなければならない。自分で、自分を語らなければ。
 ずん、と視界が下がった。足の裏に地面がない。太ももまで埋まり、生臭いにおいに途端にえづきそうになる。
 峰田が気づいて、近づいてきた。私のひじのあたりをとって引き上げようとするが、自分も同様に足場が悪いため、大した効果はない。
「なんなんですかここは!」
 嬉々とした声に聞こえる。悲鳴にも聞こえる。「くせぇ!」
 智恵子! 智恵子! 正木の声が、カラスの声とミックスされたみたいに歪んでいく。
 私にはなにもない。なにもない私の名前を呼ぶくそったれ、手を引くくそったれ。ほとんどごみ同然の私たちが、まだかろうじて生きていることを告げるのは、この夜においてはざわざわと風にゆれる木々と、鼻腔にへばりつくにおい。なんて鈍感に生きてきたのだろう。 本当のことはマンホールみたいに蓋をされていて、いつも素知らぬ顔で通りすぎてしまう。知りたい。もっと知りたい。もっと知ったうえで死にたい。
 私はつかんだ。金属製のなにか。冷たくてぬらついている。それを頼りに全身に力を入れると、足がごみから抜け出た。銃声と水分を含んだ破裂音が同時だった。ざさざさざさと鳥が逃げていった。

 森をとにかく下った。人の通った跡なのか獣なのか分からないような道にも出くわしながら雑木林を走った。脛を植物の茎か枝がこするように切りつけた。鋭く痛み、いつまでも残った。峰田と一言も交わさず走り続け、明かりが漏れてくることに気づいた。森がそこで終わっていて、民家があった。私と峰田は目を合わせた。峰田の黄色い目が湿っていた。私は民家に駆け寄り、扉を叩いた。すみません、すみません! と叫んだ。謝っているつもりだった。誰に対してでもなかった。人が出てきた。老婆で、私を見るとひっ、と声をあげて口に手を当てた。あんた血が、と老婆は言った。後ろにいた峰田にも気づき、なんなのあんた達、と言った。
 
 ヤクザに殺されそうになって逃げたという話を信じたのか私たちが怖ろしかったのかわからないが老婆は私たちを部屋に上げた。とにかく汚いから入れと言われて風呂に入った。風呂はわずかにカビ臭かった。明り取りは光を受けて白く光っていた。シャワーを流すと黒っぽいお湯がタイルの上に流れた。ずきずきと痛むところからはまだ少し血が出ていた。
 通された畳敷きの部屋は死んだ夫のだと老婆は言った。ほとんどなにもない部屋だった。しばらく放心していると襖が開いて峰田が立っていた。峰田は無言で私の目の前に座った。私を曖昧に眺めた。手が伸びてきて私の髪を触った。ノンシリコンだって、と峰田が言った。ここのシャンプー、ノンシリコンのやつだった。峰田の息が私の息と混じりそうだった。毛穴という毛穴から汗が噴き出していた。峰田の目が充血して私の目も熱くなっていった。峰田の髪を触った。水分をたっぷり含んだ毛が指にじっとりと絡んだ。
 智恵子さん、愛してるよ。

 うるせえ、全員死ね。

たまに踊ってる

 西田マキというひとが「あの夏」って名前のプロジェクトを始めたときには私はまだ彼女のことを全然知らなかった。彼女の楽曲を知ったのは日比谷のTOHOシネマズで映画を観た後に行った本屋で「コールミーコールミー」という曲がかかっていたからで、少しハスキーでアンニュイな歌声とシンセサイザー?の効いたサウンドがとても好みだったからだった。それが「あの夏」の曲だと教えてくれたのは一緒に映画を観に行った男だった。天井の方をちら、と見た私の仕草をちゃんと見ているのが凄いなと思った。でも同時に初対面でそんなとこまで見てるなんて怖い、という気持ちもあった。さっき交換したばかりのLINEに彼がYOUTUBEのリンクを貼ってくれた。この曲だよ、って。そのあと行った九州料理の居酒屋で私はその動画を見た。あの夏こと西田マキは黒目が大きかった。「アイドル」と「アーティスト」の狭間にいるみたいな感じがした。

 そういえばその彼(ホンゴウさん)とはその日別れたきりで、二度と会わなかった。やっぱりちょっと怖い、の方が勝ってしまったのだ。

 

 事務なんかよく続いてるね、と言われた日の夜、私はヨドバシカメラで冷蔵庫を買った。本当は持って帰ります、と言いたいくらい即日で欲しかったのだけど、冷蔵、野菜室、冷凍と三つも扉のあるそれを持って帰ることは不可能だった。一週間ほどで届くとのことだったが、一週間後に冷蔵庫に執着がある可能性は低い。ヨドバシのポイントがだいぶ付いた。つぎ来ることがあるかな、と思うと疑問だが黒いカードは財布のなかに一応入れておくことにする。    事務なんかよく続いてるね、と言った男と食べたステーキが胃のなかにいつまでもいた。男は小さな設計事務所をしていると言っていた。でもそんなこと半分も信じていなかった。お店を出たところで肩に触られそうになり、動物的反射神経で避けた。そのまま場は白け、男はひとりで飲むからと言って繁華街の明かりのなかに消えたのだった。アパートに着き、廊下からリビングへと歩きながら服を脱いでいく。実家にいる頃母親に散々注意されても直らなかった悪癖。転々と脱ぎ捨てられた洋服たちが抜け殻のように見える。そのままシャワーを浴び、全身をくまなく洗う。今日がぜんぶ流れていくようにくまなく。

 風呂上がりに発泡酒を開けてローテーブルの横に座りこむ。テレビをつける気にはなれず真っ暗な画面をぼやっと見ながら飲む。昔のブラウン管なら黒い画面に自分が映りこんだものだけど、液晶の画面は光を吸い込むばかりで私が映らない。スマホで音楽を再生する。自分のプレイリストからあの夏の『トロル』が流れてくる。恋をする女の子が怪物に飲み込まれていく最後のサビが終わるのと、缶が空くのがほぼ同時だった。

 

 わたしたちはいつもどうしてこうなんだろう

 思い込んでも思い込んでも

 同じゆめを見ることができない

 

 会議室の準備に手間取っていた。レジュメにぬけたページがあり、その場で4人がかりでホチキスを外し、紙をはさんでまたホチキスで留めた。ペーパーレスにしろよ、と嵯峨根さんが毒づく。そうしたら私たちの仕事は減ってしまうということを考えながら手を動かした。いつか私たちみたいな仕事が機械にとって代わられたら、私たちはどうやって生きていったらいいんだろう。レジュメが完成したのは会議の十五分前だった。あたしたちの昼休み返してくれ! とぼやきながら嵯峨根さんたちが部屋を出ていった。ひとりになると部屋のなかには換気扇のまわる音しかしなくなった。窓の外を見るとビル群の上空は晴れているが、少し遠くに灰色の重たそうな雲が見えていて、夕方頃から雨なのではと思われた。

 

 「『あの夏』はこの夏をもって活動を終了します」という情報をSNSで知った。西田マキ本人の直筆と思われる字で書かれていた。「いくつかの夏を、『あの夏』と一緒に駆け抜けてくださった皆様に感謝します」「でも西田マキは活動を辞めるわけではありません」「いつかまたちがう形で、皆様とお会いできればと思っております。本当にありがとうございました」季節は六月に入っていた。私は彼女のホームページを眺めたあと、YOUTUBEで彼女の動画を見た。コメント欄には早くも活動終了を悲しむファンの姿があった。まだ終わってないけれど、ほとんど終わったようなものだった。

 

 週末、冷蔵庫が届いた。大きかった。配達スタッフがふたりがかりだった。こんなに大きい必要あっただろうかと思う。スタッフの男性がポケットから紙を取り出し、そこにサインをした。紙と一緒にポケットから白いタオルが覗いた。青いつなぎからはほんの少し汗のにおいがしていた。冷蔵庫の電源を入れ、数時間後に開けてみる。なにも入っていない各部屋が、しっかり冷えてきていた。発泡酒をある程度買いだめしても大丈夫だ、肉も野菜も小分けにして冷凍できるから、月初めに多めに買っとこうか。考えながら子供の頃、冷蔵庫の扉を閉めたあとの冷蔵庫のなかは絶対に見られないことや、鏡に背中を向けた自分の姿は絶対に見られないことなどを考えていたことを思い出した。

 

 会議室の後片付けをひとりでやることになった。少し前から嵯峨根さんたちは私のことを疎ましく思っているようだった。理由なんかなんでもよく、それは生理みたいなものなんじゃないかと私は気にしないことにしている。レジュメをまとめ、お茶を捨て、テーブルを拭いていく。廊下をだれかの笑い声が通り過ぎた。レジュメでうっすらと指を切った。血は表面張力なのか傷から少しはみ出す程度で流れてはいかなかった。窓の外を眺めていて、あ、と思った。見下ろした交差点の広告があの夏になっていた。

「『あの夏』はこの夏で終了します。」

 私はそれをしばらく見つめた。昨日見たミュージックビデオの、西田マキのステップを踏んでみたくなった。私にできるだろうか? 扉からだれも入ってこないことを確認して足もとを見つめた。旋律を思い出し、膝で拍をとる。右、右、左と足を出した。体が重い。三十路を迎えて少し太ったかもしれない。もう一度、右、右、左。

 

拍手はいらない

思い出のなかでくりかえす

幻のステップで

時を越えた

時を越えた

かやこの喪

 ホテルラウンジのソファに沈んで見合いの相手を待ちながら、やっぱり昨日中塚とやっておくべきだったと後悔した。お互い夕方からがばがばと飲んで二軒目が終わったとき、歓楽街の端っこに突っ立って妙に真面目な間ができたあのとき、あと一センチ二人の軸がずれたなら、力づくでずらしてくれたならそうなっていた。というか、そうしろよあの場合。私の頭はそのとき、散々アルコールに浸かったわりには生きていて、なしくずし的に繋いだ手の驚くような冷たさや、やや乾燥気味でざらっとした感触まで覚えているのに。
 中塚のやつ、と奥歯を噛みしめると、こめかみから後頭部にかけて電流が走りじんじんと痛む。この痛みをベッドの上で感じて、昼過ぎまで寝過ごしてしまえればよかった。
 遅い、と横に腰掛けている母ミツミが感情を込めない口調でつぶやく。昔からそうなのサトコって。お父さんが亡くなったときも病室に間に合わなかったの。ま、私はそもそも行けなかったけど。と、姉サトコの愚痴を口にしつつ、母の目はじっとなにかを見つめている。たぶん、ロビーの中央に据えられた巨大な水槽だろう。母の横顔を盗み見る。まぶたの厚みが増したような気がする。全体に、やや重力への無抵抗が感じられる。六十五歳という年齢の水準と比して、どうなんだろう。
 とりあえず視力は衰えているだろう。休日はゲームばかりしているのだろうから。昨日もうちに泊まりに来て、プレステ2しかない(それも母が買ったやつだ)ことに不満を漏らしつつ「ワンダと巨像」を夜中までやっていた。私はその正座してテレビに向かう後ろ姿と、テレビに映し出されるどこかも分からない壮大な、でも今になれば薄っぺらく映る風景を眺めながらいつの間にか眠った。
 母がゲームをやるようになったのはいつからかよく覚えてはいないけれど、父と離婚したのより後ではあったと思う。かといってそこに父との離婚が影響したという見方を母は嫌がる。
「ミツミ」と声が響いたのはそのときだった。私は立ち上がりながら声のする方を見る。着物姿のサトコ叔母さんが歩いてくる。綺麗な紺色。その後ろに上が紺、下がグレーでギンガムチェックのスーツ姿で長身の男性がいる。私は男性とはなんとなく目を合わせづらく、叔母さんに向かって笑いかける。叔母さんは五年前に会ったときより少しふくよかになっている。
「佳弥子ちゃん、久しぶり。ごめんね遅くなって」
 私は首を振りながら、近くで見る着物の光沢に圧倒される。控えめに刺繍されている花の種類は分からない。母のカジュアルなグレーのスーツに比べて、ずいぶんと見合い感が増す。私のワンピースにストールを肩からかけた格好は大丈夫か。
「綺麗」私はつぶやく。私の服はいいのよ、と叔母さんは言いながら後ろの男性の方を振り向いた。男性は誰にともなく会釈をして一歩進み出た。その肩にそっと手を置いて叔母さんがまたこちらに向き直り、
「山田英二さん。私が遅れただけで彼は時間前に来てたの」
 知ってるわ、と母の口元が言っている。
「山田英二です。よろしくお願いします」と頭を下げた男を初めてまじまじと見る。黒髪を短く整えた、理髪店カットとでもいうような標準的髪型。指三本入るかどうかの狭い額にはしわひとつ無い。長身と全体的につるつるときれいな肌質が印象に残るくらいで、あとは極々平凡な容姿だ。明日になったらどこかですれ違っても分からないかもしれない、と笑顔を作りながら思った。
 佐藤佳弥子です、と挨拶をしてお互い二人ずつ向かい合ったソファに座る。周囲を観察するとラウンジの中には緊張した面持ちの男女が何組もいる。ここはお見合いのメッカなのかもしれない、こういうところでやるものなのか今のお見合いは、と考えた。
 見合いなどしたことが無いし、することも無いと思っていた。サトコ叔母さんからの見合いの話自体は数年前から何度かあって、そのたびに断ってきた。母も会うたびに言われていたという。「あの人、要は暇なのよ」と母は言う。叔母さんの娘、つまり私の従姉のスズちゃんは十年前に二十代前半で結婚していて、今では二児の母でもあり、それに引き換えミツミの娘は、と思っていたのだろうか。
 ともかく、そんな見合い話が一カ月前に再び持ち上がって、それを受けてしまったのはまさに気の迷いと言っていい。その頃私は、母の人生について考えていた。きっかけは特に無い。ふと、気持ちが後ろを振り向いたときに、そこにあったのが母のことだった。
「今日は暖かいですね」と山田さんが窓の外の庭園を見ながら言って、今日は二十八度まで上がるとか、と付け加えた。
「ほんとに。暑いくらいですね」と返すと、山田さんはにこりと笑んだ。
「仕事柄、暑いのは嫌なんですよ」
 山田さんはメーカーの営業をされてるの、と叔母さんが言った。なにを売ってるんだっけ、あぁそうだプラスチックよね。
 庭園の池が両側を岩に挟まれて、小川のようにずーっと窓の近くまで来て湾曲して戻っていくのを目で辿っていた。ミニマル化された自然美をこうして眺めていると、気持ちもここを離れて高いところへ引き上げられるような感覚がある。そもそも実体としての自分を俯瞰で眺める癖みたいなものがあり、そんなとき不幸な瞬間も幸福な瞬間も薄皮一枚挟んだ向こう側にある気がしていた。触れているようで触れていない、ここではないどこかに私があるという不在感。その根源がどこにあるかといえば、決して責めるわけでも憤るわけでもないが、やはり両親の離婚という点に行きつくのかもしれない。
 母ミツミが父ノブオと別れたのは私が七歳のときだから、母は四十歳だった。直接の原因について、母からも周囲からも聞いたことがない(母は親戚付き合いもあまりしないタイプだった)が、私が物心ついたときには既に二人は不仲であったように思う。怒鳴りあいの喧嘩が始まると、私は父が酔ったときに買ってくるぬいぐるみ(これも喧嘩のタネだったけれど)の山の中に自分の身を埋もれさせた。なるべく体を小さく丸めて外気に触れないように。カーペットの匂いと埃の気配とぬいぐるみの隙間から差し込むわずかな光、そういったものに安堵を覚えていた。喧嘩が終わるとぬいぐるみの山はそっとどけられ、父は私の頭を撫で、それが終わると母は私を抱きしめた。私までぬいぐるみになったようだった。
「佐藤さんのお仕事は」
 山田さんの仕事の話がひと段落し、山田さんがこちらに話を振った。私は視線を彼に戻す。
「はい」と不用意な返事をしてから「あの、事務です」と答えた。
 山田さんは頷いて「そうですか」と受けたけれど、母が横から口を挟んで、
「なんの会社か分からないじゃない」と言った。
「海運系の、です」
 言い直すとようやく場の空気が動いて、あぁ海運ですか、と山田さんはなぜか嬉しそうにした。
「うちの材料だって石油ですから、お世話になってるかもしれませんね」
 でも事務ですから、とは言わなかった。山田さんは仕事人間なのだろうか。
 公立高校の商業科を出て、そのまま就職した会社だ。進学か就職か、進路について悩まなかったわけではない。元々大して学問に勤しんでいたわけでもないから、大学にどうしても行きたい理由は無かった。ただ少し、ちゃらんぽらんな生活に憧れがあったのだ。しかし結局のところ、進学するとすればおそらく奨学金を借りることになるという事実が、就職を選ばせた。その頃母は、格闘ゲームに熱中していた。自宅で、普通のコントローラーではなく、ゲームセンターにあるようなスティックとボタンのついたコントローラーを俊敏にがちゃがちゃと動かしていた。週末になるとゲームセンターに行くこともしばしばだった。母がそう言ったわけではなく地元の友人が、ゲーセンで何度も見かけた、と教えてくれた。どれくらいのお金をそこで使っていたのか分からないけれど、学費の滞納などはおそらくしていなかったし(父からの養育費もあったようだし)、自分で使うお金はアルバイトで稼いでいたから、私には大きな不満は無かった。むしろ、母のそうした振る舞いが私の独立心を高めたのかもしれない。
「ずっと今の会社に?」
「高卒で今のところに入ったので、もう十四年になりますね」
 言いながら、長いなぁと思った。どうしてもと希望して入ったわけでもないのに、まさかこんなに長くお世話になるとは。他にやりたいことも無いし、とにかくお金が稼げればいいという無味乾燥なスタイルだからこその長居だとは思うけれど、職場として居心地が悪くないのも事実だ。周囲の人間はずいぶん変わった。その中には嫌な人もいれば良い人もいて、好きになった相手もいた。彼ら(彼女ら)に共通して言えるのは、変わりたいと願っていたということだ。私はそうではない。
 中塚の顔が浮かぶ。新卒で大学から入ってきたあいつももう三十歳になる。どうするんだろうこの先、と考えたところで、三十二歳独身の私に心配されたくもないか、と思い直した。
 山田さんはよく喋る。こういう相手なら卓球のラリーのように力を入れず跳ね返せばいい。無口な相手だったら今ごろここは地獄だっただろう。
「佳弥子さんはほんとにいい子でね。昔から誰にも迷惑かけない子だった」
 叔母さんもよく喋る。叔母さんは喋ることに内容は無いが、間を持たせることにかけては一流だと思う。不愛想な母とは対照的で、子供のころどんな姉妹だったのか訊いてみたい。母の表情を見る。眠たそうだ。
「ちょっとミツミ聞いてる?」
 叔母さんに話しかけられ、母が目をぴくりと動かす。
「聞いてますよ」
 低い声だ。初めて会う人には、普通に話しているのに怒っているようにとられることもある。今もべつに怒ってはいないのだろうけど、ぶっきらぼうに響いている。叔母さんは笑顔を崩さず、「もう、この人ったら」とつぶやいた。
 そんないい子でもないですよー、と私が謙遜の言葉を明るく吐く。母のためにバランスをとる羽目になるのはいつものことだ。
「そんなことないわよ、本当に真っすぐ育って」
と叔母さんは母の方を再びちらと見た。そのときになってようやく、これは母に対する嫌味も込められているのかもしれないと思った。
 母は高校を中退しかけたという話を聞いたことがある。教師と付き合っていたことがばれたからだ。あれは誰から聞いたのだろう。考えて、生前の祖母だったと思い出した。祖父の三回忌かなにか、粛々とした空気の中、それまであまり喋ったこともなかった祖母が急に隣に座っていた私に話しかけた光景がよみがえった。私が高校生のころだったと思う。
 あれは、言うこときかん子でな。弁当をぱくぱくと食べながら祖母は無表情に語った。認知症はそのころ既に始まっていたんだろうか。少し離れた席で親戚に挟まれつまらなさそうにしている母を見ながらそんな話を聞くのは、今すぐ逃げ出したいようなぞくぞくと昂揚するような、妙な気分だった。
 関係が学校に知られ家族に知られてからも、教師と別れるなら高校を辞める、と母は強情を張った。そこには自分が辞めれば教師は助かるという思惑があっただろうか。現実には教師は退職に追い込まれ、母は一時不登校になったが、復学した。それからより一層、言うことを聞かなくなったよ、と祖母は言った。高校を卒業した母は東京の信用金庫に就職し、独立した。長野に住む祖母に会うのは法事のときくらいだった。
「祖母も五年前に亡くなって、佳弥子ちゃんに会う機会も減っちゃったから心配してたのよ」
 祖母の名前が出てどきっとする。叔母はそれからなにか思い出したように口を半開きにして、山田さんの方を見た。辛いことだけど、話していいわねと叔母が確認すると、山田さんは頷いた。
「山田さんは、ご両親を亡くされてるの」
「そうなんですか」思わず言葉が出た。
「両方とも癌でした」
 山田さんは涼しげな顔で、周りに気を遣うように口角をくっと上げた。
「それで大学まで出てるんだから立派よぉ、山田さん」
 叔母の言葉に、山田さんは無言で手を振って謙遜する。私は、うちの祖父母も癌だったな、と記憶に無い祖父の病室と、鮮明に記憶している祖母の病室を思った。
「葬式の挨拶は」
 ふと口に出すと、私に視線が集まったのを感じた。母も私を見ている。
「挨拶はどうされたんですか」
 私の言葉に一同が目を丸くした。
「挨拶ですか?」山田さんが訊き返す。
「はい。葬儀のときにしますよね、参列者に向けて」 
 あぁ、とようやく得心がいったように頷いて、山田さんが言った。
「父のときは私はまだ高校生だったので親戚がやりましたけど、母のときは喪主も挨拶も私がしました」
「生前の母は、みたいなやつですよね」
「ええ」
「佳弥子」と声がした。母の顔を見る。「やめなさい」と母は言って、一瞬かち合った視線を自分から逸らした。
 祖母が亡くなって以降、私は母の死についても身近なものだと考えるようになった。まだ六十代、などと思ってはいられなくなった。悲観的になったというわけではない。ただ死はいつでも生活の隣にあるということを意識して生きるようになっただけだ。自分が死ぬときはどうでもいい。問題は、母の死だ。
 それ以来、私は母の葬儀での挨拶について時折考えている。最初はそらでぼんやり思うだけだったが、段々エスカレートしてノートにつけるようになった。ノートには母について思うこと、思い出したことや起こったことを書いていく。そこまではいい。それをまとめるのが難しい。母の人生が続く限りそれは当然のことなのだけれど、ノートはぐちゃぐちゃで、まだまとめられてはいない。
 あまり暗い話しても仕方ないから、と叔母が打ち切って、趣味について訊いてきた。私はそれこそ母の葬儀について考えるのが趣味のようなものだけれど、それは言えないので「読書ですかね」と答えた。実際、読書は小さい頃から私にとって自分の居場所を作るための欠かせないツールだった。言葉を持たないことは不幸だと思う。名付けられない寂しさや、怒り、漠然とした不安、そういったものをそのまま抱えるのは辛い。名前を付けることは可能性をスポイルしてしまうことかもしれないけれど、得体のしれないものをむくむくと育てるよりは、薄っぺらくても安易でも言葉を貼り付けてしまう方が楽だ。私は言葉を獲得することで、無慈悲に思える世界というものに目印をつけ、歩いてきた。
 中学生のとき、万引きがやめられなかった時期があった。誰かに脅されたわけでも、つるむわけでもなく、私はひとりで万引きをしていた。ホームセンターで金槌を盗った。コンビニでワックスを。本屋でグラビアアイドルのフォトエッセイを。家には置いておけなくて、すべて近所の公園のベンチに捨てた。
 それがなんのための行為なのか、当時は自分でも分からなかった。母にも学校にも、もちろんお店の人にもばれることなく、多分半年くらいで足を洗ったけれど、罪悪感はぬぐい切れてはいない。いまでもたまに夢に見るのだ。手に持った、欲しくもない物体の感触。嵐の前みたいに不穏なのに静まりかえった心。それは緩やかな自傷行為だったのではないかと、いまになって思っている。破滅願望、みたいなもの。幼稚だったとは思っても、笑うことはできない。
 山田さんは趣味について「虫です」と答えた。
「虫?」叔母さんが訊き返した。
「虫って、カブトムシとかですか」私も訊く。
「はい。昆虫も、そうですね」
 山田さんは臆面なく、笑顔を見せる。
「男の子って感じね」
 叔母はなんとなく戸惑った様子でそうフォローした。
寄生虫とかは」
 なんの気なしに私がつぶやくと、山田さんの目の色が変わった。前のめりになって「お好きですか?」と訊いてきた。
目黒寄生虫館、行ったことはあります」
寄生虫館、あそこはマストですね」
 二十歳そこそこの頃、デートスポットとして周囲で流行した覚えがある。奇妙なもの、グロテスクなものには底知れない魅力があった。土産としてサナダ虫の写ったポストカードを持って帰って、母に「気持ち悪い」と一蹴されたのを思い出す。
「僕は、友達が大学の研究所にいるので、寄生虫の研究室をのぞかせてもらったこともあります。あと寄生虫学会の大会があるので、ときどき参加したり」
 山田さんの一人称が「僕」になった。叔母は若干強張った顔になり、母は私と山田さんを見比べるようにしていた。
冬虫夏草なんかはキノコ類ですけど、不思議ですよね。寄生した蛾の養分で、とか」
「寄生生物は『気持ち悪い』と思われがちですけど、それはきっと容姿だけではなくて寄生生物の持つ本質的な依存性に対する嫌悪感だと思うんです。でも寄生生物にも……」
「盛り上がってきたみたいね」
 叔母が笑顔で言って手を合わせた。それから時計を見て「ミツミさん、そろそろ私たちは帰りましょうか」と母を見る。
 母も頷いて、早々に身支度を始めた。山田さんと叔母に背を向けて鞄の中身をごそごそとしながら、あくびを噛み殺している。
 
 その場で立ち上がって、ラウンジからロビーへと遠ざかっていく母と叔母の二人を見送り、私たちは再び席に着いた。窓の外を見ると、陽の色は少し黄色がかってきていて、庭木も輪郭を徐々に濃く、影を薄くしながら日暮れを待っている。
 山田さんの寄生虫の話は、お互い紅茶のおかわりをしながら続いた。山田さんとしては寄生生物にだって生きる権利はあるということを主張したいようだった。私はもうさほど興味は無かったのだけれど、知っている知識でときどき相槌を打って、話を促した。人が熱を込めて語るのを聞くのは嫌いではなかった。それはシニカルな視点でもって思うのではなく、単純に羨ましさからくる気持ちだと思う。
 中塚は映画と野球が好きだ。その話題になると(というか酔うとすべからくその話題になるのだが)肘をテーブルに乗せて、口の端をわずかに緩ませて語り出す。人が喜びをもって語る言葉はどこかセクシーな魅力がある。愛、というものがあるとすればそこに私は愛の姿を見る。
 私はきっと、心の底からなにかを、誰かを好きになったことがないのだと思う。恋をしなかったわけではない。心惹かれる物事が無いわけではない。けれど私が欲しいのはもっと盲目的な、狂信的な感情なのだ。代替不可能ななにか。
 それともそんなもの、誰も持っていないのだろうか。なにもかもが代替可能なものでできているんだろうか。
「済みません、こんなに寄生虫の話ばっかり」
 我に返ったように周りをさっと見渡しながら山田さんが苦笑した。
「ホテルのラウンジでなんの話してるんでしょうね」
 私もふっと口元がほころんだ。それで体の緊張がほぐれた気がして、
「庭、見ましょうか」と自分から発案していた。
 
 外に出ると、穏やかな風と水のひんやりとした気配が肌に触れた。舗装された通路をゆっくり歩く。水面に私たちが写り、その下を目の覚めるような朱色の鯉が泳いでいった。
寄生虫の話ばっかりしてたから、鯉見て「あぁ顎口虫だな」とか思っちゃいますね、と山田さんが言った。私は思いませんよ、と返すと「はは」と笑った。
「そういえばさっき、葬儀のこと訊かれましたよね」と半歩前を歩いていた山田さんが振り返って尋ねた。
「あぁ」と池に視線をやりながら応えて、最初は躊躇った。実際に両親を亡くしている人の前で、こういった考えを披露するのは失礼なのではないかと思ったのだ。
「いや、なんとなく」と逃げたけれど山田さんはこっちをじっと見て「聞かせてください」と言った。
 結局、まぁ今日限りだし、と思い直し打ち明けることにした。
 話を聞いて山田さんは、なるほど、と言ってしばらく考え込むように黙って歩いた。そのときになって私はようやく山田さんの横顔をまじまじと見て、明日になっても覚えているかもしれないと思った。
「つまり佐藤さんは書記のようなものですね」山田さんが顔を再びこちらに向けた。
「書記ですか?」
「はい。お母様の人生の書記をされてる、と」
 書記という言葉はそれほどしっくりこなかったけれど、すぐには消えず頭の中に残った。
「そんな緻密なものじゃないんですけど。積極的に会うわけでもないし」
 母はひとり千葉に住んでいる。二十五までは親子で埼玉寄りの東京の古いアパートに住んでいた。横浜の支店への異動を機に私がそこを離れ、数年後、アパートの取り壊しが決まった。あまり気は進まなかったが、横浜で同居するかと訊いたこともある。けれど母は「いいよ」と千葉を選んだ。会社も遠くなるのにどうしてと思ったけれど、家賃が安くてその分ゲームに回せる、と母は言う。
 車も無いので会いに行くのはなかなか億劫で、ときどきの電話でお互いの近況を(さして話すような進捗もないけれど)喋って済ませている。今回のお見合いの件も電話で母から、だった。
 そういえば、母はどう思って私にお見合いのことを話したのだろうと、急に気になった。
いままでのお見合い話は母のところで止まっていた。それが今回は「あんた、お見合いする?」だった。
 そこに母の老いを見た気がした。同時に、今までの小さな軋みが寄り集まって形になって現れたとも思う。母ひとり子ひとりの軋み、歪み。違和感が無かったと言えば嘘になるのだ。意識しないレベルで、それは潜んでいた。
「時代とか時間っていうのは常に現在じゃないですか」
 私たちは池の中央の東屋にいた。さっきより確実に暗く、少し冷えてきたけれど、座りたい気分だったので椅子に腰掛けた。黙って山田さんもそれにならった。
「その上で色んな物事が起きて、でもそれっていうのはなんか上滑りしていくような感覚で時間よりもどんどん遠ざかってしまって。あのときあんなことがあったとか、こんなこと言ったとか、そういうのを自然と忘れてしまうじゃないですか、私たちは」
「そうかもしれない」
「だから、なるべく繋ぎ止めておきたいんです、画鋲で壁に写真を貼るみたいに。そうすれば、少しは華やかに見えますよね」
「誰のための華やかさなんでしょう、それって」
 山田さんが自問自答するように言った。
 私は少し考えて「分かりません」と答えた。自分のためと言い切ってしまうのも違うし、かといってすべて母のためと言うのも違うだろう。
「僕は、あなたがそれを自分の価値だと思ってるのなら、それは違うと思います」
 山田さんの方を見る。薄闇は屋根の下ではいよいよ濃いものになっていて、表情を確かめるには少し眉根を寄せる必要があった。
「場所を変えませんか」と山田さんが言った。

 離婚後の父に、一度だけ会ったことがある。というか、父が自分から私のところへ来たのだ。もう横浜にひとりで住んでいた私は、まさか自分のアパートに父を入れることになるとは思いもしなかった。
 老けたな、というのが当然の第一印象だった。数えてみたら二十年が経っていた。けれどなんだか小さく見えるのは七歳の私が小さかったからというだけで、父は大してしょぼくれてはいなかった。普通の健康そうなおじさんだ。それを少し残念に思う。
「急にごめんな」と正座した父は言った。
「電話くれれば片づけたのに」と言いながらお茶を出した。
「どうやってここを」と訊くと、「ミツミに聞いた」と答えた。それはそうか。
「お母さんと連絡とってたの」
「いや、ほとんどないよ。たまに手続き的なことであれするけど」
「ふーん」会話が途切れた。
「ミツミは元気かな」父がお茶をすすって、私を見た。
「電話したんでしょ」
「聞いたけど適当に答えてるかもしれないしさ。お前は元気だろうけど」
「ふーん。お母さんも元気だと思う」
「思う? あんまり連絡とってないのか?」
「あんまり会ってはないからね」
 そうなのか、と父はなんだか寂しそうにした。
「まぁ不仲ではないですよ、おかげさまで。あ、養育費ありがとうございました」
「佳弥子も皮肉言うようになったんだな」
 それで用件は、と私は訊いた。すると父は居住まいを正して、
「再婚することになった」と言った。
 なんだそんなことかというのが、そのときの私の偽らざる感想だった。というより、いままで再婚していなかったという方に驚いてしまった。それでもその後の父の言葉に、一抹の寂しさというか、心のどこかに小さな穴が開いたような思いだった。
「新しい家族ができる前に会っておこうと思ったんだ」
 家族って、と私は思った。新しいとか古いとか、そういうものなのだろうか。母は自分のあずかり知らぬところで、古いものとしてカテゴライズされていくのかと思うと、苦々しい気持ちになった。父に「なにがあったの」と訊きたくなっている自分を抑えた。なにがあって家族じゃなくなって、なにがあって家族になるの。

 電車を二度乗り換えて揺られているうちに、都会とは言い難い景色が広がってきた。住宅街があり、大型のドラッグストアが見え、公園らしき森林が見え、遠くは山が壁のように黒く塗りつぶされている。もうすっかり日は暮れている。
 場所を変えるってまさかこんな遠くだとは。驚きの気持ちはあるものの、夜を迎え、知らない男と二人でいるというのに、私には不思議と警戒心というものが無かった。それでいて頭は冷静に、よからぬことを考えているわけでもなさそうだと思っている。山田さんは車窓や乗客にときどき目をやる以外は膝のあたりを見つめ、黙っていた。電車が速度を落とし始めたとき、「降ります」と山田さんが言った。平日なら帰宅ラッシュの時間だろうが、土曜日の今日は電車もホームも空いている。
 駅を出て、山田さんはタクシー乗り場の列に並んだ。ほどなく私たちの順番が来て乗り込むと、「○○市民公園まで」と山田さんが運転手に告げるのが聞こえた。
 星がほとんど見えない。さっきまで晴れていたのに、いつの間にか雲が出たようだ。道路沿いの街灯と信号が視界に斜めに飛び込んでは消えていく。駐車場の大きなコンビニ、レンタルビデオ店、家具屋、大型スーパー。都会から離れるほど大型店が増えるのはなぜだろう、敷地があるからか、とひとりで納得しながらぼうっと眺めるうちに高いネットの張られた学校のところを曲がってタクシーは路地に入っていく。「ここらでいいですか」と運転手が言ったのはそれからすぐだった。「はい」と山田さんは前を見たまま答えた。
 住宅街の間に公園の入り口を示すブロックと、黄色い車止めと、その奥に手すりの付いた長いスロープが見えた。スロープの両側は林になっていて、人の気配は無い。
「ここを登っていきますか」念のため訊いた。
「怖いですか」
 山田さんの声が少し高くなっているように思った。
「いや、体力の問題です」と私が言うと山田さんは少し笑った。それを見て私はどこかほっとして、やっぱり不安はあったんだ、と気付いた。
 公園の中は、この時期の森はこんなに静かなのかと思うほど静寂が保たれていた。ときどきグルグルと聞こえるのはカエルの鳴き声かもしれない。スロープは途中から右に大きく曲がっていき、勾配も若干きつくなる。五分ほど歩いたところで口呼吸になった。山田さんはちらっと私を見たけれどなにも言わず進んでいく。
 今日はなんの日だっけ、と考えた。なんでこんなところにいるのか。
 スロープが終わり、階段とまた新たなスロープが見えてきた。山田さんが階段を選択したので仕方なく後に続く。階段は三十段くらいだろうか。
「この上です」と山田さんが励ますように言った。私は黙って登るしかなかった。
 登り切ったところに、うすぼんやりと月があった。そこは広場のように平らに開けていた。
「ここなんですか?」
 私は訊いた。周りを見渡すが、広場にはなにもない。
「ここならいいと思います」と山田さんが言った。私はその声に違和感を覚えた。さっきよりも声は高くなって、少し掠れて、思春期の少年のように中性的に響いた。山田さんは広場の中央の方へ歩いていくので私もついていく。
 ちょうど真ん中の辺りで、山田さんはもそもそとポケットに手を入れた。そして手を出す。その手にはなにも無いように見えた。手のひらを上にして開く。目を凝らすとそこに球体上のなにかが見えた。これなんですか、と訊こうとしたとき、ふうっと脳が吸い上げられたように体が軽くなり目の前が暗くなった。
 慌てて瞬きをして視界が戻ったときには、私は明るい空間に立っていた。目の前に山田さんがいるのだけが変わらない。山田さんは真顔で私を見ている。気を失っていたのかと考え、いやどう考えても一瞬だったと思ってから周囲を見る。
「どこですか、ここ」と声に出す。声は出る。白い壁に囲まれていた。あまりに白いので遠近感も輪郭も分かりにくいが、ここはどうやら円心状に囲まれているようだ。夢の中ということだろうか。
「ここは地球上ではありません」
 山田さんの言っていることの意味が理解できない。
「地下ってことですか」
 そういうことでもないです、と山田さんが言う。山田さんは超然としていて、さっきまでの親近感が嘘みたいに不気味だった。
「強いて言うなら地球の上空です。つまり宇宙空間」
 宇宙空間、とつぶやいてみた。分からない。
「なんですか?」闇雲に尋ねてみる。「なんなんですか」
「イチから説明すると長くなるので簡単に、分かりやすい概念で説明します」と山田さんは言う。
「僕はいわゆる宇宙人です」
 山田さんの顔をじっと眺めた。真顔は崩れない。なにも言えずにいると「もうちょっと詳しく言うと」と説明を重ねてきた。
「この体、つまり山田英二は地球人です。僕は寄生型生物なので、彼の体を借りています。いや、乗っ取っている、という方が正しい。私の本体はそうですね、枝豆のもっともっと遥かに小さいサイズと思ってください。それが人間の頭皮に付着すると毛穴から内部に侵入します。頭蓋骨と皮膚の間を這いずって、眼球の窪みから脳へと入るのです。大脳皮質の重要なところを傷つけないように潜っていって脳幹で止まります。そこから触手を広げて、全身を掌握するまで二日。そうしていま、この体があるんです」
「山田さん」初めて名前を呼んだ気がした。「本当にそう思ってるんですか」
 彼がそう信じているのだとしたら、それはそれでいい。そういう人だと思っていなかったから驚きはしているけれど、そういうことなら仕方ない。
「信じられませんか」
 山田さんは、静かな声で言う。
「いや、あなたがそう思うのならそれでいいと思いますよ。でも、とりあえず帰りたいです」
「もう少しだけ待ってください。佐藤さん、あなたにはすべてさらけ出してお話ししたいと思ったんです。宇宙人だということは信じてもらえなくてもいい。ただ私だってあなただって、いまこの場所では単なるひとつの生命体であるという点で変わりはないじゃないですか」
山田さんの声は真に迫っていて、私はどうしたらいいのか分からなくなりつつあった。
「これを見てください」
 山田さんが壁に触った。するとそこから円状にスクリーンが拡がるようにして壁の一部が透明になった。
 圧倒的な数の星屑。網膜の奥に焼き付きそうな輝きが飛び込んでくる。そしてその中央に、紫に近い深いブルーの球体。白と緑の土地が散りばめられた、これはおそらく地球だ。プロジェクションマッピングのようなものだろうか。それにしてはあまりにも鮮明で、くらくらとする。
「宗教ですか」私にはもう思い浮かぶ選択肢が少なくなっていた。
「一対一の話がしたいだけです」山田さんの声は変わらない。
「僕の種族には名前はありません。なぜなら僕は僕以外の同種と自らの姿で出会ったことがないからです。この乗り物と僕という個体、そして生存本能。知っているのはそれだけです。そして僕は地球上に降り立って、山田英二になりました。彼が五歳くらいのときでした」
 私は黙って彼を見守る。考えてみればたしかに一対一である以上、他のことは関係ないのかもしれない。脳が疲弊してそう考えたがっているようにも思えるけれど。
「そういう意味で、僕は生まれながらにひとりでした。でも、人間として過ごしていくにつれて、地球上の両親を失って、思うんです。人間も動物も昆虫も、寄生虫も、皆それぞれはひとつの個体に過ぎない。それ以上の価値は無いしそれ以下でもないんです。集団であっても、たとえばリーダーを持つ集団であっても、突き詰めればそれは同じことです」
「家族であっても」
 そうです、と山田さんは頷いた。
「あなたは集団単位に囚われすぎています。人間は一般的にそうですが、それは価値の優劣を生みます」
「私は私である、ってことですか」
 個としての私はどんな生き物なのだろう。なにが私の価値を認めてくれるのだろう。中塚の顔がまた浮かぶ。そして母の背中。家事を終え、テレビに向かう母の背中。私はなにも言わずそれを見ていた。
 私たちは二人とも、お互いに所属することで、逃げ続けていたのかもしれない。
「帰りたいです」私は言った。山田さんは私の目を覗き込むようにじっと見つめている。
「帰って会いたい人たちがいるんで」
 山田さんが視線を外した。そして「帰りましょうか」と、喫茶店を出るみたいに軽い調子で言った。

 ただいまというより早く、「おかえり」という声が聞こえて、私はうん、と答えながら玄関で黒のパンプスを脱いだ。リビングに入ると、母がダイニングテーブルの椅子に座っていた。
「ゲームやってないんだ」と言うと、「クリアしちゃったから」と事も無げに母は言った。
 テーブルの上にコンビニのビニール袋を置く。
「なんか食べてきたんじゃないの」と母が訊く程度にお酒やおつまみ、お菓子、弁当が入っている。
「適当に買ってきた。どうせ、明日お昼食べてから出るでしょ」
 そうだけど、と母は言いながら私の方をじろじろと見ている。その先のことを訊けずにいるようだ。
「山田さん?」私から訊いた。
「どうだったの」
「無いね」
 私は袋からチューハイを取り出しながら手を振った。
「無いって言える立場じゃないでしょ」
 まぁでも宇宙の彼方に連れ去らわなかったからいい人だとは思うよ、とは言えず、無いもんは無いよ、とだけ言った。
「そうですか」
 母はため息混じりに言いながら袋の中身をがさごそ漁った。それから思い出したように顔を上げた。
「あれ」そう言ってパソコン机の方を指差す。
「あ」私はしまった、と思う。ノートが置きっぱなしにされている。それはあのノートだ。
「見たの」
「見たよ」ビールを取りながら、平然と言う。
「見ないでよ」
「見てほしいのかと思った」
 気恥ずかしいような後ろめたいような妙な気持ちでチューハイをあおった。けれど、まぁいいのかなと思い直した。帰ったら捨てるつもりだったし、と。
「あんなもんじゃないね」母がぷしゅっと音を立てて缶ビールを開けた。
「なにが」
「私の人生」そう言って、にやりと笑う。目尻のしわが、やっぱり老けたなぁと思わせる。
 そうなの?と私が眉を上げると「だって付き合ってた男のこととか全然だもんね」と母がいたずらっぽく言った。
 初耳だと思いながらも動揺してないふりをして、「そんなの書くわけないじゃん」と一蹴する。
「でも話したいんなら聞くけど」
 母がチーズたらの袋を開けた。濃厚なチーズの匂いを嗅ぎながら、明日は日曜だし、いいか、と二本目のチューハイをつかんだ。

なんにも言いたくない

 仕事辞めてやった。
 仕事辞めてよかったことの一番は、朝起きれるようになったこと。この後にじりじり胃を焼くだけの苦行が待っていなければ、すうっと起きれるもんなのである。そうして私はギターを買いに神保町へ。神保町の朝十時は抜群に晴れていた。
目当てのギターショップに足を踏み入れる。店員さんを見つけ、「初めてギターを買います」と言うと、店員さんは「なるほどですね、お好きなメーカーとかもない感じですか?」と言うので、「峯田くんと同じやつがいいです」と言うと「あーじゃあリッケンバッカーですね」と笑った。銀杏ですか、と言いながら店員さんの手がギターの持つとこに触れる触れる。リッケンバッカーという響きの良さすごい。
 すすめられたアコースティックギターや弦や教本やらを合わせて結構な金額になった。
 別にいいか。
 早速自宅に籠もって練習を始めた。ジャーンと鳴らしてみると思ったより複雑な音色がして鳥肌が立った。これがあの峯田くんの!しかし感動は最初の数十分、アコギの弦は固く、指の腹に食い込み、痛い。Fが押さえられないし。そもそも指の長さが足りてないような気がする。YouTubeで峯田くんの動画を見直してみる。峯田くん、男だもんな。私よりそら指長いわな、と思ってる内に映像に引き込まれ、峯田くんが歌う動画を片っ端から観ている内に一日目が終わる。
 翌日、智子がやってきて喧嘩になった。私は朝からFコードと格闘していた。
 「何してんの?」智子はマジで怒った。「なんで辞めてギター弾いてんの?」
「私、前からやってみたかったんだよ」
「そんなの趣味でしょ」
「上手くなりたいから。本気で上手くなりたい」
「上手くって……」智子が深く息を吐く。
「私たち幾つか分かってる?」
「三十五」ボローン。あれ、今澄んだ音が一瞬きこえた?
「仕事辞めてどうするの? ギターが多少上手くなって、その先に何があんの? 再就職、めちゃくちゃ難しいよ。ギター弾いてる場合じゃないよ」
「智子は何になりたかった?」
「何?」智子が返答に窮する。
「私、高校の時にゴイステに出会って銀杏ボーイズになってから聴かなくなって、就職してここまで来たけど、この間久しぶりに峯田くんの動画観て本当に心を撃ち抜かれたんだよ。なりたいものなんてずっとなかったから、私はいまやりたいことをやってみたい」
 そんなことで説得される智子ではなく、終始不機嫌だったけど、そんな貴女が好きなのよと歌ったら頭を叩かれ結構痛かった。
「世界中のあらゆる争いを私は止めることができない、私には私としての体が一つあるだけで、私の足りない脳が一つあるだけで、すべてを解決するアイデアなんて到底持っていないから、私にできることは私の肉体が、声が届く範囲の人々に優しくすること、暴力は罪だと、国家は一人一人の肉体からできていて、前線で気の触れた兵士には家族がいることや、目の前で母親を犯された子供の将来のことや、そういう悲しみに向き合えるだけ向き合うということ、向き合えるだけ向き合うということ! それ以外に、ない」
 しまった架空のロックインジャパンに出ていた!
 全然上手くならない。
 二週間ほどの練習で指にはタコができ、硬くなっていたが、技術の向上はどう考えても暗礁に乗り上げて船底がガスガス削れている。それでも一日中弾いていれば、ゴイステの曲をなんとか完奏できるようになった。でもそうしてあの頃熱狂した曲達を弾いて歌ってみても何か満たされなくて、私はやっぱり自分の口から出るのは自分の歌であってほしいようだった。
この間、私の退職を知った両親に滅茶苦茶に怒られるなどしたが、それは割愛。
「そういうキャラじゃなかったじゃん」
 智子が壁にもたれながら言う。智子は週末になると私の部屋に入り浸るようになっていた。
「人生を棒に振るようなキャラじゃさ」
「キャラとかじゃなくて、私は私を生きたくなったんだよ」
「なんか嘘くさい」
「嘘か本当かで喋ってないもん」
 曲作りは難航した。コードを弾いて言葉を待つんだけど、二束三文な、うっとり自意識な言葉ばかりで泣きそうだった。違うんだよー違うんだ、生きるってすばら、なんだけどうおーぐおーってぬらついた内臓を通ってくる声の塊がさ? なんで胸を打つかってこと考えるんだ。朝が来る。やばばばば。
 一週間後、智子が来るのを待って、「熱海行くぞ」と電車に乗った。智子はすごい勢いで戸惑っていて、ほとんど泣きそうな顔で「私の知らないみずほしかいないんだけど」と嘆いた。電車は緑の中を進み、温泉街に辿り着いた。
予約していた宿で温泉に浸かり、豪勢な夕食を食べた。暗くなって海辺では花火が上がり、私も智子もうわー、と呟きながらそれを見た。花火は網膜をきらきらと照らした。闇をスクラッチして出てきたみたいに、この世のもので何番目かに美しかった。次のが上がるまでの間に何を言おうか考えていた。
私の鞄の中にはできたばかりの歌がある。
いまここで歌おうか?

 マジで出てるじゃん、というナトリの声が聞こえた。私の頬の上にすっと温もりが線を引いた、マツコが人差し指でそれを拭って笑う。この子すごいでしょ、ミツメっていうの、と私は紹介され、頭をくしゃくしゃと撫でられた。ナトリは左耳のピアスとかから中性的な匂いのする男の子、まだ大学生だと思われた。なにを考えて泣いてるの、と彼が訊いて私は苦労人の芸人が解散するとこ、と答えたところうけた。人の波がすごくなっていた、運営側がハコのサイズをミスったんじゃないかというくらい、まだ始まってもないライブ会場は熱狂を隠しきれていない。『犬猫フェンダー』の一年ぶりとなる単独、レコ発ではない、ただボーカルが学業に専念するためという理由の充電期間を経て今宵復活する。まさかこんなに待っている人がいたなんて、当人たちですら思ってないんじゃない? 後ろの人がまた前に詰めてきた。ナトリがそっちをちらっと見た、目が合ったのは鼠色のコートを着た中年の男性だった。ナトリの目をじっと見返したので、ナトリは中学時代の嫌いだった担任の目を思い出して逸らした。殴ったのはあいつがゴトウをバカにしたからだと最後まで言えなかった、担任は画質の粗いカメラみたいな目でナトリを見ていたのだ。

 タイムラインがやばい!  ハッシュタグ『犬猫フェンダー』で検索してみ、とマツコがいった。マツコはいつもエモいものを探している十個上の親友だ、派遣社員としてスマホを売っているだけあって、いつでもスマホを触っている。それは私にとってほとんど安定剤みたいなものだ。初めてマツコと会ったとき、彼女は激しく頭を振っていて、金髪のショートボブが吹っ飛びそうだ、それをスポットライトが写真にしたみたいに切り取った瞬間があった。そのことを鮮明に覚えていて、次のライブで話しかけたのだ。話しかけられたとき、てっきりミツメに喧嘩売られたのかと思った、はは、当時犬猫のファンてイカれたのが多くて、ファンをひとり殺せば少しメンバーに近づけるかのようにね、と彼女はいう。煙草吸いたー、でももう始まるっしょ、ミツメさんは仕事なにしてんの? なんだと思う? えー、保育士。うわ、こわっ、なんでわかんの? 勘だよ勘。そうなんだよ、やってます、保育。俺も教免持ってる、使わないけど。保育士超ブラックだよね漆黒だよね。ほんとほんと、彼女たちの会話に私は内心うなずいていた、ミツメと呼ばれる女の子はうしろ髪に比べて前髪がやや長い特徴的な髪型をしていたが似合っている気がした。長めの煙草を吸っていそうな、と私は思う。それにしても混んだな、こんなに混むなら来なくてよかった、高校から一人暮らしを始めたあのバカのライブ。私を殺しそうな目で見たあいつの、指先が弦の上をどんな風に滑るのか、たしかめる気が起きたのはなぜだったか。非行少年、ここに夢を果たす? くそみたいな話だな。


「つねったんですか?」
 低い声をさらに低くして、皺という皺をさらに深くして園長が私に訊く。脅しているみたいな声。
「ないです」
 私は応える。そこで園長はため息をつく。眼鏡をたぶん、わざと鼻の方にずらし、上目遣いに睨む。
「でもですね、じゃあみさとちゃんは、どうして嘘をつく必要があるんですか?」
「私はやってません」
「答えになってない」
「私のことがきらいなんでしょうね」
園長が口を半端にひらく。長年の煙草でうすく茶ばんだ前歯が見える。
「あなたの職業はなんですか?」
 園長の声がスピーカーを通したみたいに割れた。私は無言で彼女の目を見返した。


 で、結局どっちなの、とナトリが訊いたとき暗転した。短い悲鳴みたいな声があがる、ジェットコースターが落下し始める直前の、ひゅっという喉の音。暗闇のなか人影が姿をあらわす。ぐっと息を殺す音。四人がそれぞれの調整を手短に終えて、斧のような轟音ギター、最前列はもう走り出しそうな衝動で、後列ほど他人事とは思えない。ほとんど自分がステージにいるみたいに緊張している、手が震えている。ここに来るためにいままでの私がいたといっても過言ではない。あ、これはSNS行き、その時どしゃあっとキーボードのリフが降ってきた、いきなり『system』から! 涙! これが本物だ、本物の涙だ! いきなり『system』で私はわけがわからなくなる、私のなかの蓄積が『system』で溶かされていく。ずぶずぶと沈んでいく。ひとりずつ順番に暮らしを抜け出して街灯をたよりに東へ東へ。安全な陸地は失われてしまったもう悲しみにふける人さえいない。私はいま思い出していた、風呂場で唄っていたわが子を。その姿を目をつぶって振り切った。黒のなかで息子の声がする。ほとんど泣いてるみたいな声だ。カナヤが唄う、空気と擦れるような声で、ドラムの爆発音、足下をベースが這い、我々は船の上の一団のように同じ振動に体を震わせる。みさとの嬉々とした声が浮かぶ、UVカットで白いままの肌、みさとちゃんも外でようよ、でないの、でようよ、私の手が彼女の腕に触れる。痛い、痛いよ、彼女の声、もうつよい意思をもつ大人の声みたいでたじろぐ、外からあがる歓声にふと私は目をやる。陽光が庭から射し込んで床を白く染めていた。ドラムが最後の一拍を叩いた。みさとの肌が温かい。

徳島の生活

 SUUMOを開き、徳島をえらぶ。縁もゆかりもない土地だから、とりあえず電車の路線で検索してみる。ほとんどJRしか走っていない。地方に行くとそういうものなのだろうか。考えてみれば横浜の外に出る機会は年々減っていて、旅行にも行かない。この土地以外のことを知らないのだ、と思うと気持ちがしずんだ。
 適当に検索し、もちろんまったく知らない駅名ばかりが並ぶなか、教会前という駅を見つけた。昔住んでいた家の向かいが教会で、日曜の礼拝などに何度か参加した経験が思い出されて、なんとなくクリックした。 写真付きの物件リストが縦にならぶ。やはりこちらにくらべて破格に安い。白っぽい塗りの二階建てアパートを見つける。よく晴れた日に撮られた写真だった。陽光が壁に反射して輝いているみたいだった。家賃は二万円台。徒歩56分? これは徒歩で示すべき距離なのだろうか。わからなかったが、とにかくそこに当たりをつけ、室内の写真を眺める。ユニットバスなのが気になるが、これからひとりになるのであればトイレと風呂が一緒なくらい、気にはならないのかもしれない。
「なにみてるの」
 背後からの声に、反射的にブラウザを閉じていた。「うん」と言葉を濁しながら答え、振り返る。腫れぼったい顔をした夫が冴えない立ち姿でいた。「パン焼くよ」といって私はローテーブルから立ち上がったが、夫は「大丈夫、駅で買う」といってソファに座り、窓の外を見ながら大きなあくびをした。私は曖昧な顔でノートパソコンの脇のマグカップを持ち、シンクに持っていった。蛇口をひねり水の音がシンクに反響する。


 件名:駅に進入してくるときの列車の速度について


 初めてメールします。駅に進入してくるときの列車が、速すぎるのではないかと思っています。まず第一に音がうるさい。鼓膜を突き破るような音です。巨体ですから突風は仕方ないとしても、ブレーキ音はなぜあんなに耳に障る甲高い音なのですか。だいたい電車はどこにいたってうるさい。昔住んでいたアパートが線路沿いにあって、それはそれ込みで借りたのですが、それにしたって線路を行き交う電車の音が大きくて、驚いてしまいました。どうしてこれだけ文明が進んでいるのに、電車の騒音はたいして変わってないのでしょう。
 とにかく問題はホームに入ってくる速度だと思うのです。遅くなれば、その分乗客の安全も確保されます。もちろん騒音も減りますし、飛び込み自殺の件数も減ります。ご検討よろしくお願いいたします。


 教会前駅から四角く敷かれた道路を南へ下っていく。途中何本かの川をわたってさらに下にスクロールしていくと、私の目指すアパートがある。赤いピンがそこに突き刺さっていて、私はそれをお気に入りに入れる。住所は漢字ばかりが並んでとても長かった。これは住所を書くのに手間だな、と思う。東側に緑色の地帯がずーっとつづく、と思ったらここは飛行場なのだ。徳島阿波おどり空港。やはり徳島といえば阿波おどりなのか。私の脳裏にあのリズミカルな三味線の音がよみがえる。しかし実際には聞いたことがないし、その音が三味線であるのかもわからない。阿波おどりの季節は夏、だろうか。湿り気のある風がからだを包むところ、じわじわと衣服と肌の間ににじむ汗、上気した顔。それはまるで実感のないことなのだが、 未来の自分がそこにいるかもしれないのだと思うと、まるっきり想像だけでもないように思える。 二辺を海に、残る二辺を川に 囲われたこの、おそらく埋め立てられた土地がどうやってつくられたのか、明日はそれを調べることにしてブラウザを閉じた。


 リビングの、夫の足音で目をさました。ぼうっとする頭でいまここにいない自分のことを考えてみる。世界に接続されていないいまの私ならばどこにでも存在できるのではないか。それはまるで 人魂のように揺蕩って車をすり抜け、眠る猫を素通りし、 だれかとすれ違う。だれかはコンビニ袋を左右に持ち代えながら、ときどき車が追い越していくだけの道路を歩いていく。 真夜中の川が見える。水が無いみたいに静かだ。自分の息づかいが耳の内側で響いている。浸透圧のように静寂に呼吸音が忍び込み全身が包まれる。自分が自分で満たされると孤独になってしまうから、彼はYOUTUBEを開く。
 夫の気配がしなくなった。リビングのソファにもたれ、そのまま眠ってしまういつもの癖が出ているのだろうか。それともいつの間にか寝室に入ってきたのだろうか。目をつむっている間はすべてが確定しない。夫が家のなか、どこにいてなにをしているのか、すべて確定させないままもう一度眠ろうとする。いつもそうするように、 底の見えないすり鉢状の斜面をゆっくり下に降りていく。そのうちに瞼の厚みが増していくような感覚がある。


「これはなに?」
レジにやってきた老婆は身なりが汚なかった。髪は白に黒が混じり ところどころほつれて、服は使い古したカーテンをからだに巻いている、といった具合だった。彼女が手に持っているのはミニトマトの鉢植えだった。「ミニトマトです」というと納得してないような顔をしてもう一度鉢植えを見てから、無言でそれをレジに置いた。
「お買い上げですか?」と聞くと、老婆は突然眉をつり上げ、「当たり前だろ!」と怒鳴った。私はすみません、と頭を下げてから、土の上に刺してある札のバーコードを読み取った。
「あのおばあちゃん、毎回聞いてくるんですよね」と、老婆が去ったあとで近づいてきた同僚の大角さんがレジ袋を整理しながら言った。「駅向こうの商店街の方に住んでるんです。道路にはみ出して色んな野菜の植木鉢があります。だいたい枯れてるんですけどね」
私はその景色を見たことがない。だがなんとなく想像できた。老婆が自動ドアの向こう、 駐車場を出ていくところだった。 ミニトマトを持った腕と反対側にからだ全体が傾いている。


 Googleストリートビューで拠点周辺の散策ルートを考えてみる。あまり熱心にスマートフォンを見ていると夫が気にするから、ときどき目をやるくらいで、映画の上映中はもちろん見ることはなかった。映画は夫が以前から観たがっていたもので、片道15分ほどのショッピングモールにある映画館に来ていた。映画はそれなりに面白かった。鑑賞後のふわふわした心持ちで下の階に下りると、噴水前に人だかりができていて、私は歩みを緩めた。しかし夫は噴水と反対側の、海の見える大きな窓の方を見たまま速度を落とさなかったので、私も止まらずにその人だかりの後頭部を見るしかなかった。愉快げな音楽が流れていたから、たぶん大道芸の類だろうと思った。
 夫が歩きながら「主演俳優の名前なんだっけ」と訊いてきた。私はミドルネームの入った長い名前を答える。「よく覚えてるね」と夫は言った。夫が知らないだけで彼は有名なスター俳優なのだ、ユダヤ人の収容所があった町で生まれたオーストリア出身のたぶん一番有名な俳優。でも、知らないということが全然有り得るのだ。壁に守られた場所で、津波が壁を越えるその瞬間まで気づかないということが、往々にして。もちろん、私だってたくさんのことを知らない。
 夫は自分のスニーカーをちらちらと見る。新しくネット通販で買った靴だ。汚れないか心配なのだろう。私は再びスマートフォンを開く。両側を生垣に囲まれた道の先に、ビビッドな色合いの建物が見えてすこし気になった。しかしそこに着く前に、再びスマートフォンを閉じるだろう。


件名:車内の床の黄ばみについて


 二度目の投稿になります。先日貴社の電車に乗っていてふと足下を見たところ、私の足の真下にわずかではありますが黄ばみがありました。
 それでそれは何なのか考えたのですが、人々の足というのはたぶんそれだけ汚れているんですね。町を歩く、便所に行く、ガムを踏む、なんてことの繰り返しが町で生きるということなんだと思ったのです。私たちはドラえもんみたいに地面からちょっと浮いて生活することはできないですから。
 私の座っているこの席に、いったいどれだけの数の人が座ったんだろうかと考えてしまうんです。その人たちそれぞれにまったく交わらない生活があると思うと、なぜか胸がざわざわしていきました。おかしいと思います。そんなの当たり前のことで、平然と飲み込まなければいけないことなのに、なぜか立ち止まってしまう。昔からそうです。
 ざわついた気持ちで辺りを見回すと、それぞれの乗客が妙に生々しく見えてきて、蟻の群れを細かく見ているような気になってしまって気分が悪くなり、思わず開いたドアから降車してしまいました。そこは降りるべき駅からまだ二駅ほど手前でした。でもここに留まってまた電車を待つよりは、歩き続けたいという気分になって改札を出ました。どこの町にいってもまず耳に入ってくるのはパチンコ屋の音という気がします。ジャラジャラと金属が流れていく音。甲高くて鼓膜をつねられているような感覚で、嫌いです。私は徳島への移住を考えているのですが、徳島にはパチンコ屋が少ないといいなと思います。
 それで駅から商店街のある下り坂をすこし行ったところに、ドラッグストアがありました。私が働いているのと同じ会社の店舗でした。トイレットペーパーなど、買わなくてはいけないものがいくつかあるのを思い出して、店内に入りました。店内は当然私が通っているお店とは違う風景でした。レイアウトも従業員もおそらく客層も違う店内をうろうろと歩いて、冷凍食品が安かったので思わずカゴに入れてしまったりしました。
 それでレジの方に行くと、なかなかの長い列ができていました。スタッフが足りてないのか、レジは二つしか開いていませんでした。思わず助けに入ろうかと思ってしまいました。私が並ぶレジにいたのは大学生くらいの若い女性でした。精彩のない顔色をしていて、手もとの動きも悪くてハラハラしてしまう。でもあとから思ったのですが、もしかしたら彼女は生理中だったのかもしれません。普段はもっときびきびとした人なのかもしれません。
 それで、そのレジに老婆が割り込んできたんです。レジの流れに逆らって、袋づめコーナーの方から彼女に話しかけてるんです。一目見て、私の店舗によく来る老婆だとわかりました。その手には紙コップが握られていました。何かをしつこく店員の彼女に聞いているのです。店員の女性は何度か短くそれに答えました。それでも老婆はまた何か質問しました。会計の途中の30代くらいの男性が苛立った様子で立っていました。私の胸がまたざわざわと苦しくなりました。そのとき、店員の彼女が言いました。
「ちょっと待ってって言ってるでしょ!」
場の空気が凍っていました。彼女は会計を続けました。ピッピッとスキャンの音が私のところまで聞こえました。というかそれはずっと鳴っていて、私が気にしなかっただけなのだと思います。
 私は列を離れました。そこにいることはできなかった。買い物かごを人気のないコーナーにそっと置いて店を出てしまいました。だから冷凍食品が、たぶんだめになってしまったのではないかということが気がかりです。
 と、ここまで書いて、これは全然こちらに書くことではなかったと反省しています。貴社にお伝えしたかったのは黄ばみについてのことだけです。おそらくこれを読まされる方がいるのでしょうが、大変気の毒だと思います。ですがこのまま投稿してしまいます。ごめんなさい。


 夫がいつもより早く帰宅してきた。私はパソコンの前から素早く離れてソファに座っていたふりをして彼を迎えた。
 夫は、ただいま、と言ってから緑色のビニール袋に入った何かをダイニングテーブルに置きました。そこには本が入っていた。徳島のガイドブックだった。
「徳島、気になってたみたいだったから」夫は靴下を脱ぎながら言った。
「来月、仕事の方もそんなに忙しくないから久しぶりに旅行もいいかなって」
 私は無言でガイドブックを見つめた。足下がぐらぐらと揺れているようだった。「うん」と答えて寝室に向かった。どんな顔をしていいかよくわからず、なぜか涙が出ていた。寝室に入ってベッドに腰掛けて、暗い部屋のなかでカーテンを見つめた。カーテンの向こうの窓の向こうの町のさらに先に徳島の町に住むだれかがいて私を見つめていた。

 それから十年が経った。一人になった私だったが、徳島に足を運んだことは一度も無い。